【第11話】
視界を埋め尽くすほどの巨大な灰白色の防壁が、朝靄を引き裂くようにして聳え立っていた。
西方最大規模の商業都市、アイゼンブルク。
旧帝国時代に異民族の侵攻を防ぐために築かれたというその城壁には、百年以上前の攻城戦で焼かれた黒焦げの投石痕が、癒えることのない巨大な痣のように残されている。
しかし今、その分厚い石の門を潜ろうとしているのは武装した兵士ではない。
大陸中から集まった、己の欲望と積荷を満載した無数の商人たちだった。
香辛料のむせ返るような匂い、獣の脂の臭い、そして何千という人間の発する熱気と喧騒。
ヴェインは門を抜けた瞬間、まるで巨大な獣の胃袋に飲み込まれたような錯覚を覚えた。
泥濘にまみれたダスクマーレとは違う。
数え切れないほどの足裏と馬車の車輪によって滑らかに磨き上げられた石畳が、どこまでも規則正しく放射状に伸びている。
街の息遣いそのものが、彼がこれまで生きてきたグレイヴァル辺境領の何十倍も重く、速かった。
大通りを抜け、街の中心部である中央広場へと足を踏み入れる。
そこでヴェインの足が、ふと止まった。
広場を挟んで、二つの巨大な建造物が互いを威圧するように向かい合っていたのだ。
右手に鎮座するのは、光冠教の西方大神殿。
天を突く尖塔と、朝日を受けて極彩色に輝く巨大な円形ステンドグラス。
神の威光を物理的な質量に変換したかのような圧倒的な豪奢さが、広場の石畳に濃い影を落としている。
対して左手にそびえるのは、アイゼンブルク商業ギルドの総本部だった。
装飾を削ぎ落とした武骨で堅牢な石造りの館。
建物の前では、目まぐるしく変わる物価の掲示板の前で、血走った目をした商人たちが怒声と歓声を交錯させている。
(祈りと、金貨)
神殿の荘厳な鐘の音と、ギルド前で交わされる硬貨の擦れ合う音が、広場の上空で奇妙な不協和音を奏でている。
ヴェインは薄灰色の瞳を細め、大神殿の豪奢な扉を一度だけ見つめた後、無表情のまま視線を外した。
広場の隅にある噴水の傍で、商人ドルフが立ち止まった。
彼は懐から重そうな革袋を取り出すと、ひったくるようにして十五枚の銀貨を数え出し、ヴェインの掌に押し付けた。
「これで契約通りだ。もう二度と、私の前にその物騒な顔を見せないでくれ」
ドルフはクロードの巨体を怯えたように一瞥すると、護衛を終えた安堵と出費の痛みを顔に貼り付けたまま、足早にギルドの喧騒の中へと消えていった。
残された三人の間に、朝の冷たい風が吹き抜ける。
ヴェインは手の中の銀貨を見下ろした。
十五枚。
この都市でまともな武具を揃え、安全な宿を取れば数日で消え失せる額だ。
だが、ダスクマーレの泥の中で拾った『三つの情報』が、確かに物理的な価値へと変換された結果でもあった。
ヴェインは銀貨を五枚ずつ三等分し、一切の躊躇ゆちゅうちょ)なくクロードとエラに手渡した。
クロードは受け取った銀貨を親指で軽く弾いた。
キン、と澄んだ音が鳴る。
「次はどうする」
退屈そうに見えて、その双眸の奥には次なる闘争を求める獣の光が宿っている。
ヴェインは噴水の水面に視線を落とした。
水鏡には、泥に塗れ、無精髭の伸びた、かつての貴族の成れの果てが映っている。
「もう少し、この街で情報を集めたい」
一拍の間の後、冷え切った声が広場の空気に溶け込んだ。
「グレイヴァルで、今何が起きているかを知りたい」
噴水の水音が、僅かに大きく聞こえた気がした。
エラは何も言わず、ただ自分の分の銀貨を粗末な布袋にしまい込んでいる。
クロードの太い眉が、ピクリと動いた。
グレイヴァル。
東の果てにある貧しい辺境領の名だ。
この西方の商業都市において、余程の事情がない限り話題に上ることすらない辺鄙な土地。
クロードの鋭い視線が、ヴェインの横顔をなぞるように動いた。
剣ダコのない、しかし深い刃の傷跡が刻まれた右手。
泥に塗れても隠しきれない、重心の低い洗練された立ち姿。
そして、あの山道で盗賊を言葉一つで退けた、狂気的なまでの計算高さと冷徹さ。
それらの断片が、クロードの脳内で一つの形を結んだ。
「……グレイヴァル。お前、あそこの出か」
問いかけの形をとってはいたが、答えを求めている声ではなかった。
ヴェインは水面から顔を上げ、クロードを見つめ返した。
否定も肯定もしない。
ただ、瞬きを一つしただけだ。
それが、完全な肯定を意味していた。
クロードは短く息を吐き出し、銀貨を懐にねじ込んだ。
なぜ故郷を追われたのか。
誰から逃げているのか。
これからどうするつもりなのか。
聞くべきことは山ほどあったはずだ。
「そうかよ」
だが、南の戦場で死線を潜り抜けてきた傭兵が口にしたのは、ただそれだけだった。
相手の踏み込まれたくない領域を力尽くで暴くことは、三流のゴロツキがやることだ。
本物の戦士は、背中を預ける相手の『現在』の腕と目だけを信用する。
クロードは分厚いボロ布に包まれた大剣を肩に担ぎ直し、ヴェインに背を向けた。
「宿を探すぞ。この街の安酒が、ダスクマーレの泥水よりマシであることを祈るんだな」
背中越しのその言葉に、ヴェインは初めて、口元に一瞬だけ微かな弧を描いた。
三人の足音が、アイゼンブルクの磨き上げられた石畳の上を、新しいリズムを刻みながら進んでいった。




