【第17話】
巨大な地下酒場に、一日のうちで最も静かな時間が訪れていた。
昼の客が引き、夜の喧騒が始まる前の僅かな隙間。
大通りへと続く通気口の鉄格子から、午後の斜光が幾筋も差し込み、淀んだ空気の中を漂う無数の埃を黄金色に透かしている。
ヴェインは最も暗い壁際の席に身を潜め、音を立てずに苦草茶の縁を指でなぞっていた。
視線の先。
光の当たるカウンターの端で、エラが両手で木製の丸椅子を抱え込むようにして座っている。
その向かい側には、空のジョッキを磨いているペトラの姿があった。
二人は何かを話しているがここからでは声は聞こえない。
だが、ヴェインの薄灰色の瞳は、ペトラの横顔に起きた微細な変化を正確に捉えていた。
裏街の泥水を啜って生きる女特有の、相手を値踏みするような険が消え去っている。
目尻が緩み、口元には自嘲ではない、ひどく柔らかで年相応の弧が描かれていた。
ペトラが笑っている。
計算も対価も求めない、ただ一人の人間としての無防備な表情。
それを引き出しているのが、何の武装も持たないエラの平坦な相槌であるという事実が、ヴェインの胸の奥に奇妙な波紋を投げかけていた。
数時間後。
夜の帳が下り、酒場に酸っぱいエール酒の匂いと怒声が満ち始めた頃。
宿へ戻るために階段を上りながら、エラがふと口を開いた。
「ペトラって、お母さんのことが好きなんだよ」
前を歩くヴェインの背中に向かって、ぽつりと落とされた言葉。
「昔、東の小さな村で一緒にパンを焼いていたんだって。その時の匂いの話をしてくれた」
「……そうか」
ヴェインは立ち止まることなく、短い相槌だけを打つ。
「でもね」
エラの鳶色の瞳が、地下へと続く暗い階段を振り返る。
「会いたいとは、一言も言わないんだ」
ヴェインの革靴が、石の階段を踏みしめる音が一瞬だけ鈍った。
愛しているのに、会いたいとは言わない。
いや、言えないのだ。
このアイゼンブルクの最下層で情報屋として生きるまでに、彼女がどれほどの泥を被り、どれほどの誇りを捨ててきたか。
家族の温もりを思い出すことと、その温もりの中へ帰る資格があるかどうかは、まったく別の問題だ。
致命的な矛盾を抱えたまま、誰にも触れさせずに生きていく。
(……彼女もまた、灰の中に立っているのか)
ヴェインは何も答えないまま、冷たい夜霧の立ち込める大通りへと歩みを出した。
翌朝、ヴェインはペトラを探す前に、一つだけ確認したいことがあった。
アイゼンブルクに来てから耳に引っかかったままの名前。
路地の立ち話に混じって、行商人の愚痴の端に、酒場の喧騒の底に——同じ名前が何度か浮かんでは消えていた。
「ハウトという商会を知っているか」
手を拭きながら通りかかったペトラの背中が、ほんの一瞬だけ止まった。
止まったことに、ヴェインは気づいた。
「……知ってる。なんで」
「以前、あなたが言っていたから」
ペトラがゆっくりと振り返る。
探るような目でヴェインを見た後、周囲に視線を走らせる。誰も聞いていない。
それを確認してから、声を一段落として椅子を引いた。
「近づくなって言ったはずだけど」
「近づくつもりはない。ただ知りたかった」
ペトラは少しの間、テーブルの木目を見つめた。話すかどうか測っているような沈黙だった。
「……あの商会は武器も食料も情報も、何でも扱う。大陸の西半分の流通に、見えないところで指を突っ込んでる。でも表には絶対に出てこない。それが全部」
「頂点は誰だ」
「知らない」とペトラは即答する。
「知ろうとしたことも、ない」
その答えは早すぎた。
ヴェインは何も言わなかったが、ペトラが「知ろうとしない」ことを意識的に選んでいることは伝わった。
「わかった。ありがとう」
ペトラが立ち上がりかけて、止まる。
「……一個だけ聞いていい?」
「何だ」
「あんた、ハウトと戦うつもり?」
ヴェインは少しの間、ペトラの目を見た。
「今は、知るだけだ」
ペトラが「そう」と言って立ち上がる。それ以上は聞かなかった。
翌晩。
ヴェインは再び地下酒場を訪れ、ペトラを暗がりの席へと呼んだ。
彼女はすでにいつもの『情報屋』の顔に戻っていた。
エプロンで手を拭きながら、油断のない目でヴェインの前に座る。
「グレイヴァルの新しい情報? 悪いけど、昨日今日は大きな動きは……」
「定期的に仕事を頼みたい」
ヴェインはペトラの言葉を遮り、低く平坦な声で切り出した。
「情報の買い取りだけではない。私が動くための裏の調整、人員の手配、その他あらゆる雑務だ。報酬は都度払いではなく、月払いでどうだ」
ペトラの目が、微かに見開かれた。
このダスクマーレとアイゼンブルクを繋ぐ泥濘の底で、その日暮らしの対価だけを信じてきた彼女にとって、『月払い』という言葉はあまりにも異質だった。
それは単なる金銭の契約ではない。
来月も、再来月も、あなたが私にとって必要であるという、形を変えた『帰る場所』の提示に他ならない。
「……本気で言ってるの?」
ペトラの声が、微かに掠れた。
ヴェインは瞬き一つせず、ただ静かに頷く。
相手の孤独を憐れんでの提案ではない。
自身の巨大な盤面を回すために、彼女の能力が必要だという冷徹な計算が根底にある。
だが、その計算の底に、エラから聞いた『パンの匂い』の記憶が、ほんの僅かな重りとして作用していたことも否定できなかった。
ペトラはテーブルの上で両手を組み、しばらくの間、じっと自分の指先を見つめていた。
やがて、深く息を吸い込み、顔を上げる。
「……条件がある」
その瞳には、誰にも譲れない強固な光が宿っていた。
「私が嫌な仕事は、断る。誰かを理不尽に売ったり、子供を泣かせるような真似はしない。それが飲めるなら、あんたの専属になってあげる」
裏街の泥を啜りながらも、彼女が最後の一線として守り抜いてきた魂の形。
ヴェインは一切の躊躇なく答えた。
「それで構わない」
ヴェインは右手をテーブルの中央へ差し出した。
ペトラは一瞬だけその手——深い刃の傷跡と、剥がれた爪の痕が残る無骨な手を見つめ、ゆっくりと自分の右手を重ねた。
互いの体温が交わる。
ペトラの手は、地下の冷気を吸い込んだように、微かに冷たかった。
ヴェインはその冷たさを掌の傷跡で確かに受け止めながら、静かに、しかし力強く握り返した。




