海に消えた歌
5月の風が校庭の木々を揺らす頃、藤村紗矢は体育祭の準備でざわめく教室を抜け、職員室に向かった。ちょっとした用事を済ませようと思ったのに、歴史の先生とばったり出くわす。
「藤村さん、ちょっとこれ教室に運んどいてくれる?」
差し出されたのは古い出来事に関する追悼歌の歌詞が書かれたプリントだった。紗矢はうなずき、教室に戻る道すがら、つい手に取ったプリントの文字を読んでみる。
そこには100年以上前に姉妹校の生徒が100年以上前に起こした、冬の海で起きたボートでの遭難事故の記録とそれを悼む歌の一部が記されていた。彼女の耳元に波のような微かな声がささやくように響き、彼女は思わず手が震えた。
プリントを配り終わり、席についた途端、授業の開始を知らせるチャイムがなった。いつも気だるげにしゃべっている歴史の先生の声がいつもよりもしゃきっとしてるように聞こえた。
「今日は、○○高校の生徒が起こした昔の事故と、うちの先生がその事故を追悼するために作った歌を紹介します」
先生の声に合わせて生徒全員がプリントの文字を追う。先生がCDプレイヤーで追悼歌を流すと、紗矢の耳元で微かに誰かが囁く声がした。
”助けて……”
授業中の静けさに冬の海のざわめきと事故に巻き込まれた当時の生徒たちの声が響いた。
数か月後、紗矢は家族で高校近くの海に遊びに来ていた。青い空の下、波は穏やかで、砂浜には遊ぶ子供たちや笑い声をあげる観光客が溢れている。まるで、事故があった場所とは思えない、明るく、賑やかな風景だった。しかし、彼女の耳元に教室で感じた微かな声が響く。
”助けて……”
”水が冷たいよ……寒いよ……”
”ボート……流されちゃう……”
”お母さん、お父さん、お兄ちゃん……”
”手を…つかまえて……”
”馬鹿をして……ごめんなさい……”
明るい海とは似合わない哀しい声が紗矢の胸にずしりとささった。彼女は思い出す。授業で習った追悼歌をうろ覚えのまま、静かに口ずさむ。
ーー真白き**の……
ーー**は沈みぬ、……
ーーみ雪……**ぬ……
ーー**にかがやく、**のみ光……
ーー雲間に**し、昨日の**……
ーー帰らぬ**に、友呼ぶ**に 我も**し、……
歌い終わると、波の向こうから小さな返事が聞こえた。
”ありがとう……”
”ちゃんと届いたよ……”
海は再び静かになったが、確かに、過去の悲しみは少し慰められたのだと彼女は感じた。
翌年の冬、紗矢は一人で再び海岸を訪れた。風は冷たく、荒れた波が砂浜を叩く。観光客はいない。海は鈍色に光り、凍り付くような寒さが全身を包む。
”助けて……”
”寒い……帰りたい……”
”ボート……流されちゃう……”
”お父さん、お母さん、お兄ちゃん……”
紗矢は未だに聞こえる哀しい子どもたちの声を耳にして、立ち止まる。彼女は海に向かって小さく囁いた。
「また、歌うね」
1年半前に習った歌詞はもう曖昧だった。それでも彼女は、ハミングで追悼歌を歌いきった。
その歌声は波音に溶け、亡霊たちは微笑むこともなく、静かに海へと還っていく。
”ありがとう”
そんな声が聞こえた気がするが、それも波に紛れて、消えてしまった。亡霊たちの家族が、彼らの友人が、当時の事故を知っている人が、あの遭難事故と関係なんてほとんどない紗矢が、どれだけの人が、どれだけ追悼歌を歌おうとも、亡霊たちは成仏せず、哀しみが海に残り続けるのだ。
紗矢は小さく息を吐いた。手を合わせてもう一度歌った。また、波に消えていく自分の歌声を見送りながら彼女は思う。
冬の海は冷たく、悲しく、切なく、しかしどこか静かに揺れていた。過去の哀しみも、歌も、亡霊たちの未練も、すべては海に消えていった。
小さい頃から、誰もいない場所で声が聞こえることがよくあった。それは怖いものではなく、ただ、誰かがそこにいたような気配だ。それが空耳なのか、記憶なのか、誰かの残した想いなのかは今でもわからない。
この話はそんな記憶のかけらと授業で出会った実在の歌から生まれた物語です。