【第20話】
半年という月日が、ダスクマーレの泥濘を幾度も凍らせ、そして溶かした。
街の最下層に位置する、旧帝国時代に建てられた分厚い石造りの倉庫。
雨漏りが酷く見捨てられていたその廃墟は、今や修繕され、冷たい隙間風を遮る堅牢な扉が嵌め込まれている。
部屋の中央に置かれた長机の上で、赤銅貨と少数の銀貨が鈍い音を立てて積み上げられていた。
「今月の護衛と、裏の揉め事の仲裁料。しめて銀貨二十枚と銅貨が少々ってところだね」
帳簿から顔を上げたペトラが、羽ペンを回しながら息を吐き出した。
泥の街に不釣り合いなほど整頓された空間。
部屋の隅では、エラが小さな鉄炉で苦草茶を煮出している。
特有の土臭い香りが、冷えた石壁の間にゆっくりと満ちていた。
無一文から始まった彼らの資金は、アイゼンブルクの商人たちの護衛と、ペトラが差配する情報売買によって、確かに一つの『重さ』を持ち始めていた。
ギィ、と。
重厚な扉がきしみを上げて開き、外の湿った空気と共に二つの影が入り込んできた。
先頭を歩くのは、肩に大剣を担いだクロードだ。
そしてその後ろから、ひどく足音の少ない、初老の男が音もなく室内に足を踏み入れた。
五十代半ばだろうか。
日に焼けて革のように硬くなった皮膚と、白髪の混じった短い髪。
男は部屋に入るなり、ヴェインたちには目もくれず、真っ直ぐに見上げるようにして天井の石組みと、部屋を支える太い柱の接合部をじっと観察し始めた。
「南の戦場から流れてきた、元帝国軍の工兵だ」
クロードが、面白くもなさそうに顎で男をしゃくった。
「酒場の裏で、崩れかけの土留めを木の切れ端だけで直しやがった。剣は振れねぇが、お前が探してた『目』を持ってるかと思ってな」
ハインツと呼ばれたその男は、ヴェインが近づいても視線を柱から外さなかった。
ヴェインは男の横に立ち、その分厚い両手を静かに見下ろした。
クロードのような、人を殺すための剣ダコではない。
土を掘り、石を砕き、木を削ることで変形した、大地をねじ伏せるための無骨な指の節。
「……良い石組みだ。だが、西の壁の裏に水が溜まっている。三年以内に基礎から腐るぞ」
それが、ハインツの最初の言葉だった。
挨拶もない。
ただ、物理的な構造の欠陥だけを指摘する。
ヴェインの薄灰色の瞳の奥に、静かな熱が灯った。
人の感情や嘘を見抜く目ではない。
この男は、世界の骨格そのものを読み解く目を持っている。
ヴェインは一歩だけ退き、低い重心のまま男と向かい合った。
「あなたに、道を作ってもらいたい」
静寂が、部屋に落ちた。
エラが茶を注ぐ手を止め、ペトラが帳簿から顔を上げる。
「このダスクマーレの泥濘と、アイゼンブルクの石畳を繋ぐ、強固な街道だ。泥に沈まず、雨に流されず、重装の荷馬車が季節を問わず往来できる物流の動脈。それを、あなたの手で設計し、敷いてほしい」
ただの傭兵団の頭目が口にする規模の事業ではない。
それは明確に、領土を持たない王による『内政』の始まりだった。
ハインツは初めて柱から視線を外し、目の前の若者の顔を見た。
狂人の戯言か、それとも本気か。
数秒の沈黙の中で、老工兵の濁った瞳がヴェインの覚悟の底を測る。
「金は?」
嗄れた声が、短く問うた。
「出す」
「いつだ」
ハインツの問いに、ヴェインは瞬き一つせずに答える。
「三ヶ月後に、第一回を払う。それまでは、測量と資材の算段だけを進めてくれ」
手元にそれだけの資金はない。
だが、三ヶ月以内に必ず作り出すという為政者の確約。
ハインツはヴェインの瞳をじっと見つめ返し、やがて短く息を吐き出すと、無言のまま深く一つだけ頷いた。
忠誠の誓いなどない。
ただ、己の技術を注ぎ込むに足る『地盤』がそこにあると認めただけの、職人としての肯定だった。
夜。
ハインツに裏手の寝所をあてがい、クロードが夜番の巡回に出た後。
ペトラが帰り支度をしながら、思い出したように口を開いた。
「そういえば、最近この街のゴロツキどもの間で、妙な噂が広まってるのを知ってる?」
「噂?」
ヴェインが羊皮紙の地図から顔を上げる。
「ダスクマーレで揉め事が起きたら、とりあえず『灰色の旦那』のところへ持っていけってさ。力ずくで叩き潰されるか、両方が得をする落とし所を見つけてくれるって」
ペトラは肩をすくめ、小さく笑った。
法も秩序も存在しなかった泥の吹き溜まりに、ヴェインという男が持ち込んだ冷徹な計算と武力が、一つの『法』として機能し始めている証左だった。
ヴェインは地図へ視線を戻した。
そこに描かれているのは、アイゼンブルクとダスクマーレ、そして遥か東のグレイヴァル。
まだ国境も城壁もない。
しかし、今日ハインツという男を得たことで、この羊皮紙の上に、確かに一条の『道』が引かれたのだ。
ヴェインの掌の古い傷跡が、微かに熱を帯びて脈打っていた。




