表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第1部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/35

【第15話】



 巨大な黒檀こくたんの執務机を挟み、冷え切った静寂が降りていた。



 アイゼンブルク商業ギルド会頭、イゾルデ。


彼女の紫水晶アメジスト双眸そうぼうは、ヴェインが提示した『密約書の写し』という劇薬を前にしても、商売人としての冷徹な計算を微塵みじんも崩してはいない。



 彼女は羊皮紙からゆっくりと視線を上げ、目の前の若者を射抜いた。



「ヴェルミリアがグレイヴァルの鉱脈を押さえれば、東の鉄の相場は三割は跳ね上がる。確かに、この情報はギルドにとって莫大ばくだいな利益を生むわ。情報料として、望みの額を言いなさい」


「金はいらない」



 ヴェインの即答に、イゾルデの細い眉が微かに動いた。



「私がグレイヴァルを取り戻したあかつきには、アイゼンブルク商業ギルドと独占的な通商協定を結びたい。その約束を、今ここで交わしていただきたい」



 狂人の戯言たわごと


あるいは、絶望から来る誇大妄想。



 普通の商人であれば鼻でわらって衛兵を呼ぶところだ。


しかし、先ほどの緻密すぎる密約の写しを見せられた後では、その言葉の裏にある『何か』を値踏みせざるを得ない。



 イゾルデは背もたれに深く体を預け、両手で優雅な三角形を作った。



「あなたが、辺境領を取り戻せるという根拠は」


「今はありません。兵も、資金も、内通者も」



 ヴェインは瞬き一つせず、自らの絶対的な無力さを事実として並べ立てる。



「しかし、三年以内に必ず取り戻す」


「根拠のない約束に、一枚の銅貨ほどの価値もないわ」



 氷のような冷笑。


それがこの世界の、否、この巨大商業都市の絶対的なルールだ。


実体のない未来の利益など、帳簿には書き込めない。



 ヴェインは動じなかった。



 ゆっくりと、泥と血にまみれた右手を、外套がいとうの最も深い内ポケットへと差し入れる。


逃亡の雪野原で、追手の手掛かりとなる公務用の巨大な印璽いんじは迷いなく捨てた。


しかし、たった一つだけ、己の血肉と同等に守り抜いたものがある。



 ヴェインの手から、一つの小さな物体が机の上に音もなく置かれた。



 鈍い銀色の光を放つ、分厚い印章指輪シグネット・リング



 その印面には、グレイハルト家の紋章である『双頭の灰狼』が、緻密な職人技で深く彫り込まれている。


代々の当主が受け継ぎ、極秘の書簡にのみ押される血の証明。



 イゾルデの目が、微かに見開かれた。



 彼女の脳内で、瞬時に膨大な情報が照合される。


紋章の意匠、銀の純度、そして何より、それが持つ政治的な重量。



「……辺境貴族の次男や三男が、持ち出せる代物じゃないわね」



 イゾルデの声から、先ほどまでの余裕と冷笑が完全に消え去っていた。



 ヴェインは机の上の印章指輪を、薄灰色の瞳で静かに見下ろした。


父の死後、ガレンの監視下で領主代行として実務を回していた日々の重みが、その小さな銀の塊に凝縮されている。



「私はヴェイン=グレイハルト。グレイヴァル辺境領の、正統な継承者です」



 初めて、己の名をこの街の権力者の前で口にした。



 その声には、奪われた者の悲壮感も、王座を求める熱狂もない。


ただ、冬の夜の湖面のように、どこまでも冷たく透き通った確信だけが存在していた。



 長い、長すぎる沈黙が執務室を支配した。



 窓の外から、広場を行き交う商人たちの喧騒けんそうと、馬車の車輪の音が微かに聞こえてくる。


イゾルデは机の上の印章指輪と、ヴェインの目を交互に見つめ、やがてゆっくりと息を吐き出した。



「話は、覚えておくわ」



 それは、大商人イゾルデが、この名もなき若者の持つ『狂気』と『正統性』に、初めて価値を見出した瞬間だった。



「ただし、勘違いしないで。今、私があなたにできることは、アイゼンブルクに集まる情報の提供だけ。グレイヴァル奪還のための資金も、傭兵も、ギルドからは一切出せない。私は商人であって、慈善家ではないのだから」


「それで十分です」



 ヴェインは机の上の印章指輪を拾い上げ、再び懐の深い闇の中へとしまい込んだ。



 金も兵も、今はまだいらない。


必要なのは、この巨大な都市の地下水脈のように流れる『情報』へのアクセス権だ。


それさえあれば、盤面を自らの手で作り上げることができる。



 交渉の成立を告げるように、執務室の古い柱時計が、重々しく正午の鐘を打ち鳴らした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ