15 地上の星々のため
「そういえば、先ほどゼイン様をひどく怒らせてしまいました。申し訳ありません」
なんとなく話が纏まったあと、依然としてバルコニーから出る気配のないシュバルツィア公爵に私は頭を下げた。
すると彼は、思い出したように「ああ」と声を漏らした。
事の始終は大方予想がついているらしい。
「あの場でほかに適任がいなかったとはいえゼインを案内役にした俺の責任だ。女が苦手で近づけないから直接的危害は加えないだろうと思って任せたんだが」
「女の人が苦手? ゼイン様がですか?」
「普段は母親とルーチェ以外とは、目も合わせられないくらいには苦手らしい。社交場ではなんとか悟られないように受け答えしているが」
そう話すシュバルツィア公爵のもとにピョンピョンと手すりの上を跳ねるようにしてクロちゃんが近づく。私たちの会話をずっと静かに見守っていたクロちゃんだったが、彼に顎下を撫でられるとご満悦そうにしていた。
「目は合わせられましたけど、確かに距離は取られていたような気がします。なるほど、そういう事情もあったのですね」
そんなゼイン様が兄を想って私に苦言を呈していたのかと考えると、やっぱり嫌いにはなれないと思った。
「……脅す気はないが、ゼインの態度はむしろ生ぬるいほうだと思っていたほうがいい」
これから夜会に向かう私に気遣ってか、シュバルツィア公爵は静かに話し始める。
初めから彼は私の教団信者らしからぬ態度に強い関心を寄せているけれど、私からすればこの人もよっぽどだと思う。
視線や言葉から伝わってくる憂慮に近い感情。間近でそれを感じるたび根はかなり優しい人なのかもと思わずにはいられなかった。
「ご忠告痛み入ります。自慢ではありませんけど、好奇の目に晒されるのは慣れていますからご安心ください」
ふふん、と自信ありげに笑う。シュバルツィア公爵はわずかに目を丸めた。
「これは個人的な質問として受け取ってほしいんだが」
「? はい」
「その慣れを経験したからこそ、お前は"今度こそ自由な人生を送りたい"のか?」
「え――」
思いのほか真剣な顔で問われた質問にドキッと心臓が跳ねる。
ありえない話なのに、一瞬前世のことを指摘されているのかと勘違いした。でもよくよく考えてみると、通された部屋で彼と話したときに似たようなセリフを口にしてしまっていたのを思い出す。
今度こそ自由な人生を。
それは魔女時代の魂と記憶が蘇った私の願いだけれど、彼はレグシーナ教団で罪人にまで堕ちた私の望みと捉えたのだろう。もちろんそれも間違ってはいないのだけれど。
「そう、ですね……はい」
当たらずとも遠からずな問いに、私は曖昧に口を動かして、それでも深く頷いた。
「自由な人生を手に入れて、何をしたい?」
「旅をしてみたいです。いろんな場所をこの目で見て、人々の暮らしを肌で感じたい」
「なら、俺はそんなお前の願いを邪魔する立場ってことだな。さすがに自由に旅はさせてやれそうにない」
「そうでしょうか。機会はあるかもと思っていますよ。故郷のジア帝国ももちろん選択肢にはありますけど、特に私が見て回りたいのは、ルベスト諸侯連邦の六領土ですから」
素直に行きたい場所について述べた私に、シュバルツィア公爵は少し意外そうにした。
「故郷を深く知りたい気持ちは理解できるが、もともと六領土にも思い入れがあったのか?」
「はい。人間、鬼人族、魚人族、蟲人族、獣人族……このテイル大陸で唯一さまざまな種族が共存を図るこの大地は、とても魅力的ですから」
それを聞いたシュバルツィア公爵は口を閉ざした。
このときばかりは彼の考えが読めた。レグシーナ教団の者が異種族に対してそんな考えを抱くなんて、と思ったのだろう。
しかし黙っているということは、彼の知る常識の枠組みから外れた存在として認識される私に今さらそれを言うのも野暮だと考えたに違いない。
ここに来て珍しく彼のわかりやすい沈黙を目にして、私はふふっと笑った。
「この魔女の都も、本当に素敵な場所ですね。実際に歩き回れてはいないけれど、これだけで素晴らしい場所なんだとわかります」
魔女塔のバルコニーから眺められる都の夜景は、特別は照明が街の至るところに設置されているのか、キラキラと輝いている。
でも、単なる照明だけの輝きではない。そこに種族の垣根を越えた人々が無数に存在するからこそ、魔女の都はなによりも美しく、感動的に映るのだと思う。
そう。まるで――。
「地上の星々」
言いかけた言葉が隣から聞こえて、私は驚いて横を向いた。
「千年前、大地に生きる数多の命を、魔女様はそう譬えた」
視線は都の景色に固定されたまま、シュバルツィア公爵はおとぎ話を語るような柔らかな口調で言った。
そんな彼の瞳の奥には、強い決意の炎が揺れているようだった。
「俺はこの星々の光を絶やしはしない。陰ることも霞むことのない、魔女様が求めた太平の世が永劫に続くこと。それが俺の願いであり、やるべき使命だ」
それはきっと、心からの彼の本意なのだと直感した。
同時に私の意志が千年後の世界で、確かに紡がれているのだとわかりひどく胸が熱くなる。
少し怖いくらいに真剣な横顔に、私はそっと首を縦に動かし同意した。
「では、気合いを入れて公爵様の妻を演じなければいけませんね」
すると、シュバルツィア公爵はハッと顔を軽く上げ、それから私のほうに目線を寄こした。
自らの発言を省みているのか、突然真面目な話をしてしまって気まずいと言いたげに眉間を狭めている。
だが、それもほんの数秒のことで、彼はすぐに平常時の余裕綽々とした表情に戻った。
「俺のことはギルベルトでいい」
「ギルベルト……様?」
「呼び捨てでも構わないぞ。それか愛称という手もある」
「愛称も良さそうですが、とりあえずギルベルト様と呼ばせていただきます」
「そうか」
きっぱりと言い切ると、シュバルツィア公爵改め――ギルベルト様は機嫌よく頷いた。
そして夜会がおこなわれる大広間に向かう時間となり、彼は私に向かって腕を差し出してくる。
「言い忘れたが。お前も相当いい女に見えるな」
「……へ?」
「そのドレス、よく似合っている」
まさか褒められるとは思っていなかったので、反応に遅れてしまう。
「俺には散々色っぽいだの素敵だの言っておいて、自分のことは忘れていたのか」
「あ……は、はい。すっかり。お褒めいただきありがとうございます」
おずおずとお礼を言って彼の腕に手を添え、歩き出した途端に隣から吹き出す音がした。
「……産まれたての何かか?」
「こんなに高いヒールの靴は初めてなので」
「俺のほうに全体重かけられている気がするんだが」
「逞しい腕をお借りできてありがたい限りです」
揶揄うような声音に、なんとなくバツが悪い心地で呟く。
「はははっ」
なにが面白かったのかギルベルト様は笑い声を上げた。
こっちは転ばないように、なおかつ自然体に見えるように足を動かすので必死なのに。
全く遠慮のない反応を横目に、私はギルベルト様とバルコニーを出る。
手すりにいたクロちゃんは中に入ってくることはなく、こちらにつぶらな両目を向けて私たちを見送っていた。
「ところで、クロちゃんは放し飼いなのですか?」
「基本はそうだな。伝書鳥といっても仕事がないときはその辺を飛んで回ったり、俺の行く先々をついてきたりしているが……って、クロちゃんだと?」
「ああ、すみません。名前がわからなかったので、見た目から単純にクロちゃんと呼んでしまっていました。よろしければあの子の名前を教えてくださいませんか?」
「…………」
そう尋ねた私に、ギルベルト様はなぜか決まりが悪そうにする。聞いたらまずいことだったのかしら。
コツン、コツンと二人の靴音だけが廊下に響く。
「クロだ」
「え」
沈黙のあと、ギルベルト様は観念したように言った。
「お前と同じ、至って単純な名付け理由だよ」
数秒後、今度は私が小さく吹き出してしまった。
ネーミングセンスがまるっきり同じだったことに、意外と気が合うのかもしれないと、密かに思うのだった。