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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第1部

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【第10話】



 東の山脈を越える交易の要衝、霧峠きりとうげ



 その名の通り、一年を通じて濃密な白霧に覆われるこの難所は、旧帝国時代に切り拓かれた石畳が原型を留めないほどに崩落し、むき出しの赤土が冷たい夜露を吸って滑るような泥濘でいねいと化していた。


道の両脇には、風化して顔の潰れた道祖神の石像が等間隔で並び、通行人を無言で見下ろしている。



 夜明け前。


最も気温が下がり、視界が乳白色に塗り潰される時間帯。



 商人ドルフのく荷馬車が、きしむ車輪の音を谷間に響かせながらゆっくりと進んでいた。



 不意に、先頭を歩いていたクロードがピタリと足を止めた。



 同時に、荷馬車の後方を歩いていたヴェインも立ち止まる。


遅れて事態に気づいたドルフが、脂汗を浮かべて周囲を見回した。



 霧の奥から、濃密な獣の臭いと、湿った金属の匂いが漂ってくる。



 前方から二人。後方の崖上から二人。



 音もなく現れた四つの影が、完全に荷馬車の退路を塞いでいた。


手には使い込まれたなたや短剣。


粗末な革鎧かわよろいを身につけてはいるが、その足取りには素人特有の力みがない。


特に前方に立つ大柄な男は、重心を低く保ち、いつでも飛びかかれる絶妙な間合いを維持していた。


南の戦場で生き残った元傭兵の身のこなしだ。



 ドルフが、ヒッと短い悲鳴を上げて馬車の陰に隠れる。



 クロードが太い首を鳴らし、背中の大剣に巻かれたボロ布へゆっくりと右手を伸ばした。


血に飢えた獣が、久しぶりの獲物を前にして微かに口角を上げる。



 ――だが、その分厚い手が剣の柄を握るより一瞬早く。



「その剣を抜けば、高くつくぞ」



 霧の底を這うようなヴェインの冷え切った声が、場を支配した緊迫感を唐突に断ち切った。



 後方から歩み出たヴェインは、武器を抜くどころか、両手を外套がいとうのポケットに突っ込んだまま、ゆっくりと前方の盗賊たちの頭――元傭兵の男へと近づいていく。



 盗賊の頭が、警戒に目を細めた。



「三日前。あなたたちがこの峠で、アイゼンブルクの商会の荷馬車を一台襲撃したことは知っている」



 ヴェインは男から五歩の距離で立ち止まり、薄灰色の瞳で相手を真っ直ぐに射抜いた。



 酒場で拾い集めた断片的な情報。


それを、さもすべてを掌握しているかのような『事実』として叩きつける。


盗賊の頭の眉間みけんに、僅かなしわが寄った。



「その荷の中に何があったか。そして、あなたたちがそれをどこへ隠したか……アイゼンブルクの商業ギルドは、すでに正確な情報を掴んでいる」



 完全なハッタリだった。



 だが、ヴェインの平坦で温度のない声には、相手の疑念を麻痺させるだけの圧倒的な確信が満ちていた。



 背後に控えるクロードという『本物の暴力』が、ヴェインの言葉に重い説得力を与えている。


これほどの手練れを雇える人間が、ただの通りすがりの旅人であるはずがない。



 盗賊の頭の視線が、ほんの一瞬だけ泳いだ。



 図星だった。


襲った荷馬車の積荷の中に、ただの金品ではない、出処の知れると厄介な『後ろ暗い代物』が含まれていたのだ。



「今ここで道を譲り、山を降りるなら、私はこの襲撃の件も、積荷の隠し場所も、ギルドへの報告書には記載しないでおこう」



 ヴェインは瞬き一つせず、最後の一押しを静かに落とした。



 沈黙が降りた。



 霧の中で、盗賊の頭はヴェインの目と、背後のクロードの巨体を交互に値踏みするように見つめる。


ここで戦えば、無傷では済まない。


その上、ギルドの追討隊まで差し向けられれば、自分たちの命運は尽きる。



 冷徹な損得勘定が、男の暴力衝動を上回った。



 チッ、と。


頭が短く舌打ちをし、あごで仲間たちに合図を送る。



 四つの影は、現れた時と同じように音もなく、白霧の奥へと溶けて消えていった。



 剣を抜くことなく退けられた脅威に、ドルフが馬車の陰から這い出し、その場にへたり込んだ。



 クロードはつまらなそうに大剣から手を離し、ヴェインの背中を見下ろして低く鼻を鳴らした。


殺し合いを避けたことへの不満と、言葉だけで窮地を脱した若き雇い主への微かな感心が入り混じった、複雑な息遣いだった。



 夜明けの風が吹き抜け、霧が少しだけ晴れる。



 荷馬車が再び動き出す中、ヴェインの隣を歩いていたエラが、ふと顔を上げた。



「本当に知ってたの?」



 鳶色とびいろの瞳が、ヴェインの横顔を不思議そうに見つめている。



 あの積荷の中身を。



 盗賊たちの隠し場所を。



 ヴェインは前を向いたまま、短く答えた。



「知らなかった」


「嘘ついたの?」



 エラの問いには、非難の色は一切ない。


ただ、世界の構造を一つずつ確認する子供のような、無垢な平坦さだけがあった。



「推測を、事実のように言っただけだ」



 ヴェインの口から出たのは、為政者がしばしば用いる論理的な自己正当化だった。



 相手の不安と状況証拠から最も可能性の高い仮説を組み立て、それを断定することで相手の行動を操作する。


謀略の世界において、それは嘘ではなく『交渉術』と呼ばれる。



 しかし、エラはしばらく足元の泥を見つめて考え込んだ後、再びヴェインを見上げた。



「それって、同じじゃない?」



 ヴェインの歩みが、ほんの一瞬だけ鈍る。



 胸の奥底。


重く冷え固まっていた何かが、その無垢で鋭利な言葉によって、微かに針で突かれたような感覚があった。



 政治の論理、謀略の正当性。


そうした大人の理屈でどれほど装飾しようとも、事実と異なる言葉で他者を動かしたという本質は変わらない。



 ヴェインは何も答えなかった。



 答える言葉を持たなかったのか、あるいは、答えるべきではないと判断したのか。



 ただ黙々と歩き続ける彼の耳に、遠くで朝を告げる山鳥の甲高い鳴き声と、車輪が泥を跳ね上げる湿った音だけが、いつまでも反響し続けていた。



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