第一幕
1910年のロンドン。
かつて“世界の心臓”と呼ばれた街は、霧と煤の匂いの中で、人口だけが肥大していた。
犯罪は警官組織の人海戦術によって、単純な事件は鎮圧されていった。
だが犯罪の質は変化した。より洗練されていったんだ。富なき者でも、頭を使えば誰でも勝つという事に気づいた者が増えた。
被害者ーー特に油断した金持ちが狙われ、力の弱い者から食われていった。
ロンドンの都は、魔都へと変貌していった。
そして、ここはアーサー・コナン・ドイル原作の「シャーロック・ホームズ」に憧れた青年の活躍の舞台でもあった。彼は自分だけの虚構のワトソンを見つけて、このベーカー街に住み着いた。
現実であるこの世界には、
本物のホームズはいない。
だがーー彼の魂はここにあった。
物語は、こうして始まる。
ベーカー街にある虚実荘221B。
その三階にある居間。そこはとても居心地の良い空間だった。
部屋は広々として、壁には濃いモスグリーンの厚手の壁紙が貼られてた。
階下を見渡せる窓からの光に照らされた。
床には、深紅と紺色が混じりあった分厚いペルシャ絨毯が敷き詰められていた。
部屋の中央奥には、黒い大理石でできた大きな暖炉があった。そこの火が部屋をゆらめかせ、虚実荘の名を表すように現実ではないように見せた。
暖炉を挟んで向かい合うように、二脚の深いベルベット張りのソファが配置されていた。
その間には分厚いオーク材の大きな卓が置かれて、そこには酒瓶が何本か置いてあった。
ソファにはそれぞれ、男が横たわっていた。
一人は黒髪短髪のやせぎすの男。灰色の目は鋭く、ワシ鼻で、顎は刃物のように角ばっている。
身長は180センチほど。だらしなく横たわっていた。
彼は、自分の名前をシャーロック・ホームズと名乗った。もちろん、本名ではない。
もう一方のソファに横たわる男は、灰色の髪に口ヒゲを蓄えた中肉中背の男。体つきはがっしりしていたが、頬はこけて、指先だけは微かに震えていた。
彼はジョン・F・ワトソンと名乗った。
ーー“ヘイミッシュ?” 関係ないさ。
彼も、本物のワトソンじゃないーー。
家具や建物はもちろん本物だ。
だが、彼らは自分たちをホームズやワトソンと呼びあっていた。
「もう一週間だ。君のいう通り、ベーカー街の至るところを調べたぜ。」
ワトソンが叫ぶ。それから、卓上の酒瓶に手を伸ばした。
「ただの観光になった!」と言って、彼はそのまま口をつけて飲んだ。
ホームズは大きくため息をついた。
「この状況。コナン・ドイルなら上手くはしょってくれるだろうね。だけど、僕らの神さまは哀れな魂が苦しむのを欲してるのさ。」とホームズ。
「悪魔のようなヤツだ!」とワトソン。
彼らは、ある事件の手がかりとなる男を探していた。
そのために、一週間ほどベーカー街をさまよった。
ーー成果は、なし。
「休憩をおえたら、ーー行こう。」とホームズは呟いた。
「何か成果ーー成果がないと、親愛なるトビー警部補から、追い出されるぜ。」と彼は言った。
「彼、いつか、家賃を要求するんだ。ボクらを追い出す理由をつくるーーホームズ。今のうちに依頼人を増やそう。ボクらの物語は、そこからだ。」とワトソン。
「原作ホームズなら、すぐに依頼人が部屋に飛び込んできたぜ。
僕らの依頼人、ここじゃなくて、馬車の前に飛び出したんじゃないのか?」とホームズは笑った。
「君のジョークは笑えないよ。」
ワトソンがぶっきらぼうに言い終えたその瞬間、
居間の扉が勢いよく開いた。ノックの遠慮など一切ない。
そこに立っていたのは、不機嫌さを全身から放つ小柄な女だった。
茶色の肩までのびたくせ毛。
酒樽をそのまま短く凝縮したような胴体から、太い二の腕が突き出ている。
その体を隠すかのように黒いエプロンを締めつけていた。
虚実荘のハウスメイド、メイベル・アダムズ夫人である。
彼女の後ろには、一人の少女がいた。年齢は十歳ほど。
暗褐色の柔らかなカール髪を腰までのばし、金持ちの子女らしいふわふわのドレスを着ていた。
丸顔で鼻は低い。決して美形ではないが、愛嬌があり、場の空気を支配する何かを持っている。
少女は、指差す勢いで叫んだ。
「メイベル・アダムズ夫人!こいつらが、男同士で愛を育んでる恥知らずたちねーー!」
その甲高い声が部屋全体を揺らした。
ホームズとワトソンの二人は、同時に頰をひきつらせた。
…見事なシンクロだった。
(こうして、第一幕は謎の少女により幕を閉じる。)




