【第18話】
アイゼンブルク商業ギルドの裏手にある、高位の商人だけが立ち入りを許される豪奢な会員制酒場。
その奥まった個室で、ヴェインは分厚い羊皮紙の束に静かに目を通していた。
数刻前、会頭であるイゾルデが「最初の投資よ」という短い言葉と共に、彼の手元へ滑らせていったものだ。
それは東方交易から帰還したばかりの商人たちから吸い上げた、グレイヴァル辺境領の最新の報告書だった。
扉の向こうからは、極上の葉巻の煙と共に、商人たちの生々しい会話が絶え間なく漏れ聞こえてくる。
「――ガレン卿の取り立ては異常だ。冬を越すための種籾まで没収して、ヴェルミリアの軍へ献上しているらしい」
「――実務を取り仕切っているバルトって男の私兵が酷い。少しでも税を誤魔化そうとした村の長老を、見せしめに広場の木に吊るしたそうだ」
「――たまらず土地を捨てた農民たちが、何家族も西のダスクマーレへ逃げ出している。道中で野盗に狩られるか、飢え死にするかもわからんのにな」
商人たちの声には、同情よりも「東の商売がやりにくくなる」という算盤の不満だけが滲んでいた。
ヴェインは羊皮紙から視線を外し、ゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏に、かつて父と共に馬で巡回した故郷の風景が広がる。
春には雪解け水が銀流川を潤し、秋には黄金色の麦穂が風に揺れていた豊かな谷。
それが今、叔父の強欲と大国の影によって、見渡す限りの枯れ野へと変貌しつつある。
領主ガレンは、ヴェルミリアという巨大な獣の機嫌を取ることに心血を注ぎ、自らの足元で民の血が流れていることには目もくれない。
そして冷徹な補佐役であるバルトが、その歪んだ統治を実務として完璧に執行しているのだ。
ドン、と。
無意識のうちに、ヴェインの右拳が分厚いオーク材のテーブルを叩いていた。
深い刃の傷跡が刻まれた掌から、鈍い痛みが骨を伝って脳髄へと駆け上がる。
呼吸が浅く、熱を帯びていた。
血管の中で、鉛のように重く冷え固まっていたはずの怒りが、音を立てて沸騰し始めている。
今すぐ剣を抜き、東へ馬を走らせたい。
あの裏切り者たちの首を刎ね、広場に吊るされた領民たちを解放したい。
その強烈な衝動が、理性の防波堤を激しく打ち据える。
(……まだ早い)
ヴェインは奥歯を噛み締め、燃え盛る激情に冷や水を浴びせるように、心の中で低く呟いた。
(今動いても、確実に負ける)
バルトの率いる正規兵と、背後に控えるヴェルミリアの軍事力。
それらと正面から衝突すれば、今の自分など数日で塵となる。
為政者たる者、民の血の匂いに感情を支配されてはならない。
勝てない戦を挑むことは、蛮勇ではなく、領民を見殺しにする最大の愚行だ。
ヴェインは大きく息を吐き出し、乱れた呼吸を無理やり平坦なリズムへと戻した。
羊皮紙を折り畳み、懐へとしまう。
その手は、先ほどの熱が嘘のように、氷のように冷え切っていた。
その夜。
安宿の硬い寝台の上で、ヴェインは浅い眠りの中にいた。
夢の輪郭はひどく曖昧で、色彩を欠いていた。
どこまでも続く灰色の雪野原。
その中心に、流行り病で呆気なく逝った父が立っている。
父の大きな手が、幼いヴェインに木剣の握り方を教えている。
剣ダコに覆われ、土の匂いのする、温かく分厚い手。
『――剣は、最後の手段だ』
父の低い声が、静かに頭蓋に響く。
『言葉を尽くし、知恵を絞り、それでもどうにもならず、誰かの命を守らねばならない時にだけ抜くものだ。王冠の重さとは、抜かなかった剣の重さなのだからな』
直後。
父の手が突然、冷たい刃となってヴェインの掌を深く切り裂いた。
鮮血が雪を黒く染め上げる。
父の姿はどこにもなく、代わりにバルトの事務的な硝子玉のような目と、首を吊られた名もなき農奴の揺れる足元が、猛烈な吹雪の中に浮かび上がった。
ハッとして、ヴェインは目を開いた。
背中を大量の冷や汗が伝い落ち、心臓が肋骨を突き破らんばかりに早鐘を打っている。
暗闇の中で荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと右手の傷跡を左手で包み込んだ。
夢の中で感じた父の温もりはとうに消え失せ、あるのは硬く引きつった傷の感触だけだ。
視線を上に向ける。
雨漏りの染みが広がった、安宿の煤けた天井があった。
夜明け前の、青白く底冷えのする光が、窓の隙間から細く差し込んでいる。
隣の部屋からは、クロードの重い鼾と、時折寝返りを打つエラの衣擦れの音が微かに聞こえてくる。
ヴェインは起き上がることもなく、ただ静かに、その夜明け前の薄闇を睨みつけ続けていた。
守るべきものを犠牲にしてでも、冷酷な盤面を完成させねばならない。
その罪の重さが、冷たい天井から彼の上へと、音もなく降り積もっていく。




