3 今世の状況
甲板でうずくまること小一時間。
前世の記憶を思い出した反動で起こっていた頭痛や吐き気がようやく治まってきた。
その間、私はジア帝国の教団使者と船の乗組員から完全に放置されていた。
傍目に見るとひどい苦しみざまだったはずなのに、誰ひとりとして駆け寄ってくれないところを考えると、自分が立たされている状況を嫌でも思い知らされる。
(だとしても薄情よね。あそこまで無関係な顔をしなくてもいいのに。罪人に慈悲なんてないってことかしら)
私はため息を吐きながら一枚の用紙を取り出した。
異母兄から投げ渡された詳細書である。
大体が教団の地下牢で聞かされた内容と同じだけれど、にしても頭が痛くなる内容だ。
「教団に嘘の申告をしていたのは罪だけど、そのほかの罪状に覚えがなさすぎるわ……」
大方、これが好機だと言わんばかりに後暗いことがあった人々が一致団結して私に罪を着せたのだ。で、父もそれを黙認したと。
(いくら魂が欠落していて自己主張が弱い状態だったとはいえ、限度があるでしょ限度が〜〜! なによここの欄、お布施の横領って! 信じられない!)
思わずぐしゃりと紙を握り潰す。
前世の私が死ぬ間際に精霊から聞いた話によると、邪竜の依代に変わる瞬間、魔女だった「私」の魂は、界域と呼ばれる亜空間に飛ばされたらしい。
そして今世の「私」の魂と融合して、前世の記憶も蘇ったということなのだろう。
「どうしてこのタイミングなのかしら? ルベスト諸侯連邦の海域に入ったところで、急に……」
考えながら私は視線を大海原に投げた。
日差しに反射してきらきらと水面が輝いている。しかし、ある違和感に気がついて思わず首を傾げる。
(精霊の気配が、まったく感じない)
魔女時代は姿が見えないときも存在は感じていた。
それなのに今こうして意識を集中してみてもあの頃のような感覚は戻ってこない。
(アシュリーとしての私は、媒介体ではなくなったということなのかしら。でも、なんだか変だわ)
私はそっと胸元に手をあてる。
目を瞑り、息を吸う。空気中の魔素を取り込み、体に吸収することで魔力に変えた。そして、魔力を全身に巡らせるため魔菅を働かせ──。
「……うっ」
突然体の力が急に抜け、ふたたび私はその場で両手をついた。
痺れのような衝撃が頭のてっぺんからつま先を駆けていく。
(……魔菅が、機能しない?)
ううん。それどころか損傷しているわ。
どこもかしこも傷だらけ。これでは本来の働きを促せない。
(精霊の気配を感じないのはそういうことだったのね。まずは魔菅を修復しなければ以前のような力が使えない)
今の私の魔菅は、手足があっても動作指令が出せず動かすことができない死んだ脳と似たような状態らしい。
ただ、魔菅の場合は修復できる手立てがある。魔素が含まれた食事や十分な睡眠を取ることで少しずつではあるけれど、元の状態に戻せる……はず。
「おい。先ほどから奇行を繰り返してなんの真似だ。まさかこの期に及んで、黒の公爵との婚姻を取りやめようという算段か?」
ずっと素知らぬ顔でいた教団使者が、面倒そうに近寄ってくる。そして床に伏せた私を見下ろし吐き捨てた。
「……たんに気分が悪かっただけです。初めての船旅で疲労が出たのだと思います」
「もうじき港に到着する。罪人はおとなしく役目を全うすることだけを考えろ」
そう言って教団使者は元の定位置に戻っていった。
海域に入るまではずっと船室に閉じ込められていたけれど、すでにルベスト諸侯連邦の海域に入り、遠目にはシュバルツィア領の貿易港が見える。甲板で待機しておけということなのだろう。
(役目の全う、ね)
ジア帝国では罪人扱いの私が、なぜ対立関係にあるルベスト諸侯連邦のシュバルツィア公爵家に嫁ぐ流れになったのか。
それは、ルベスト諸侯連邦が聖女のもつ神聖力を必要としているからだ。
ルベスト諸侯連邦は、六の領土を各諸侯が治める連合領。
そして各領地には諸侯が守護する『大結晶』というものがあり、神聖力を用いてそれを修復させるのが私の役目だという。
今回、ジア帝国は「聖女」をルベスト諸侯連邦に引き渡す代わりに、莫大な手付金を受け取ったらしい。
シュバルツィア公爵との婚姻は、契約をより強固にするためのものだと思われるが、そもそも──。
(私は「聖女」ではないし、今はもう聖女候補だった罪人なんですけど?)
そんな人間をルベスト諸侯連邦に送るだなんて、どれだけ相手をバカにしているのかしら。
昔から敵対関係にあり、幾度となく戦争を繰り返してきた歴史があるからさらに拗れようとどうでもいいってこと?
(役目の全うも、最初から神聖力で大結晶を修復することではなったんでしょうね)
おそらく、だけど。
神聖力もろくに扱えない役立たずの私が来たとなれば、シュバルツィア公爵を含めた各諸侯たちは今回の契約がいかに下手に見られていたのかを理解するだろう。
最悪の場合、処断される可能性が高いはず。
教団としては多くの罪を被せた罪人が殺されようが痛くも痒くもないし、むしろそれが目的だったのかもしれない。
(契約上は「聖女」を引き渡したことになっているから、その聖女が殺されればルベスト諸侯連邦に追求できる隙をジア帝国に与えてしまう)
契約の中身がいい加減だったとしても、レグシーナ教団を抱えるジア帝国は、世界中で優位に立てる強国だ。いくらでも情報は書き換えられてしまうだろう。
私の憶測がどこまで当たっているのかはわからない。しかしこれだけは言える。
私はルベスト諸侯連邦が求める「聖女」ではないし、神聖力も使えない。この事実は変えられない。
(そうなれば、シュバルツィア公爵との婚姻も破綻になるだろうし。帝国や教団のためにいずれバレることをギリギリまで隠し続ける必要はないわ)
一応シュバルツィア公爵とは、書類上夫婦になっているんだっけ?
私が地下牢で監禁されている間に、ルベスト諸侯連邦の使者が手付金を渡しに教団に来ていたというし、その際に簡略化された代理調印式を行ったという。
「…………よしっ」
それならと、私は決意した。
まずは書類上の旦那様であるシュバルツィア公爵にお会いして、離婚を申し出ようと。
(せっかく精霊のおかげで生まれ変われたんだもの。今世こそはもっと自由に生きたいし、普通の女の子のように恋だってしてみたいわ)
ひとまずジア帝国やレグシーナ教団の問題は頭の端に置く。
今は顔も知らない旦那様と一日も早く接触することだけを考えよう。
シュバルツィア公爵に会わなければ今世の私の状況を変えることができないのだから。