10 二度目の人生、そう上手くはいかない。
――あんのクソッタレ銭ゲバ教団が。
凄みのある呟きの後、シュバルツィア公爵は無言で椅子から立ち上がり、先ほどのバルコニーに繋がる硝子扉をふたたび開け放つ。
そして手すりに背を預けた彼は、懐から葉巻を取り出して口に咥えた。
「…………はー」
私は手当の済んだ伝書鳥を腕に抱え、煙をくゆらせているシュバルツィア公爵の様子を物陰から窺う。
聖女じゃないという話を聞いた途端、美形顔が一瞬にして指名手配犯の人相書きのような表情になっていたけれど、葉巻のおかげで落ち着いたみたい。
(綺麗な黒髪。意外と長いのね)
正面から見ると耳とうなじにかかる程度に長さだけど、後ろで細く束ねられた髪が背中まで伸びている。
それが風に靡いてそよそよと揺れ動いているので、まるで宙を優雅に泳ぐ魚のように見えた。
「話を中断して悪かったな」
「……いえ、心中お察しします」
言わずもがな、聖女を求めていたのに聖女候補の役に立ちそうもない女を引き渡されて苛立っていたのだろう。
むしろ葉巻を咥えただけで落ち着きを取り戻していることに驚いたわ。
「で、お前は本当に聖女ではないと?」
「はい。教団では一応聖女候補として籍を置いていましたが、それも力の隠蔽によるものでして。私の神聖力は本当に微々たる……」
「待て待て。俺は何度人の話を中断すればいいんだ」
シュバルツィア公爵はもう勘弁してくれと言いたげにため息を吐く。
円卓の部屋で対峙したときは、この造形美のような顔立ちと鋭利な雰囲気が合わさって独特の近寄り難さがある人だと思った。けれどこうした姿を目にすると、案外人間味のある人物だということがわかる。
(……この人に、どこまで話そうかしら)
魔女信仰が根強いルベスト諸侯連邦とはいえ、深い事情を話せるほど信頼できる人なのかはわからない。
というか、まだ信頼以前の問題だけれど。
「おかしいとは思ったんだ。あの教団が手付金と引き換えにそう易々と聖女を引き渡すのかってな。案の定、嵌められていたわけだが」
シュバルツィア公爵は葉巻を挟んだ指で眉間をとんとん、と軽く押している。
そして、紫がかった黒い瞳が私を見定めた。
「……隠蔽というのはどういう意味だ?」
「それは──」
私は前世が魔女だという事実を省いてこれまでの経緯を説明することにした。
大まかな内容としては、七聖使徒家のダフネル子爵家の私生児で、生まれつきわずかの神聖力と魔力を宿す身であり、生かすか殺すか悩んだ父によって情報を隠蔽され、つい最近まで聖女候補として教団に在籍していたというところまで。
加えて、力の隠蔽がバレた後、隠蔽の罪のほかに他人の罪を一緒に押しつけられ、罪人として教団から追放されたということも。
「……そんな人間をルベスト諸侯連邦に引き渡してきやがったとは、随分と舐めた真似してくれるなぁ」
顔は笑っているけれど、シュバルツィア公爵の目はあきらかに据わっていた。
彼の言うとおり、ジア帝国もレグシーナ教団も、常に他国を下に見ている。
宗教観の関係でそれが顕著に表れているのがこのルベスト諸侯連邦だ。
(契約とは名ばかりでコケにされたも同然。怒って当たり前よね……)
私にとっても不可避な状況だったとはいえ、渦中にいる身としてやっぱり少し申し訳なくなってきた。
(前世を思い出して、最初はただ今度こそ自由に生きてもいいよねって、そればっかり考えて浮かれていたけれど。さすがに呑気すぎたかも)
もちろん離婚はしたいし、二度目の人生は好きなように謳歌したいという気持ちに偽りはないけれど。
そんなことを頭の中で黙々と考えていると、葉巻を一本吸い終えたシュバルツィア公爵と目が合った。
「よし、お前が聖女でもなんでもない罪人だったってことはわかった」
「罪人……」
「なんだ不満か?」
「その、改めて口にされると複雑といいますか」
「他人の罪を着せられたことに関しては同情するが、お前も教団側としてルベスト諸侯連邦を騙した人間には変わりないだろ。たとえ本意ではなかったとしてもな」
「おっしゃる通りです……」
そう、いくら前世の記憶を思い出す前だとか、魂が融合していなかったとかなどの理由があったとしても、私の内情なんて彼には関係ないことよ。
こうして軽く蔑むような目つきをされても文句は言えない。
私はしゅんと肩を縮こませながら彼の言葉を聞き入れた。
「大した神聖力が扱えないからそばに置いても意味がない、だから離婚させてほしい。それがお前の言い分だったな」
「はい、そうです」
答えると、シュバルツィア公爵はバルコニーの手すりから体を離してふたたび部屋の中に入ってきた。
こつこつと響く靴の音。
シュバルツィア公爵は私の目の前に来ると、そのままじっとこちらを見下ろした。
「8千万ゴルド」
短く紡がれた言葉に、一瞬なんのことだか理解が追いつかない。
しかし、すぐに見当がついた。
「も、もしかしてそれって」
おそるおそる口を開いた私に、シュバルツィア公爵は「ああ」と言って頷く。
「ルベスト諸侯連邦とレグシーナ教団との間に交わされた契約に則り、こっちが渡した手付金の額だ」
くらりと眩暈がする。まさかそこまでの金額だったなんて。大金すぎて意味がわからない。
金銭感覚は人それぞれだけれど、平民は一生遊んで暮らせるだろうし、なんなら貴族だって贅沢三昧できる。
「こっちは聖女にそれだけの額を支払ったわけだが、その見返りはお前という神聖力の扱えない女がひとり」
「…………」
「だからといって"なんだって、神聖力が扱えない? ならお前とは即刻離婚だ、さあどこへでも好きに行け"──なんてことには、さすがにならんと思わないか?」
……まさしくおっしゃる通りです。