【第15話】
巨大な黒檀の執務机を挟み、冷え切った静寂が降りていた。
アイゼンブルク商業ギルド会頭、イゾルデ。
彼女の紫水晶の双眸は、ヴェインが提示した『密約書の写し』という劇薬を前にしても、商売人としての冷徹な計算を微塵も崩してはいない。
彼女は羊皮紙からゆっくりと視線を上げ、目の前の若者を射抜いた。
「ヴェルミリアがグレイヴァルの鉱脈を押さえれば、東の鉄の相場は三割は跳ね上がる。確かに、この情報はギルドにとって莫大な利益を生むわ。情報料として、望みの額を言いなさい」
「金はいらない」
ヴェインの即答に、イゾルデの細い眉が微かに動いた。
「私がグレイヴァルを取り戻した暁には、アイゼンブルク商業ギルドと独占的な通商協定を結びたい。その約束を、今ここで交わしていただきたい」
狂人の戯言。
あるいは、絶望から来る誇大妄想。
普通の商人であれば鼻で嗤って衛兵を呼ぶところだ。
しかし、先ほどの緻密すぎる密約の写しを見せられた後では、その言葉の裏にある『何か』を値踏みせざるを得ない。
イゾルデは背もたれに深く体を預け、両手で優雅な三角形を作った。
「あなたが、辺境領を取り戻せるという根拠は」
「今はありません。兵も、資金も、内通者も」
ヴェインは瞬き一つせず、自らの絶対的な無力さを事実として並べ立てる。
「しかし、三年以内に必ず取り戻す」
「根拠のない約束に、一枚の銅貨ほどの価値もないわ」
氷のような冷笑。
それがこの世界の、否、この巨大商業都市の絶対的なルールだ。
実体のない未来の利益など、帳簿には書き込めない。
ヴェインは動じなかった。
ゆっくりと、泥と血にまみれた右手を、外套の最も深い内ポケットへと差し入れる。
逃亡の雪野原で、追手の手掛かりとなる公務用の巨大な印璽は迷いなく捨てた。
しかし、たった一つだけ、己の血肉と同等に守り抜いたものがある。
ヴェインの手から、一つの小さな物体が机の上に音もなく置かれた。
鈍い銀色の光を放つ、分厚い印章指輪。
その印面には、グレイハルト家の紋章である『双頭の灰狼』が、緻密な職人技で深く彫り込まれている。
代々の当主が受け継ぎ、極秘の書簡にのみ押される血の証明。
イゾルデの目が、微かに見開かれた。
彼女の脳内で、瞬時に膨大な情報が照合される。
紋章の意匠、銀の純度、そして何より、それが持つ政治的な重量。
「……辺境貴族の次男や三男が、持ち出せる代物じゃないわね」
イゾルデの声から、先ほどまでの余裕と冷笑が完全に消え去っていた。
ヴェインは机の上の印章指輪を、薄灰色の瞳で静かに見下ろした。
父の死後、ガレンの監視下で領主代行として実務を回していた日々の重みが、その小さな銀の塊に凝縮されている。
「私はヴェイン=グレイハルト。グレイヴァル辺境領の、正統な継承者です」
初めて、己の名をこの街の権力者の前で口にした。
その声には、奪われた者の悲壮感も、王座を求める熱狂もない。
ただ、冬の夜の湖面のように、どこまでも冷たく透き通った確信だけが存在していた。
長い、長すぎる沈黙が執務室を支配した。
窓の外から、広場を行き交う商人たちの喧騒と、馬車の車輪の音が微かに聞こえてくる。
イゾルデは机の上の印章指輪と、ヴェインの目を交互に見つめ、やがてゆっくりと息を吐き出した。
「話は、覚えておくわ」
それは、大商人イゾルデが、この名もなき若者の持つ『狂気』と『正統性』に、初めて価値を見出した瞬間だった。
「ただし、勘違いしないで。今、私があなたにできることは、アイゼンブルクに集まる情報の提供だけ。グレイヴァル奪還のための資金も、傭兵も、ギルドからは一切出せない。私は商人であって、慈善家ではないのだから」
「それで十分です」
ヴェインは机の上の印章指輪を拾い上げ、再び懐の深い闇の中へとしまい込んだ。
金も兵も、今はまだいらない。
必要なのは、この巨大な都市の地下水脈のように流れる『情報』へのアクセス権だ。
それさえあれば、盤面を自らの手で作り上げることができる。
交渉の成立を告げるように、執務室の古い柱時計が、重々しく正午の鐘を打ち鳴らした。




