異変
最近クレソンの様子がおかしい。ソワソワしているような、怯えているような。それにロイドも騎士隊も頻繁に魔獣討伐に出掛けるようになった。
あの魔獣除けのシールドが効果を発していないのか、と思ったがそうではないらしい。シールドが稼働していない所を抜けたり、大きく迂回したりして魔獣が出没しているようだ。それにしても異常だ。シールドを設置する以前だって、ここまで魔獣が人の領域に姿を現すことなんてなかったのに。
「ロイ?」
何かが額に触れる気配に気が付いて目を覚ますと、ロイドが着替えを済ませアンジェニカの顔を覗き込んでいた。
「起きた?」
「またなの?」
「ああ、今回は割と近い。赤怪鳥が大量発生して一ヶ所のシールドに突っ込んでいるって」
「それは変ね」
「ああ、変だ」
赤怪鳥は警戒心が強く、人前に滅多に姿を現さない。しかも単体で行動する怪鳥なので、一ヶ所に大量発生しているということ自体があり得ない。
「私も行くわ」
アンジェニカがベッドから降りようとするとロイドが手で制した。
「大丈夫だ。直ぐ戻るから心配しないで」
「でも」
「最近クレソンも調子がよくない。無理は禁物だよ」
そうだ。クレソンが嫌がって森に行きたがらなかったり、ずっとクンクンと鳴いていてアンジェニカから離れなかったりと、とにかくあまり調子がよくない。病気でもないし怪我もしていないので理由が分からず、エブソンも首を傾げている。
「赤怪鳥は煮るととても美味しいんだよ。折角だから沢山獲ってきて、リアーナに調理してもらおう」
そう言ってロイドが笑えば、それ以上アンジェニカには言えない。馬に乗ってもいいが、そうするとクレソンが益々悲しそうな顔をするし。
「分かったわ。気を付けて」
軽く口付けを交わすと、ロイドは蕩ける笑顔を見せてから部屋を出て行った。
「何が起こっているのかしら?」
そう思うと、やはりじっとしていることは出来ない。それに、何故かクレソンが鳴いているような気がした。まだ外は薄暗かったが目も覚めてしまったしと、パンツスタイルに着替えたアンジェニカは、急いで厩舎にあるクレソンの寝床に向かった。
アンジェニカの予想通り、クレソンは小さく丸くなって鳴いている。
「クレソン」
アンジェニカがクレソンの名前を呼ぶと、クレソンはパッと顔を上げてからアンジェニカに駆け寄り、バタバタと尻尾を振りながら身体を一生懸命アンジェニカに引っ付けてくる。アンジェニカがクレソンの身体を撫でると、嬉しそうに益々尻尾を振り回した。
「どうしたの?クレソン。一体あなたは何に怯えているの?」
クレソンがこんな行動を取るようになったのは、魔獣が頻繁に出没し始めてから。
ロイドは「大丈夫だ、君が心配する必要はないよ」といつも言って笑っているけど、さすがにこうも状況が異常だと、その言葉を素直に信じるのは難しい。
「ねぇ、クレソン。あなた、何か知っているの?」
アンジェニカが聞いても、クレソンは耳をぱたんと折って必死にアンジェニカから離れまいと身体を擦り付けるだけ。それにずっとその身体に触っていると細かく震えていることが分かる。
何かに怯えている。何かしら?それに、心臓の奥の方でザワザワしている。
その時、遠くの方で高い金属音のような音が聞こえた。
「赤怪鳥の鳴き声だわ。こんな近くに聞こえるなんて」
ロイドが割と近いと言っていたが、鳴き声からしてかなり近そうだ。
「クレソン、ちょっと待っていて」
アンジェニカは邸に戻って猟銃を両腰に二挺差し、背中に一挺背負った。
因みに三挺のうち、ロイドから貰った銃はマザー、ヨシュアから貰った銃はオールドシスター、グランデから貰った銃はヤングシスターと名付けている。
アンジェニカが背負っているヤングシスターは銃身が長めで、特に長距離で獲物を狙いたい時に使う為、アンジェニカの狩猟スタイルには合わず、あまり出番がない。とても高価なもので、使うのさえ気が引ける代物であることも問題なのだが。
準備が整い部屋を出ようとした時、アンジェニカの部屋のドアの前に立っていたメアリーにぶつかりそうになった。
「お部屋にお戻りください」
「メアリー?」
「旦那様から奥様を邸から出さないように指示されています」
「ロイが?何故?」
つまり、危険ってことじゃない?
「メアリー、私は行くわよ」
「いけません。クレソンも本調子じゃないのです、危険です」
そう、きっとかなり危険なのだ。最近クレソンの調子が悪くて森に入っていなかったからよく分かっていなかったが、多分アンジェニカを近づけさせたくないほど危険なのだ。
「メアリー。行かせて」
「奥様を行かせてしまったら、職務怠慢でクビになります」
「そうしたら、私が雇うわ」
そう言うと、メアリーはじっと考え始めた。
あら?そこは考えるところなのかしら?
「分かりました」
「分かりました、じゃ有りませんよ、メアリー!」
メアリーがビクッとして恐る恐る振り返ると、ハンナが鬼の形相で睨み付けている。
「奥様に何かあったらどうするつもり?」
「ハンナ、大丈夫よ。私は近づかないわ。どうなっているのか様子を見たいの。皆の邪魔は絶対にしないから」
「なりません」
「ハンナ。お願い、絶対に離れているから」
「そういう問題ではないのです」
それでもしつこく食い下がるアンジェニカに、ハンナは大きく溜息を吐いた。
「奥様がとても頑固であることは存じております」
「そうね」
「メアリー」
ハンナはメアリーを鋭く睨み付けた。
「死んでも奥様をお守りしなさい」
そう言うとアンジェニカとメアリーは嬉しそうに手を取り合った。
「ありがとう、ハンナ!行ってくるわ」
アンジェニカはクレソンの元まで急いだ。
「クレソンが走ってくれるといいのだけど、無理なら馬で行くしかないわ」
厩舎に着く前にクレソンが飛び出してきた。アンジェニカの匂いに気が付いたのだろう。
「クレソン。私、ロイの所に行きたいの。乗せてくれる?」
アンジェニカが訊くと、クレソンは「クーン」と鳴きながらアンジェニカの手を舐めた。そして、意を決したのか特注のハーネスを咥えて戻ってきて、アンジェニカの前に落とした。アンジェニカが嬉しそうに微笑んでそれをクレソンに着けると、クレソンはゆっくりと前足を折って身体を伏せた。それは、「乗れ」の合図だ。
「ありがとう!クレソン」
アンジェニカがクレソンに跨ると、その後ろには馬に乗ったメアリー、そしてエブソン。
「エブソン」
「奥様の護衛ですよ」
「……ありがとう。ごめんなさい」
アンジェニカの我儘に付き合わせるのは申し訳ない。それでも行かないといけないと思う。
「クレソン、ロイドの所に連れて行って」
アンジェニカがそう言うと、クレソンは「グゥ」と唸るような返事をして軽快に走り出した。
しかし、その走りが持続することはなかった。十分も走ったところでクレソンの足が止まったのだ。それどころかメアリーとエブソンが乗っている馬たちも、それ以上進むことを嫌がっている。仕方なく三人はその場から遠くを見るように目を凝らした。何も見えない。
アンジェニカはクレソンに乗ったまま横にある大きな岩に上り、猟銃の中でも一番長距離を狙える、猟銃を構えスコープを覗いた。
凡そ二キロ先で赤怪鳥と戦っている騎士隊が見える。地面にも赤怪鳥が転がっていて、かなり仕留めたようだが騎士隊も随分と疲弊しているようだ。ロイドの姿は見えないが。
辺りを見ると樹林の奥に何か大きな猛獣の影が見えるが、それが何なのかは分からない。赤怪鳥のかなり後方で、様子を見ているようだ。
「あれは何?」
いや、今はそれどころではない。
「二キロ先で騎士隊が赤怪鳥と応戦中。私はここから狙うわ。周囲に注意していて」
「分かりました」
赤怪鳥はあまり高くは飛べないし飛行速度も速くはない。鳥型の魔獣の中でも比較的身体が小さめだが、その爪に引っかかれれば肉を抉るほどの力があり、硬く鋭い嘴を持っている。
狩りの際には獲物に狙いを定め、急降下して獲物に嘴を刺して捕る肉弾ニードルが赤怪鳥の狩猟方法だ。一度急降下したら止まれないので失敗率はかなり高いが。その為、食事にあり付けないことも多い赤怪鳥は、普段は殆ど動かない。
アンジェニカはスリングを肘に掛け、銃床を肩に当てた。
赤怪鳥の羽はとても硬く、距離があると致命傷を与えるのは難しい。通常は羽ばたいた羽の内側を狙うか首を斬り落とすかだ。赤怪鳥と相性がいいのは接近戦なら長剣。飛行中なら銃や弓といった感じだ。
しかし今は、バタバタと羽を激しく動かしながら騎士隊に向かって爪や嘴で攻撃している為、羽の内側に狙いを付けるのは難しい。
「とりあえず一体でも落とせたらいい」
アンジェニカがスコープを覗いて照準を合わせる。剣で応戦している騎士に当たらないように、羽ばたいて騎士から離れた一瞬を狙う。
「……」
今!
そう思った瞬間にトリガーを引くと、銃声から少し遅れて赤怪鳥の羽の動きが止まり、身体がボトリと落ちた。騎士は驚いていたがすぐに近くの赤怪鳥に向かって行く。
アンジェニカは別の赤怪鳥に狙いを定めた。
「……」
来た!
その瞬間にトリガーを引いた。そして、スコープからボトリと落ちる赤怪鳥が見えた。
「よし」
そう呟いた時、高い遠吠えが聞こえた。アンジェニカが驚いて先ほどの大きな猛獣に銃を向けたが、既にそこにその姿は無い。そして、その遠吠えが合図だったのか赤怪鳥が一斉に森の奥に飛んでいった。
「……赤怪鳥が引いたわ」
ホッとした瞬間に身体がブルッと震えて、力が抜けていった。
「今の遠吠えは何だったのでしょうか?」
メアリーが呟く。
「クレソン!」
エブソンがクレソンの様子に気が付いた。アンジェニカはエブソンの声に振り返り、自分の後ろで小さくなって震えているクレソンを見た。
「クレソン!」
アンジェニカは吃驚してクレソンを撫でる。クンクン鳴きながら震えるクレソンを見て、アンジェニカはクレソンが怯えているものの理由が分かった。
「あなたが怯えているのは、さっきの遠吠えの主なのね」
アレは 紅狼の声。その遠吠えで一斉に引いた赤怪鳥。魔獣の樹窟に潜む魔獣たちの異常な行動の理由が紅狼だとしたら?
「奥様!」
「え?」
「早く帰りましょう!ご主人様が帰って来てしまいます」
「そうだわ」
クレソンは未だに耳を垂らしているが、帰るという言葉にはかなり敏感に反応している。
「帰ろうか、クレソン」
アンジェニカがそう言うと、僅かに尻尾を振った。そして、アンジェニカが背に跨るとスッと立ち上がり、ぴょんと岩を蹴って地面に下りる。クレソンはメアリーたちを待つこともなく、屋敷までの山道を脇目も振らずに駆けて行った。
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