【第19話】
アイゼンブルクの城壁外縁部。
百年以上前に放棄された旧帝国時代の石造りの倉庫は、崩れ落ちた天井の隙間から冷たい秋の夜風を絶えず招き入れていた。
カビと湿った土の匂いが立ち込める暗がりの中、カンテラの頼りない灯りを囲むようにして、五人の男が立っている。
ヴェインとクロード。
そして、クロードがダスクマーレとアイゼンブルクの下層から拾い上げてきた、三人の傭兵たちだ。
いずれも顔や腕に消えない刃の傷を持ち、重心の低い立ち方をしている。
南の戦場で生き残りながらも正規軍に居場所を見つけられず、泥水を啜ってきた本物の獣たち。
「グレイヴァル辺境領の奪還を目指している」
ヴェインの低く平坦な声が、石壁に反響した。
「今は、お前たちを雇い上げるだけの潤沢な資金がない。だが、奪還に成功した暁には、グレイヴァルの豊かな土地を恩賞として与える」
男たちの顔には、何の熱狂も浮かばなかった。
彼らは英雄の演説を聞きに来たわけではない。
明日の胃袋を満たすための手段を求めてここにいるのだ。
最も年嵩で、左耳を欠損している男が一歩前に出た。
「領主様の首を獲った後の土地なんざ、今日の黒パンの足しにもならねぇ。俺たちは夢じゃなく、その日を生きるための金が欲しいんだ」
極めて真っ当な実利の要求だった。
ヴェインは表情一つ変えず、懐からイゾルデの後ろ盾を得て引き受けた、次なる商団の護衛依頼書を取り出した。
「ならば、当面は私と共にギルドの護衛任務をこなし、その報酬を日々の対価として受け取れ」
ヴェインの薄灰色の瞳が、三人の男たちを順番に射抜く。
「その上で、グレイヴァルを取り戻した際には、お前たちに優先して望む土地を選ぶ『権利』を与えよう。金で腹を満たしながら、未来の領地を担保にする。これでどうだ」
カンテラの炎が、微かに揺らいだ。
男たちの視線が、ヴェインの目から、その背後で腕を組んで立つクロードへと移動する。
クロードは何も言わず、ただ退屈そうに鼻を鳴らしただけだ。
だが、この圧倒的な暴力の化身が、無一文の若者の背後に立って従っているという事実こそが、最大の説得力を持っていた。
左耳の欠けた男が、短く息を吐き出し、深く顎を引いた。
それが、グレイヴァル奪還を目的とする最初の私兵——たった三人の軍隊が結成された瞬間だった。
倉庫での密会を終え、霧の立ち込める裏街を歩く帰り道。
先頭を歩くクロードとは少し距離を空け、ヴェインの隣にはいつの間にかエラが並んで歩いていた。
彼女は泥濘を避けることもなく、淡々とした足取りで石畳を進んでいる。
「ヴェイン」
不意に、エラが夜の闇を見つめたまま口を開いた。
「旗は、ないの?」
ヴェインの歩みが、ピタリと止まった。
「旗?」
「うん」
エラも立ち止まり、不思議そうに首を傾げた。
「仲間を集めるなら、目印になる旗が要るんじゃないかなって」
ただの素朴な疑問だった。
しかしその言葉は、ヴェインの頭蓋の奥に冷たい稲妻のような閃きをもたらした。
人は、金や恐怖だけで命を懸けることはできない。
集団を一つに縛り上げ、巨大な敵に立ち向かわせるためには、大義を視覚化した『象徴』が必要なのだ。
国家という機構を動かす王にとって、それは剣よりも重い武器となる。
ヴェインはゆっくりと顔を上げ、アイゼンブルクの夜空を見上げた。
分厚い雲に覆われ、星一つ見えない空。
光を拒絶し、闇にも染まりきらない、重く濁った色。
グレイハルトの家名が示す色。
「……灰色でいい」
夜霧に溶け込むような、静かな呟き。
「どちらにも染まらない色だ」
光冠教の神聖な白でもない。
巨大な軍事国家ヴェルミリアの暴力的な赤でもない。
そして、バルトたちが振るう漆黒の恐怖でもない。
すべてが燃え尽きた後の灰の中からのみ立ち上がり、いかなる強国にも迎合しないという冷徹な決意。
エラは「そう」とだけ短く呟き、再び前を向いて歩き出した。
ヴェインは自分の右手を——かつて何も掴めなかったその掌を見下ろし、強く握り込んだ。
見えない灰色の旗が、彼の胸の奥底で、初めて重々しい風を孕んで翻っていた。




