【第12話】
巨大商業都市アイゼンブルクの熱気は、下層区の地下に広がる安酒場にまで色濃く沈殿していた。
旧帝国時代の巨大な下水道施設を改築したと思われるその空間は、天井の石組みから絶えず水滴が落ち、酸っぱいエール酒と安い煙草の煙が層を成して漂っている。
壁際の円卓に陣取ったヴェインは、周囲の喧騒の中で幾人かの行商人や流れ者に声を掛けていたが、収穫は皆無だった。
(辺境の小さな領地の話など、この巨大な胃袋の中では塵ほどの価値もない)
東の果て、グレイヴァル。
その名を口にするたび、相手の目はあからさまに興味を失い、手のひらを返して立ち去っていった。
特産品もない雪と泥の辺境領で誰が実権を握ろうと、西方の商人たちにとっては何の金にもならないのだ。
ヴェインはテーブルの上で組んだ両手の親指を、静かに擦り合わせた。
ドン、と。
頼んでもいないエール酒のジョッキが三つ、乱暴な手つきで卓上に置かれた。
顔を上げたヴェインの視界に、使い込まれた木盆を小脇に抱えた女が立っている。
赤茶色の髪を無造作に後ろで束ねた、ヴェインより少し年上に見える女。
酒場の給仕服を着てはいるが、その双眸は酔客の尻を躱すだけの単なる小娘のものではない。
相手の懐具合と隠し事を瞬時に値踏みする、裏街特有の乾いた光を宿していた。
「グレイヴァルの話、探してるんでしょ」
周囲の喧騒に紛れる絶妙な声量で、女――ペトラが身を乗り出してきた。
「知ってるよ。でも、タダじゃない」
「いくらだ」
ヴェインの即答に、ペトラの口角が僅かに上がる。
「銅貨三枚。でも、いい情報だと思ったら、追加で払ってくれるはずだよね」
ヴェインは懐から赤銅色の硬貨を取り出し、油の染み付いたテーブルの上へ音を立てずに三枚滑らせた。
ペトラはそれを手品のように指の間に挟み込み、声をさらに一段階落とす。
「ガレン=グレイハルトが、新しい領主として正式に宣言した。実務はバルトって筆頭家臣が裏で完璧に取り仕切ってるらしい」
ヴェインの表情の筋肉は、ぴくりとも動かなかった。
叔父の簒奪とバルトの補佐。
そこまでは既に計算式に組み込まれている既定路線だ。
ペトラは、ヴェインが微動だにしないのを見て、目を細めた。
「……それだけじゃない。あの辺境の田舎芝居、裏で糸を引いてる大元がいる。ヴェルミリアだ」
ヴェルミリア。
その単語が落ちた瞬間、ヴェインの薄灰色の瞳の中で、何かが決定的に凍りついた。
怒りでも、驚愕でもない。
ただ、瞬きを忘れたかのように瞼が僅かに下がり、彼の周囲数尺の温度が急速に奪い去られていく。
巨大な軍事国家ヴェルミリア。
あの謀叛は単なる叔父の強欲などではなく、大国が東の辺境を飲み込むための巨大な盤面の一部だったのだ。
復讐の刃を向けるべき対象が、一個人の首から、国家という巨大な怪物へと拡大した瞬間だった。
ペトラの目が、微かに見開かれた。
彼女は、情報に価値を見出した客から追加の硬貨を要求するはずだった。
しかし、目の前の若者から発せられた無機質で圧倒的な冷気にあてられ、開口しかけた唇を閉じる。
冗談や冷やかしで辺境の情勢を探っているのではない。
この男が背負っている『影』の重さは、ただの旅人のそれとは次元が違う。
「……あんた、当事者でしょ」
ペトラの探るような言葉に、ヴェインは否定しなかった。
ただ、冷え切った視線で彼女の顔を見つめ返すだけだ。
その無言の肯定を受け取ったペトラは、ふっと息を吐き出し、構えていた肩の力を抜いた。
「追加の情報料は、サービスしとくよ」
商売人としての計算と、ほんの僅かな情の混じったような響き。
「気が向いたら、またここに来て。いい客になりそうだからさ」
ペトラはそう言い残し、空いたジョッキの乗った盆を揺らしながら、再び喧騒の中へと溶けていった。
喧騒の中にペトラの背中が消えかけたとき、不意に彼女の足が止まった。
振り返りはしない。
人混みに半分溶けたまま、周囲の話し声に紛れ込むような声量で言った。
「一つだけ、余計なことを言っとく」
ヴェインは答えず続きを待った。
「この辺りで情報を集めてるなら、『ハウト』って名前には近づかない方がいい。商会の名前だよ。何でも扱って、何でも知ってて、何でも潰せる——そういう連中。辺境の話でも、拾う耳は持ってる」
「なぜ言う」
「……言いたくなっただけ」
それだけを残して、ペトラは今度こそ人混みの奥へと消えた。
彼女の背中が見えなくなった後、向かいの席でジョッキを傾けていたクロードが、低く鼻を鳴らす。
「あの女、お前が何者か探ろうとしてやがる」
「わかっている」
ヴェインは視線をテーブルの木目へと戻し、平坦に答えた。
「だが、使える」
謀略の駒としての価値の算定。
そこに感情が挟まる余地はない。
しかしその時、横の席で固い黒パンを無言で齧っていたエラが、ふと顔を上げた。
「ペトラって人、なんだか寂しそうだったね」
不意に落ちたその言葉に、ヴェインとクロードの動きが同時に止まった。
二人の男の視線が、一斉にエラへと向かう。
情報源としての価値。
探り合いの駆け引き。
損得の計算。
男たちが血眼になって読み解こうとしていた盤面のさらに奥底にある、ただの人間としての『孤独』。
それを、この泥に塗れた少女だけが、一切の色眼鏡を持たずに正確に射抜いていた。
ヴェインは何も言わず、ただ薄灰色の瞳で、エラの横顔を静かに見つめていた。




