【第1話】
以前から考えていたものを書き始めました。
書き溜め等無いのでこちらは不定期更新になります。
夜の帳が、東の稜線からひび割れるようにして白み始めていた。
グレイヴァルディア王国の主塔最上階。
分厚い石積みの壁に囲まれた執務室の空気は、石の奥底に染み込んだような冷気を帯びている。
床には暖炉の残骸が白黒の灰となって沈黙し、壁際の燭台ではとうの昔に蝋が燃え尽きていた。
分厚い石の窓枠に肘をつき、ヴェイン=グレイハルトは動かない。
長身でありながら、重心を低く落とし、僅かに前傾姿勢で立つ特有の癖。
誰かに教わったわけでもないその立ち姿は、いつどこから凶刃が飛んできても即座に反応できるよう、幼い頃から骨の髄まで染みついたものだ。
背後の執務机には、羊皮紙の束が小山のように積まれている。
新国家の税収報告、法務省からの法案草案、そして各地の郡長から届く終わりのない嘆願書。
その紙の雪崩を堰き止めるように置かれた無骨な木杯の中には、苦草茶が波一つ立てずに澱む。
泥のように濁った液体を、ヴェインは夜明け前に飲み干していた。
王侯貴族が好む南方産の甘い香辛料の香りなどない。
舌の根に張り付くような、土と枯れ草の泥臭さ。
グレイヴァル辺境領という貧しい土地で生まれ育った者だけが知るそのひりつくような苦味が、今も口内を支配している。
ふと、右手を開く。
掌の中央に走る、古い刃の傷跡。
剣の稽古で父から受けたその痕を、ヴェインは親指の腹でゆっくりと押し込んだ。
鈍い圧迫感だけが、彼が今ここに立っているという事実を皮膚に伝えてくる。
広い執務室には、自身の微かな呼吸音と、時折きしむ革靴の音しか存在しない。
静かすぎた。
かつて背後には、貴族や聖職者を鼻で嗤う荒くれ者の野次があった。
嘘と軽口で本音を塗り固めた、情報屋の乾いた笑い声があった。
そして、ただ真っ直ぐに自分を見つめ、何のために生きるのかと問う、泥に塗れた無垢な瞳があった。
振り返っても、誰もいない。
計算された完璧な静寂と、巨大な国家という機構の重みだけが彼を囲んでいる。
(俺は王になった)
胸の底で呟いたその言葉に、熱はない。
勝利の陶酔も、野望を遂げた達成感も、今の彼を満たしてはくれない。
ただ、帳簿の末尾に記された最終的な数字のように、冷厳な事実としてそこにあるだけだ。
視線を、再び窓の外へ戻す。
眼下には、灰谷の街並みが広がっていた。
かつては火事で焼け出された者たちが身を寄せ合うみすぼらしい城下町だった場所が、今や王都としての威容を整えつつある。
碁盤目状に敷かれた真新しい石畳の隙間を埋めるように家々が密集し、幾つかの煙突からは朝餉の準備を知らせる細い煙が立ち昇り始めていた。
不意に、キィ、と甲高い金属音が風に乗って響く。
城壁の一角。見張り塔の頂きに据えられた風見鶏が、夜明けの冷たい風を受けてゆっくりと向きを変えている。
薄灰色の瞳が、その錆びた動きをじっと追った。
朝日を受けて銀色に瞬く眼差しは、風見鶏の向こう側――遥か遠い空の果てを見透かそうとするかのように、僅かに瞼を落とす。
風が強くなり風見鶏がさらに大きく回った。
鉄のきしむ音が、十年という歳月の重い蓋をこじ開ける。
焦げた匂いが鼻腔を突く。
裏切りの足音が、冷たい石畳を叩く音が、鼓膜の奥から這い出してくる。
すべてを失い、灰燼に帰したあの夜。
王冠がまだ、誰の血にも染まっていなかった頃の記憶へと――。




