【第13話】
数日後。
アイゼンブルクの街を、晩秋の冷たい雨が打ち据えていた。
旧帝国時代の下水道を改築した地下酒場は、雨宿りを兼ねて入り浸る流れ者たちで普段以上の熱気と悪臭に満ちている。
石の天井からは絶えず雨漏りの滴が落ち、床の泥濘をさらに深くしていた。
最も奥の円卓。
ヴェインが薄暗いランプの光の中で待っていると、油汚れの染み付いたエプロン姿のペトラが、空の木盆を小脇に抱えて近づいてきた。
彼女は周囲の酔客に聞こえないよう、テーブルを拭くふりをして身を乗り出す。
「銅貨五枚。今回は少し、裏の取れた重い話だよ」
ペトラの囁きに、ヴェインは懐から硬貨を滑らせた。
彼女の指先がそれを瞬時にかすめ取り、エプロンのポケットへと消える。
「あんたの故郷、今頃ひどい有様らしいね」
ペトラは手元の布を動かし続けながら、抑揚のない声で語り始めた。
「新しい領主のガレンって男、冬を前にして突然、税をこれまでの倍に引き上げたんだとさ。払えない農奴は、バルトって筆頭家臣の部下たちに容赦なく見せしめにされてる。村の広場で親指を叩き潰された鍛冶屋もいるって話だ」
ヴェインの薄灰色の瞳が、ランプの炎を反射して微かに揺れた。
親指を潰された鍛冶屋。
それは恐怖による絶対的な支配の証明だ。
だが、恐怖だけで人の胃袋を満たすことはできない。
ペトラの言葉が続く。
「それだけじゃない。領地の北、銀流川の上流にある鉄鉱脈。あそこの採掘権を、そっくりそのままヴェルミリアの国軍に引き渡す密約が交わされたらしい。東の国境が、完全に大国へ明け渡されたってことさ」
ヴェインは組んだ両手の親指を、ゆっくりと擦り合わせた。
彼の脳裏で、分厚い羊皮紙に描かれたグレイヴァル辺境領の地図が広がる。
点在する農村、街道の関所、そして北の鉱山地帯。
そこに、今聞いたばかりの情報を血肉として肉付けしていく。
親指を潰された民の怨嗟が、地図全体をどす黒く染め上げる。
北の鉱山には、ヴェルミリアの軍旗が巨大な楔のように打ち込まれる。
(……愚策だ)
ヴェインの頭蓋の奥で、冷徹な算盤が弾かれた。
恐怖による統治は、一時的に反乱の芽を摘むが、領地全体の生産力を著しく削ぐ。
そして何より、ヴェルミリアへの採掘権の譲渡。
ガレンはそれを『大国との同盟』だと錯覚しているのだろうが、実態は違う。
対等な交渉材料を持たずに領土を切り売りする行為は、同盟ではなく『服従』だ。
(ガレンの統治には、民心という土台がない。そして、他国と対等に渡り合う外交の根拠もない。あの男は今、ヴェルミリアという巨大な獣の顎の下で、自分の足元が崩れ落ちていることにも気づかずに玉座で酔っているだけだ)
敵の致命的な弱点が、一枚の透き通った構造図となってヴェインの脳内に浮かび上がっていた。
あまりにも長すぎる沈黙。
テーブルを拭く手を止めたペトラが、訝しげに眉をひそめてヴェインの顔を覗き込んだ。
「ねえ。あんた、いったい何をしようとしてるの」
ただの没落貴族が聞くべき情報ではない。
その瞳の奥で目まぐるしく回転する狂気じみた計算の気配を察知し、ペトラの声に微かな警戒が混じる。
ヴェインは視線を地図の幻影から現実へと戻し、ペトラを見上げた。
「まだ言えない」
「……怖いもの知らずだね」
ペトラが呆れたように鼻を鳴らす。
相手が国家という巨大な機構であることを理解していないのかと、暗に忠告するような響きだった。
しかし、ヴェインの口から出たのは、一切の虚勢を含まない、冷え切った事実だった。
「今は、失うものが何もないからだ」
地位も、名誉も、家族も、そして信仰すらも。
すべてをあの雪の夜に奪われ、両手には自分自身の命の重さしか残されていない。
守るべき背後を持たない者だけが、躊躇いなく最も鋭い刃を振るうことができる。
その言葉が落ちた瞬間、ペトラの身体が微かに強張った。
彼女は何かを言い返そうと唇をわずかに開いたが、声は出なかった。
代わりに、その乾いた瞳の奥底で、ヴェインの抱える暗い虚無と呼応するように、微かな痛みの色が揺らぐ。
ペトラは乱暴に布をエプロンにねじ込み、無言のまま背を向けて歩き出した。
(私も、同じだ)
雨漏りの水滴が石の床を叩く音に紛れ、誰の耳にも届かない声が、薄暗い酒場の空気にひっそりと溶けていった。




