冥府の神様とずっと一緒に居たかった女の子の話
「アヌビス様、アヌビス様」
「尊き人々たちをどうぞ御守りください」
「どうか、どうか彼らの道行きをお守りください」
そこはまるで、斎場のようであった。
暗い中に小さな灯りでぽつりと少しだけ明るくなっている中、数名の人々が地べたに座り込み、手をつき、深く深く頭を下げる。
彼らの前にはいくつかの棺が並んでおり、ぴたりとその蓋は閉じられている。
まるでそれは何かに捧げる供物のようであった。
──その声に応えるように、暗がりから、それはぬるりと現れた。
黒々とした闇色をした肌を持った筋骨隆々で、約二メートルほどの逞しい男の身体を持つそれは、まるで狼のように細長い、金色の瞳をゆっくりと動かす。
いや、狼のようではない。
それは、黒い狼の頭を持っていた。その狼の頭は、瞬きもせずに、前だけを見据えている。
アヌビスと呼ばれた異形は耳に付いた長い金細工の飾りを揺らしながら、足音もなく、声もなく、薄暗い中を歩き、棺の方へと近づいてくる。
そして棺の前に立つと、長い腕を伸ばし、蓋を少しだけずらす。
そこには、青白い顔の男が一人、目を閉じて横たわっていた。
アヌビスはそれをじっと見つめて、顔を上げる。
そうすれば、膝をついていた人々は更に頭を地べたにこすりつけ、祈るような言葉を出す。
「──彼らに良き旅路があらんことを」
そう言って、彼らはその場を去り、その場にはアヌビス一人だけが残された。
この世を去った人々が、来世で新しい旅路を進むための、その“路”を作り、導き、見守る。
それは彼の唯一の仕事で、存在意義のであった。
彼はそれを苦であるとも、楽しいことであるとも思っていない。それは彼が産まれた時から与えられた、息をすること以上に当然のことであったからだ。
何前年も続けられたそれは、人々がアヌビスに、魂を失った肉体を捧げることから始まる。
──その日も、そうだった。
いつものように、アヌビスは、冷たくなった青白い肉体に“処置”を施そうとした。
彼らの身体の中にある臓物を取り、何日も何日も乾燥させ、丁寧に亜麻布で全身を巻いて、葬るのだ。
そうすることで、彼らは来世への新しい路を見つけることができる。
何千、何万も繰り返したそれを行うためにアヌビスは手を伸ばし、冷たい身体に触れる。
だが、ゴト、という小さな音がして、アヌビスはその動きを止めた。
それは、アヌビスが出した音ではない。けれども、その音は確かに、棺の中から聞こえた。
「ごほっ、げほっ」
咳き込む音がして、冷たい身体の下から、小さな細い手が伸びる。
それは何かを探すように空を切って、棺の縁を掴むと、冷たい身体を押しのけるように上に上がってくる。
「や、やっと出れた!」
それは心底安堵する声。
アヌビスが金色の瞳を見開いてその様子を見守る中、棺の中からゆっくりと出てきたのは、小さな少女だった。
お世辞にも綺麗とは言えない服を纏った少女は軽く己の身体についた埃を掃うと、アヌビスの方を見やる。
「! ッアヌビスさま!」
そして高い声を出して、嬉しそうな顔をした。
そんな少女の表情を見て、アヌビスは目を見開く。
「……ちいさきひと、どうしてここに?」
地を這いずるような、低い声。冥府の番人のその声には驚きと困惑が含まれている。
少女と目を合わせるようにアヌビスは膝を折り、片膝を地につけて、少女の顔を覗き込む。
まず、ここは選ばれた者しか来れない、神聖な場所であった。魂を失った身体を運ぶ、誰もが入れる場所ではない。
そして、アヌビスにとって、自身は他者から畏怖される存在であると認識していた。
事実として彼が産まれてから自分をそんなに嬉しそうな顔で見てくる者など、今まで一人もいなかったからだ。
「ああ! ええと、そう! そうですね、あたしはラシャといいます。アヌビスさまに会いに来たのです」
「わたしに?」
アヌビスに、人間の年の頃合いなどわからない。
けれども大きな体躯の彼の腰の辺りまでしかない小さな少女は、成人していない、まだ子どものように見えた。
そんなアヌビスを臆することなく見上げた少女はそばかす交じりの顔でにこりと笑う。
「アヌビスさまに、あたしの旅路を見守っていただきたいのです!」
「それはできない」
少女の言葉にアヌビスは即答した。
「わたしが導くことができるのは尊き者のみだからだ」
アヌビスは淡々と続ける。
この国で、アヌビスの死出の旅路を得られるのは、高貴な王族や、それに関連する人々のみであった。
普通の人々は、アヌビスの死出の加護を受けることはできない。旅路を迎えられるのは、選ばれた者のみであるということは、古くからずっと続くしきたりであり、当然のことであった。
けれども少女はアヌビスの言葉に頬を膨らませて、キッと目を吊り上げる。
「そういうと思って、ほら! ええと、アヌビスさまに贈り物を持ってきたのです!」
ラシャと名乗った少女はごそごそと懐を漁るが、アヌビスは首を横に振る。
「そのようなものは必要ない。ちいさきもの、きみは旅路の加護を得ることはできないのだ」
「そういわず! ほらこれ!」
げほげほ、咳き込みながら少女はアヌビスの言葉を遮るように手を差し出した。
「あたしの好物なの! アヌビスさまにもあげます!」
そこにあったのは干した小さな木の実だった。
得意げな顔のラシャはアヌビスの鋭い爪の生えた大きな黒い手を強引に取って、その手の平にいくつか木の実をおいた。
突然の贈り物に困惑した表情のアヌビスは手の平を見つめることしかできず、それに業を煮やした彼女は「ああもう!」と言いながらその木の実をアヌビスの口の中に不意打ちのようにぽいっと放り入れた。
ぎょっとしたアヌビスはそれでもその木の実を吐き出すことはできず、しばらくしてからゆっくりとそれを飲みこんだ。
「美味しいでしょう!?」
「……すまないが、わからない。わたしは味というものが感じられないのだ」
アヌビスの金の飾りをつけた縦長の耳がぺたりと横になる。
ひらすらこの地下深くで、死者たちに死出を加護を与える役目を持つアヌビスにとって、他者との会話でさえ数百年ぶりのことだ。
そんなアヌビスには、これは初めての『食事』でもあった。必要のない行為に、使ったことのない喉の奥の違和感を感じて少々眉を顰める。
そして少女に向かってなんと返したらいいか返答に迷いながら、なんとか言葉を口にした。
「ええっ!? そうなの!?」
アヌビスの言葉を期待した顔で待っていたラシャは、その返答を聞いてショックを受けた顔をして項垂れる。
「だから諦めてくれ、ちいさきもの。あなたに旅路の加護は──」
「じゃあ違うの持ってくる! アヌビスさまが頷いてくれるまで!」
アヌビスがラシャを説得しようとする言葉を遮ったのはラシャ自身であった。
未だ膝をついたままの、自分よりも低い位置にあるアヌビスの細やかな毛の生えた頭を撫で、ぴょん、と立ち上がる。
「また来るから待っててくださいね! アヌビスさま!」
そうして手を振って、ぱたぱたと急いだ様子でアヌビスの前を去っていったのだ。
その後ろ姿を見て、アヌビスは立ち上がり、少しだけ口を開いて首を傾げる。
「なんだったんだ、あれは……」
それもアヌビスにとって、この世に産まれて始めての『困惑』という感情であった。
***
「……また来たのか」
「そう言ったじゃないですか! もう、ちゃんと聞いてて!」
アヌビスの少々呆れたような言葉に、ラシャはむっと口を尖らせる。
今まで招かれた客人以外誰も入ってこなかった場所にラシャは再び来ていた。それはラシャがアヌビスに木の実をあげた日からたった数日後のこと。
この神聖な場所は一般の人々が入ることは禁じられているが、そんな場所にいとも容易く入ってくるラシャに、どこから入ってくるのかと聞けば、ネズミは入口を見つけるのが得意なのだと少女は笑った。
「はいこれ!」
ラシャが取り出したのは美しい布であった。そこに、鮮やかな色の花が描かれている。
「……これは?」
「刺繍です! 知らない?」
「ああ」
ラシャの言葉に頷きながら、アヌビスは思わずそれをよく見るために顔を近づける。
アヌビスの住まうこの地下は、冥府と呼ばれている。
そこにある色は、黒と、神聖なる金色だけ。だが、少女の手の中にある青や赤は、アヌビスが今まで見たこともなかった美しい色であった。
「ふふ、そうだろうと思った! 綺麗でしょ? 頑張って持って来たんだから!」
アヌビスさまに差し上げます、とラシャはそれをアヌビスの手に押し付ける。
「……わたしに?」
「ええそうよ! だからあたしを死出の旅路に連れて行って!」
「それはできない」
アヌビスは即答すると、ラシャは「もう何よっ! じゃああげないっ」と頬を膨らませてアヌビスの手から刺繍の入った布をバッと取り返す。
「すまない。だが、そのような色をわたしは生まれて初めて目にした。きみのおかげだ。礼を言う」
「……初めて?」
アヌビスは長く伸びた黒く細い尾を、肯定するかのように一度だけ大きく揺らす。
ラシャは布から顔を上げて、ぽかんとした表情を浮かべて問いかける。それに小さく頷いてから、アヌビスは目を少し細めた。
「わたしはこの場所から出たことがないからな」
「え……ず、ずっと? ずっとこんな暗い場所にいるの? なんで?」
「出る必要がないからだ」
アヌビスは即答して、どこか遠くを見つめる。彼にとっての世界はここが全てであり、それ以外を必要と思ったことも、必要であるという感情も知らなかったのだ。
「出たいとおもったことはないの……?」
「ない。ここにいることがわたしの存在意義だからな」
そう言ってからアヌビスはラシャを見遣った。
「だが、ちいさきものよ。きみの持ってくるものはわたしにとって、とても新しいものだ」
「きみが持ってきてくれなければ、わたしはその色を知ることは終ぞなかっただろう。この世界には、そんなにも美しいものがあるのだということを初めて知った」
見せてくれて感謝する、とアヌビスはラシャに向かって金色の細長い瞳を細めながら言った。
ラシャはアヌビスの言葉を聞いてしばらく黙っていた。一分、二分、いや、それ以上。
そして顔を上げるとアヌビスの大きな手をとり、再び刺繍を握らせた。
「やっぱりあげる」
「しかし、わたしは──」
「あげるってば!」
アヌビスはそれを返そうとするけれど、ラシャは大きな声を出してそれを拒否する。
握らされた美しい刺繍を再び目にしたアヌビスは「ありがとう」と再び言うと、「もっと違うの持ってくるから。アヌビスさまがあたしに加護をあげたくなるやつ!」とラシャはふい、と顔を背けながらそう言った。
「なにを持ってきても、それはできない」
「でも、あたしの持ってくるものに興味はあるんだもんね。じゃあ絶対説得するもん」
「なぜ、そこまで必死になる?」
アヌビスはふと思いついた質問を、彼女に投げかけた。
普通の人間が彼の加護を受けられないことは百も承知だ。だからこそ、アヌビスのいるここまでやってきて、それを頼み込んでくる者など今まで一人もいなかったのだ。
だというのに、目の前の小さな少女は、それが欲しいのだとアヌビスにこうして逢いにやってきた。
その理由が、彼にはわからなかった。
「そんなの決まってるじゃない、幸せになりたいからよ」
「わたしの加護が受けられれば、幸せなのか?」
「もちろんよ!」
ラシャは当たり前と言わんばかりに深く頷き、ばっと大きく手を広げる。
「だってあっちではきっといい暮らしができるし、来世ではいい暮らしができるんだから! でも、」
興奮したように話していたラシャは、そこでぴたりと言葉を止める。そしてアヌビスを上目遣いで見つめた。
「あっちに行ったら、また一人ぼっちになるの……?」
それは恐る恐る、と言わんばかりの口調。いつも快活に話す、明るい彼女に似つかわしくない、どこか怯えているようなそれ。
そんなラシャに、アヌビスは手を伸ばした。ぴくり、とラシャは身体を震わせて、目を伏せる。
「何を言っているんだ」
アヌビスは首を傾げながら、ラシャの頭に手を置いた。
そして土埃のついたくしゃくしゃの頭を何度か撫でてやる。
「そのために、わたしがいる」
「わたしは冥府の守り人。彼らを、わたしは傍でいつも護っている」
「寂しくならないよう、苦しくならないよう、わたしが、全てなんとかする。それがわたしの役割だ」
アヌビスはそう言いながら尾を何度か揺らす。
その言葉を聞いていたラシャは少しぽかんとした表情を浮かべ、目をぱちくりと何度も瞬きさせたあと、けらけらと笑った。
「じゃあ、やっぱり絶対アヌビスさまの加護を貰わなくっちゃ!」
「無駄だと思うが」
「ふん、そんなことないわ。アヌビス様が気に入る贈り物を、見つけてみせるもの」
げほ、とラシャは小さく咳き込む。そして得意げに笑ったのだ。
***
痛みには、慣れている。
「この薄汚いドブネズミめ!」
燃えるような痛みが顔面に走り、その衝撃でラシャは地面に倒れ込んだ。
土埃が気管に入って、思わずげほげほと彼女は咳き込む。
「お前なんて生きてる価値もないんだよ! さっさとくたばっちまえ!」
小太りの男が、ラシャに唾を吐きかける。それに何も反応せず、ラシャはへらりと地面に倒れ伏したまま笑った。
──そう、あたしはネズミ。ドブの中で生きるネズミだもの。
「何笑ってんだ! この野郎、ぶっ殺してやる」
更に憤った男が馬乗りになって、ラシャを何度も何度も殴る。
痛い、痛い。痛い。でも、大丈夫。
つー、と流れる鼻血を、ラシャは舌で舐めとって、ぼんやりと昔のことを思い出した。
『あなたは尊き人の娘なのよ』
──何百回も、そう呟く母親の目はいつも虚ろであった。
呪いのようなそんな言葉を言いながら、母親はラシャの頭を撫でて窓の外を見る。
部屋にあるのは汚れたベッド一つだけ。
先ほどまで名も知らぬ男が居たそこに、ベッドの下に隠れていたラシャは恐る恐る出てきて座り込む。
何も身に纏っていない母親が窓の外を見るそれは、まるで誰かを待っているかのような様子であった。
ラシャの母親はラシャではなくいつも窓の外を見ていた。彼女には届かない。高い高い窓の外を。
──その迎えが来ることなど、終ぞなかったというのに。
結局のところ、死ぬ間際までそんなことを言っていたラシャの母親は最期まで夢から覚めることなく息を引き取った。
けれども、その夢が終わった後でさえ、ラシャの母親に会いに来る者など一人もいない。
そこまでくれば、誰だってそんな言葉が狂った女の妄言であることなどわかりきっている。
独りぼっちになったラシャに残された道は二つだった。
母親のように身体を売るか、他人の物を奪うか。
ラシャが選んだのは後者であった。母親のように狂うことなど絶対に嫌だったから。
幸か不幸か、ラシャは手先が器用であったから、すぐにスリの技術を身に着け、それで生計を立てられるようになった。
まるで呼吸をするのと同じように自然に、当然に、他の人たちが持っている物を奪い取る。
バレたときは全力で逃げて、殴られることもあった。そのたびに命からがら逃げきった。
その日もそんな日だった。町で偶然見かけたのは、自分とは生きる世界の違う、尊き人が歩いている様子。
多くの人に護られたその人は、美しい服を纏って、美味しそうなものを当然のように頬張って、跪く彼らには目を遣りもしない。
雑踏の中、遠くからその様子を目にしたラシャはふと、小さい頃を思い出したのだ。
虚ろな目でいつも、呪詛を呟いていた哀れな女。惨めな女。身体を売っている身分のくせに、尊き人の子を産んだのだということだけを希望に生きていた女。
──でも、もし、自分が本当に尊き人の子どもだったら?
「まだ生きてんのかよ! はやく死んじまえ!」
「泥棒め! 生きる価値もないなぁ」
「汚いわね、それをはやくどっかにやってちょうだい!」
男は殴るのをやめない。
ラシャの顔を覚えていた男は、恨みが溜まっていたのか、顔を真っ赤にしてふうふうと荒い息を吐きながら小さな少女を甚振ることをやめなかった。
いつの間にか周りには見世物を見に来た観衆が集まっていて、彼らはラシャをまるでウジ虫をみるかのような冷たい目で見下ろしている。
「おぇ、ッ、ぅうッ、げほっ、げほげほっ」
最近、よく咳が出る。それが土埃のせいではないことを、ラシャにもなんとなくよくわかっている。
血の混じったそれを咳き込んでいると頭がくらくらして、うまく動けなくなるのだ。
だからこそ、普段だったら絶対にしないのに、今日に限ってラシャはミスをした。
それはラシャにとって絶対に欲しいものだった。
きっとそれをあげたら、あの黒い狼の神様はきっととても気に入って、目を真ん丸に見開いて、黙って尻尾を振るくらいには。
──それは綺麗な金細工の耳飾り。
赤と青の花の飾りのついた、鮮やかで美しいそれ。
それを持っていったらきっと、ラシャのことを冥府に送り出してくれると、ラシャは思ったのだ。
ああ、可哀想なアヌビスさま。
みんなに罵倒されて殴られて、それでも空を見上げることのできるあたし。
みんなに尊敬されて望まれて、それでも空を見上げることすらできないあなた。
──どっちが惨めなのかしら?
そんなことをぼんやりとラシャが考えていると、いつの間にか、男も観衆もどこかに去っていた。
ラシャが取り出した金細工を取り返して、血まみれで死にかけの少女には目もくれない。
「……あはは、ばーか」
ラシャは口の中に入れていた金細工を吐き出して、丁寧にそれから唾液を拭う。
いくつか盗んでいたのが功をなしたのか、ラシャが一番ほしいものは奪われずに済んだ。
口の中は鉄の味でいっぱいで、唾を吐き捨てるとそれは真っ赤に染まっていた。
体中が痛んで仕方がなくて、足の感覚がない。けれどもずるずると、ラシャは身体を引きずりながらゆっくりと歩き始めた。
行く場所なんて、彼女にはもう一つしかなかったからだ。
***
「……アヌビスさま」
ラシャは何度もやってきては、アヌビスに贈り物をした。
持ってくるものは毎回違って、それらは全てアヌビスが目にしたこともないものだった。
けれども、どんなものを持ってこられようがアヌビスは首を縦に振ることはない。
それでもめげずに何度も何度もやってくる彼女は、いつのまにか彼にとっては長い年月の中の日常の一部となっていて、そろそろこの日数ならこの時間にやってくるか、などと、ふとアヌビスが思っていた頃のことだった。
ぽつりと暗闇から聞こえた小さな声に、アヌビスは顔をあげる。
ちょうど今しがた、冥府へと旅人たちを送る処置を施し終えたところで、彼女がやってくる時間にしては随分遅いとアヌビスは思いながらその姿を見て、目を見開く。
「どうしたのだ、それは」
「え? げほ、げほっ! あぁ、えっと。ふふ、ちょっとね。げほっ」
ずるり、ずるりと、今にも倒れ込みそうなほど重い足取りでその場に現れた少女は、顔にも服にも、べっとりと赤い血がついていた。
よく見ればそれは少女の頭や顔、口から流れ出ているもので、アヌビスは思わず顔を顰める。
「あ……」
「っ!」
ふらりと倒れ込みそうになった少女に、素早くアヌビスは駆け寄って、その小さな身体を支えた。
アヌビスの大きな胸の中に納まった少女は、ぼんやりとした視線をゆっくりとアヌビスに向けてから、何も言わずにアヌビスの手に何かを乗せる。
「これは……?」
それは花のあしらいがつけられた美しい金細工であった。
思わずそれに見惚れるアヌビスに、ラシャはぽつりと消え入りそうな声で呟くように言う。
「あげる」
「しかし、」
アヌビスが言葉を続けようとすると、腕の中の重さが一気に重くなる。ラシャはぐったりと、全体重をアヌビスにかけて、力なく笑った。
「もし、あたしがここで死んだら、アヌビス様は放り出したりしないでしょ」
「……何を、言って」
「ふふ、じゃあ、あたしのことを、導くしかないわね?」
あたしの勝ち、ラシャはにこりと、意地悪そうに笑みを深める。
アヌビスは喉が渇いて仕方がなかった。
だって、その匂いをよく知っている。魂を失った者が出す匂いだ。ここに持ってこられる者たちの匂いだ。
それが、目の前の少女からふわりと漂っているのだ。
「ねえ」
弱弱しく、少女がアヌビスの腕を掴む。掴んだ先で、赤い痕がこびりついた。
以前見た刺繍よりも鮮やかで、美しい色の、それ。
「……死んだら、アヌビスさまはずっと傍にいてくれるのよね」
待て、とアヌビスは喉から絞り出すような声を出した。
それ以上、アヌビスは目の前から徐々に流れていく魂に、何を言ったらいいかわからなかった。
ただただ、胸の中の体温を抱きしめて、彼女の言葉を一言も聞き漏らすまいと耳をぴんと立てることしかできない。
そんなアヌビスに対して少女は何も聞こえていないかのように、まるで祈るかのように、その胸に縋りつく。
「──どうかあたしを、導いてください」
ぎこちない動作で、少女は顔をゆっくりと上げる。そして、少女は笑った。
満面の笑みで、腫れあがらせた顔中を赤く染めながら、虚ろなまなざしで、そのままの表情で、動かなくなる。
「……ラシャ?」
アヌビスは小さく首を傾げて、小さなその手を握る。
少しずつ下がっていく体温は、アヌビスが良く知っているものだ。
普段、氷のような体温の者たちにしか触れてこなかった彼にとって、生者の体温は、彼にとってあまりにも熱い。
目の前の少女の、いつもは火傷しそうなほど高い体温が、アヌビスのよく知る温度に変わろうとしていた。
彼は、この世の誰よりも何よりも、それが何かを知っている。
「……愚かな」
ぽつりと、アヌビスは呟いた。大きな手の平で、長い爪で傷つけないように、動かなくなったその小さな少女の髪を撫でる。
この神聖な場所で魂を失った者がいれば、アヌビスは彼らを導く義務がある。
きっと、この少女はそれをわかっていたのだ。
「──きみに、良き旅路があらんことを」
覆いかぶさるように、冥府の護り人は小さな少女の身体をそっと抱きしめる。
もう寂しくないように、苦しくないように。そんなものから護ることが、彼の仕事であったから。
そんな彼の手の平の中で金細工がきらきらと光り続けて、その輝きが止むことはなかった。




