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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第1部

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【第16話】



 アイゼンブルクの冷たい秋雨あきさめは、夜になっても降り止む気配がなかった。



 借り受けた安宿の一室。


壁の石組みから染み出す湿気を払うように、部屋の中央に置かれた小さな鉄炉で石炭が赤黒く燃えている。



 ヴェインは炉の火を見つめながら、今日一日の盤面の動き――イゾルデとの『印章』を懸けた交渉の顚末てんまつを、淡々とした声で語り終えた。



 壁際で分厚い大剣に寄りかかり、腕を組んで聞いていたクロードが、深く息を吐き出す。



 その隣では、エラが石のように硬い黒パンを両手で不器用にちぎりながら、ヴェインの話をどこか遠い国の昔話でも聞くような平坦な瞳で追っていた。



「……で、結局のところ」



 クロードが、退屈と呆れを混ぜ合わせたようなしゃがれ声を出した。



「大商人様に喧嘩けんかを売って『情報』とやらを引き出したのは見事だが、今夜の飯の金はどこから出るんだ。俺たちの財布は、とっくに底をついてるはずだがな」



 ヴェインは表情を変えることなく、懐から小さな革袋を取り出した。



 それを無造作に放り投げると、クロードが片手で空中のそれを掴み取る。


革袋の中で、銀貨が重々しい音を立ててぶつかり合った。



「次の護衛依頼の前払いをもらってきた」



 ギルドの会頭と密約を交わした後、その足で下層の商人から手堅くもぎ取ってきた実利。



 クロードはてのひらの上の重さを確かめると、短く鼻を鳴らし、宿の階下へと夕食の調達に向かっていった。



 やがて、狭い部屋に獣の脂と香草の匂いが充満した。



 木製の深皿に盛られているのは、羊肉の骨付き煮込みだ。


アイゼンブルクの洗練された料理とは程遠い、雑多な根菜と共に泥臭く煮込まれた安宿のまかない飯。


しかし、その土臭い湯気は、ヴェインの記憶の底にあるグレイヴァル辺境領の原点の味に、奇妙なほど似通っていた。



 骨から肉をぎ落とす微かな音だけが、しばらくの間、部屋を支配する。



「ここから、どう動く」



 ジョッキの安いエール酒を喉に流し込んだ後、クロードが低く問うた。



 ヴェインは木製のさじを皿に置き、炉の炎越しにクロードの双眸そうぼうを見据えた。



「グレイヴァルを取り戻すためには、まず西の無法地帯であるダスクマーレに拠点を作る。法の及ばないあの泥濘でいねいの街なら、東のガレンやヴェルミリアの目も届かない。そこで兵を集め、同時にこのアイゼンブルクの商業ギルドとの関係を深め、物資の流通経路を裏から確保する」



 頭蓋ずがいの奥に描かれた緻密な地図。


そこに引かれた見えない線を、一つずつ現実の言葉として出力していく。



 力に頼るだけでなく、経済と情報の流れを制することで、巨大な敵の首を真綿で絞め上げる算段。



「何年かかる」



 クロードの目が、微かに細められた。



「三年」



 ヴェインは瞬き一つせず、即答した。



「長くて、五年だ」



 クロードは腕を組み直し、背もたれのない丸椅子をギィときしませた。



「俺は死に場所を探しているだけの傭兵崩れだ。何年かかろうが、退屈さえしなけりゃどうでもいい。だが……」



 獣のような鋭い視線が、ヴェインの薄灰色の瞳を真っ直ぐに射抜く。



「なぜ、俺に話す。駒として使い潰すつもりなら、適当なハッタリで誤魔化しとけばいいはずだ。こんな気の長い謀叛むほんの全容を、たかが数日前に拾ったゴロツキにさらす理由がどこにある」



 雨音が、一瞬だけ強く窓ガラスを叩いた。



 ヴェインはすぐには答えなかった。



 ゆっくりと息を吸い込み、冷え切った空気を肺の底まで満たす。


視線がクロードの分厚い手から、その背後にある大剣へと動き、再び相手の目へと戻る。



「……あなたが必要だからだ」



 装飾の一切ない、事実だけの言葉。



 完全な計算に基づく『人心掌握』の盤面でありながら、その声の底には、一切の嘘が含まれていなかった。


すべてを失い、たった一人で巨大な国家という怪物に立ち向かおうとする若き王にとって、背中を預けられる圧倒的な『暴力』と『戦士の目』が、どうしても必要だったのだ。



 一瞬の、鉛のような沈黙。



 やがて、クロードの太い肩が微かに震え始めた。



「……クック、ハハハッ!」



 押し殺したような笑い声が、狭い部屋に響き渡る。



 クロードは目元を乱暴に擦りながら、口角を深く吊り上げた。



「腹が立つほど、正直な奴だな。お貴族様ってのは、もっと腹の底を見せない生き物だと思ってたぜ」



 その時。



 ずっと黙って黒パンをかじっていたエラが、ふふ、と小さく吹き出した。



 声を出して笑ったわけではない。


ただ、二人の男のやり取りを見て、彼女の平坦な鳶色とびいろの瞳の奥に、ほんの微かなさざ波が立ったのだ。



 ヴェインとクロードの視線が、同時にエラへと向かう。



 炉の赤い光に照らされた三人の影が、古い石壁の上で一つに重なっていた。



 失うものが何もない者たちが、初めて同じ方向を向いて歩き始めた夜。


窓の外の冷たい秋雨あきさめだけが、いつまでも単調なリズムを刻み続けていた。



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