視点と文体。それと真似。
「頑張ってるんですけどね…悔しいですね…」
そう言って「嘘泣きをする田中真紀子」の真似をよくするコロンです。
とってもわかりにくく、通用するのは旦那様だけです。
それこそ「田中真紀子の真似を頑張っているんですけどね…わかってもらえず悔しいです」です。
先日なろうを退会された方が復帰しているのを見つけました。今度は女性として頑張っているようです。コロンの見間違いかもですし?まあ、なろうではよくある事です。よね?
名前や性別を変えているのに、なぜ彼女を彼だと思ったのか。それは「視点」と「文体」です。
そう簡単には変えられない「視点」と「文体」それと「真似」について考えようと思います。
まずは「視点」から。
友人の子供の話です。
先生にりんごを家から持って来るように言われた日の図工の時間。先生は、そのりんごを描くように言ったそうです。
みんなが横から見たりんごを描く中、友人の子供はクラスでひとりだけ、真上から見たりんごを描いたそう。
それを聞いたコロンは「え!!凄い!かっこいいね!!」と喜びました。幼い頃から知っているその子の視点がかっこよくて嬉しかったのです。
友人は大きく頷きましたが「でもね!先生が横から見たりんごに描き直しなさいって言ったの!」それで子どもは泣きながら帰って来たと。
コロンは「ちょっと学校に乗り込んでいい?」と言いました。
先生に文句を言いたいと。(当たり前ですが乗り込んでないですよ!!)
「横から見たりんごを描きなさい」と言ったならまだしも「りんごを描きなさい」と言ったならどこの視点でも問題ないわけです。
その「視点」を否定して描き直させるなんて、先生としてどうだろう。
もちろん友人は、何故上から見たりんごではダメなのか、理由を聞きに学校へ行きました。
先生の回答は「みんなが横から描いているから、横から描いて欲しかった」その一点張りだったそうです。
なんっっっだそりゃ!てんめー!!歯を食いしばれ!ぶんな…(自粛。自制)
同じ時間に同じ場所にいて、同じ出来事を見ても、心に残るところはそれぞれ違う。
「視点を描く」というのは、その人の癖みたいなモノがはっきりと出る。これは絵でなくとも、文でも同じだと思います。
「文体」ですね。
本でもなろうでも。同じ作家の作品をたくさん読むと、そのうち作者名を見ないでも「この作者は〇〇かな?」とわかるように思います。
言葉選びや、情景、セリフ、間合い…全てがその作者の雰囲気です。
大好きな作者であれば「この独特の雰囲気が大好き!」と思い、ますます他の作品も読みたくなりますよね。
なろうの企画でも「なりすまし企画」なるものをお見かけした事があります。
参加する作者さんが、それぞれ「違う誰か」になりすまして物語を書き、読者は書いた作者を当てるという企画です。
凄いです。読ませていただきましたが…ぜんっっぜんわかりませんでした。(未熟者)
自分の癖を消して、誰かの癖を真似て物語を書く。
これは書く方も、読む方も、相当作品を読み込んでいないと出来ない事だと思います。
相手を「大好き」でないと出来ないです。
では、大好きな作家の文体を真似ていれば、途中から入れ替わり別の作家になりすましたり、まるっと真似し続ければその人のようになれるのか?
それは無理だと思います。
なぜなら「視点」が違うから。違う視点で書く物語は「文体」がもとの作者とは少しずつズレていくと思います。どれだけ「真似」が上手でも、やっぱり少しずつ違いは出る。
逆も然りで、本人の癖というものは隠しきれず、本人より読者の方がそのちょっとした違和感に気づくものだと思います。
違う人がなりすました作品を「本人の作品」と思い込んで読んでも「ん?今回はちょっと作風が違うのかな?」くらいは思うのではないでしょうか?
真似には限界があります。真似る方にも自我がありますしね。
どこかに自分の爪痕を残したくなる日が来るかもしれないですよね。自分の存在を匂わせたくなるとか。
視点や、文体を変えるなら…真似ではなく学ぶこと。
大好きな作者の作品をたくさん読み、学び、自分なりに自分らしい作品を書く。
それがいいと思います。
「偉そうな事言うお前はどうだ?」って??
もちろん
「頑張ってるんですけどね…悔しいですね……」
メソッ…チラッ…
…チラッ…