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1-3(3)

 歯でファーストエイドキットのバックルを引きちぎり、片手でふたをこじ開け、パッケージを歯で破いた瞬間、ツンとした消毒用アルコールの匂いが鼻を突いた。

 和昭が一歩踏み出そうとした時、弥往終はそれを手で制した。

「ラップは二段目にある。3メートルほど引き出して、宙にピンと張ってくれる?」

 そう言いながら、彼女の右手はすでにピンセットでポビドンヨードを染み込ませた綿球を摘み上げ、傷口を中心にらせんを描くように消毒していた。

 黒ずんだ布は、手術用ハサミで縫い目に沿って丁寧に裂かれていた。

「千夏ちゃん、指先から肘までの長さの固い素材を二枚。接合部には曲線処理を。……はぁ、まるで教科書に出てくるような骨折だね。」

 理央のスマホの懐中電灯が揺れ、弥往終の額にはじっとりと冷や汗が浮かぶ。

 それでも彼女の手は止まらない。

 宙に張られたラップを巻き取りながら、左手の薬指でロールを引き出し、親指の付け根で端を固定して、上下にずらすように三重に巻きつけていく。

「今、副木が二枚必要だけど……ここにあるのはプラ弁の蓋くらいか。」

 弥往終の視線が冷蔵エリアに走っていく千夏の背中を追った。

 やがて、千夏が弁当の山から掘り出した木製トレーを掲げて戻ってくると、弥往終はちょうど包帯を歯で結んでいるところだった。

「いいね。シナノキの縦方向の圧縮強度はプラ弁の蓋の二倍以上。立派な代用品だ。次はパッド。たしかこのあたり、を収納している場所があるはず……質が悪くても構わない。」

 まもなく、和昭が見つけたダウンジャケットを抱えて戻ってきた。

 弥往終はすぐに裏地から中綿を引き抜き、ハサミの先で繊維をふわりとほぐしながら、シナノキの内側に指二本ぶんの厚さでクッションを敷いていた。

 固定も、もはや誰かの指示は不要だった。

 包帯は手首で八の字巻き、肘を45度に吊るし、最後に手を衣服に包み込んで保温した。

 まもなく、弥往終はすでに右手で三角巾の最後の結び目をきゅっと締めていた。

「氷嚢ちょうだい。」

 彼女が言い終わる前に、理央は冷凍庫から出てきた固い氷を使って簡易的な氷袋を作った。

 弥往終はそれを受け取り、布越しに腫れた部分に押し当てた。

「終わり!!」

 和昭は彼女の裂けたズボンの膝に新たに追加された血痕を見つめた。

「膝、どうした?」

「骨折に比べたら、こんな浅い擦り傷なんて羅刹への前菜みたいなもんだよ!凝固機能もバッチリ働いてるし、全然気にするほどじゃないって!」

 そう言いながら、弥往終は血のついた綿をぴたりとゴミ箱にシュートした。

「で、誰か水のボトル開けてくれない? 左手じゃ今、キャップに勝てそうにないし。自分でもよく分かんないんだけどさ、なんか今めっちゃ水飲みたくて……

 あっ、そうだ。水って言えばマンホール蓋閉めといて。まだちょっと臭うから。」

 そう言って、彼女は地面にぽっかり開いたままのマンホールを指さした。

「ちょっと待ってください。」

 千夏がタクティカルポーチから小さなジェルカプセルを二つ取り出し、井戸に放り込んだ。

 液体に触れた瞬間、カプセルがはじけ、淡い青い光がふわっと広がった。

「これで臭いを中和できます。今、閉めても大丈夫です。」

「本当に?」

 弥往終は突然言った。

「はい、そうです。それに、冷蔵庫の温度が少しおかしいです。」

 千夏が言った。

「おかしい?」

「第三冷凍庫の温度がゆっくりと上がっています。」

 そう言って、千夏はスマホを掲げ、画面には自作の温度監視プログラムの波形が表示されていた。

「1時間あたり0.3度ずつ上昇していますが、表示は正常なままです。」

「それは……」弥往終は目を細めた。「何?」

 ――ガンッ。

 奥の棚の間から、何か重いものが床に落ちた鈍い音が響いた。理央の手元にある万年筆が、カチッと一瞬だけ光を反射した。

 ……影が七つ。

 それぞれ違う角度から、彼らを包囲するように忍び寄ってきていた。

 先頭の大きな男は背が高く、血まみれのバットを手に持ち、トレーニングジャケットの肩越しに、筋肉が隆々と盛り上がっていた。

「……」

「……誰?知らない。」

西山武にしやまたけし。」

 弥往終の口調には軽蔑がにじんでいた。

「体学部のあの、小脳だけで頭がいっぱいの連中のリーダーだ。」

「また、緑科か?」

 ――バンッ!

 弥往終の後頭部が金属の棚にぶつかり、冷たい倉庫の中に金属音が響き渡った。

 西山武は床に座り込んだ少女たちを見下ろしながら、低く問いかける。

「……お前ら、どうやってここに入った?」

 和昭は無言のまま、そっと救急箱と千夏を守りながら言った。

「バイトでここに来てたんだ。避難できなかっただけ。」

「誰が勝手に医療物資を使っていいって言った?」

 千夏は必死に救急箱を抱え込んで、その体から一歩も動こうとしなかった。西山武の唾が飛んで彼女の顔にかかっても、彼女は全く気にしない。

「バイト?お前らにこの空気を吸う資格すらねぇんだよ!」

 西山武は千夏の襟元を乱暴に掴み、足が地から離れるほどに持ち上げた。救急箱から落ちた包帯が、彼女の宙に浮いたつま先の下に散らばった。

「見ろ、このバカども……止血ガーゼまで死人に無駄遣いする気か!」

「ないです。」

「……西山、もうやめろ。」

 その隣に立っていた、深青色の短髪で右の口角にほくろがある副隊長の雪元修世ゆきもとしゅうせが言った。

「彼女たちはもう——」

「黙れ。」

 西山武は振り向きもしないまま、足元の包帯を虫けらのように蹴り飛ばし、鼻で笑った。

「こんなタイミングで俺に指図だぁ?今まで何回も姿すら見せなかったくせに……何、今度は棚の味でも見てみたいのか?」

「文明人らしく交渉を。」

 理央は静かに言いながら、手元の電磁パルス発生器を起動させようとした。

 だがその手が動く前に——

 バキッ!

 突如として振り下ろされた野球バットが彼女の肘を直撃した。

「こんなオモチャで俺を止められると思ったか?」

「おや、君もいたんだね。」弥往終は何故か理解不能な言葉を発し、倒れ込んだ。

 電磁パルス発生器は空中で弧を描きながら落下し、そのまま西山武の手の中へと収まった。

 金属の外殻が握力に軋みを上げ、ダイヤルが30メートル先の冷凍庫の端へ転がっていた。

「子供のおもちゃ、今じゃ俺のもんだ。」

 西山は火花を散らす装置をくるくると指先で弄びながら、不敵に笑う。

「聞いたところによると、これの中には追跡機能が隠れてるって?」

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