脇役のアンジェニカ
荷物は意外と早く纏まった。元より持ち物は多くない。必要最低限のドレスしか持ち合わせていないし、アクセサリーも自分で買ったものが数点。プレゼントされた宝石と猟銃とその他諸々。
ゲイルズから貰ったイミテーションは置いて行こう。きっとベロニカならそれに気が付いて喜んで持って行くだろうから。まさかイミテーションだなんて思わずに。
ベロニカは沢山のドレスや宝石を持っていた。シアートルが買い与えたものや自分で買ったものもあるが、殿方からプレゼントをされたものも多い。
「可愛いものね、あの子は」
それでも、ベロニカがアンジェニカの持ち物をしっかりチェックしているのは何故だろうか?
前に、アンジェニカのお気に入りの水色のドレスをベロニカが勝手に着て、裾を引き摺りながら歩き、綺麗に重ねられたレースが破れていて泣きそうになった。
ウィレミナから貰った黄色のシフォンにバラの刺繍が施された美しいストールを、いつ持ち出したのか、ベロニカの自室のテーブルランナーに使われていて、怒りのあまり引っ叩く寸前だった。
いつの頃からか、ベロニカが興味を持たなそうなものを選ぶようになった。地味な姉と可愛らしい妹。自分が好きで読んでいる小説の脇役こそが、まさにアンジェニカそのものだ。
ベロニカの金色の美しい髪はクルンとした大きな巻き髪で、その瞳は空を思わせる美しい水色。細く少し低めの身長に対してはち切れんばかりの胸はとても重いらしく、「肩が凝るのぉ」とパーティーの席で、誰かれ構わずしな垂れかかっていた。それを慌てて止めるのがアンジェニカの役目だった。
対してアンジェニカはと言うと、細身に女性にしては少し高めの身長。程々の胸は詰め物が少し必要かもしれないが、まぁ、無駄な脂肪が無いと言えばいいだろう。薄い朱色の瞳に薄紫の長く真っすぐな髪を垂らし、化粧っ気のない顔は男性受けが悪いかもしれない。
侍女のフラウは毎日アンジェニカの髪を梳きながら溜息を吐いているが。「女神……」と。
「そんなことを言ってくれるのはあなただけよ」と笑えば、全力で「皆が言っています」と否定してくれる。本当に優しい子だ、フラウは。
「そうだわ。仕事の引継ぎをしなくては」
隣接するゼストリア王国へとつながる関所で支払われる入国料と、身分を証明する通行手形の発行について話し合いを続けている件は、出来るだけ早く纏めようとしていた案件だ。
月に何回も行き来する商人に通行手形を発行することで、手続きの手間を省き入国料を割引しようと言うもので、行商人の間でも早く締結して欲しいと期待されている案件。
隣接するコーネル領も、隣国ゼストリア王国のレイクウッド領との間に関所がある為、コーネル領領主と、レイクウッド領領主と、カサブランカ領領主シアートルの間で話し合われていた。正確にはシアートルではなく、代行としてアンジェニカが協議の場にいたのだが。勿論発案も他領への呼びかけも根回しもアンジェニカが行った。
出来ることなら自分が最後まで纏めたかったが、こうなっては仕方がない。父にしっかり引き継いでいかなくては。他にも諸々……。
ついつい溜息が出てしまうのは、シアートルやゲイルズでは心許ないから、ではない……。自分の不甲斐無さが悔しいのだ。
とにかく早めに話を進めるように進言しておかなくてはいけない。アンジェニカは自室を出て執務室に向かった。
「お義姉様」
執務室に入る前にベロニカに呼び止められた。
「ベロニカ」
「お義姉様、本当にごめんなさい。まさかお義姉様があの、鬼畜と呼ばれる伯爵の婚約者として行くことになるなんて思いもしなくて」
そんな思ってもいないようなことを言いながらベロニカは瞳を潤ませた。
「ベロニカ、いいのよ、心配しないで。私はちょっと忙しいから、ごめんなさいね」
今から仕事の引継ぎをして、町に買い物に行かなくてはいけない。世話になった人たちに出来る限り挨拶をして回りたいとも思っている。時間は少ししかないのにやらなくてはならないことは山積みだ。無駄なことに時間を使いたくはない、とベロニカからさっさと離れて執務室に入ろうとした。
しかし、そう簡単にベロニカは行かせてくれない。
「怒っているんでしょ?」
そう言ってアンジェニカの手を無理やり引っ張った。
「痛い!ベロニカ、何をするの?」
「お義姉様こそ!なんでもないフリなんてして。怒っているなら怒っていると言えばいいじゃない」
ベロニカはアンジェニカを怒らせたくて仕方がないのだろうと、理解してしまう。本当に、ベロニカが言うように怒ることが出来るならどんなにいいだろう。怒って怒鳴れば解決するならそうしている。泣いて縋れば元に戻るならプライドなど捨てて縋りついている。それがどれだけ無意味かを知っているから、淡々とやるべきことをしているだけなのだ。
「別に怒ってなんかいないわ。だからこの手を離してちょうだい。私はお父様と仕事の件で話があるのよ」
理解し諦める速さには自信がある。いつの頃からか、自分のものに対する執着など無くなっていった。ベロニカが全部持って行ってくれたから。おかげで、アンジェニカの周りは常に必要最低限のものばかり。
「ふん、お義父様じゃなくてゲイルズ様よ。既に、彼が領地運営をしているんですから」
あら、さっきのやり取りが終わって、早速ゲイルズ様が代行を?
「そう。分かったわ」
アンジェニカはそう言うと執務室に入ろうとする。
「何よ!まだ話は終わってないわよ!」
「ベロニカ、私は仕事の話があるの。私には時間が無いのは知っているでしょ?」
そう言うとアンジェニカはさっさと執務室に入って行った。ベロニカは顔を真っ赤にして、執務室のドアを睨み付けてから、フンと鼻を鳴らして自室へと戻って行った。
何よ!いつもいつも、私を邪魔者みたいに!初めて会った時からそうよ。私は新しいお姉様が出来ると聞いて嬉しかったのに、お姉様は全然嬉しそうじゃなかった。それどころかとても冷たい目だったわ。仕事、仕事って言って、全然構ってくれなかった。何が楽しくてあんなに仕事をしているわけ?パーティーにも行かないで執務室に閉じこもって。私は興味ありません、みたいな顔をして。本当に信じられない!だからゲイルズ様を私に取られるのよ。バッカみたい!あー、ふふふ、そうよ、もう居なくなるんだわ。清々する。あんな辛気臭い人が居なくなって。これで全部私のものよ。
執務室に入ったアンジェニカは、当主が座る椅子に座っているゲイルズに「まだ結婚もしていないのに?」と違和感を持ちながらも、仕事の引継ぎをしようと話し掛けた。アンジェニカは当主の机の横に小さな机を置いて仕事をしていたから。
「ゲイルズ様」
「ああ、アンジェニカ。何をしに来た?」
「仕事の引継ぎをしようと思いまして」
「そうか。だが、その必要はない」
「何故ですか?」
「あなたはこの家を出てモルガン伯爵に嫁ぐ身。これより、あなたはミドル家の事業の一切に関わることを禁止する」
アンジェニカは随分と横柄な物言いのゲイルズに僅かに片眉を上げた。
「それにすでに、お義父様より引継ぎを行っているから、あなたは必要ない」
「待ってください。私が進めている案件もあるのです」
「……ああ、関所の件か。心配ない。全部把握済みだ。他にも税金の件や、土地の問題だったか?」
「え?」
「全て把握済みだから、アンジェニカからの引継ぎの必要はない」
全て?確かに父には全て報告しているが。
「ですが、この件で……」
「アンジェニカ!」
ゲイルズの強い言葉にアンジェニカは口を噤んだ。ゲイルズは小さく溜息を吐いた。
「必要ない。全て滞りなく進んでいる」
「……そうですか、分かりました。お時間を取らせまして申し訳ございません」
「分かってくれればいい。私は忙しいんだ」
ゲイルズはそう言ってドアまで行って自らそのドアを開け、早く出ていくように促した。アンジェニカはそれに従い出ていくしかなかった。
アンジェニカがドアまで行くとゲイルズはアンジェニカから少し距離を置く。実はゲイルズは少し身長が低めで、踵の低い靴を履いたアンジェニカとほぼ身長が一緒になる。だから、ゲイルズは常にアンジェニカとは距離を置いて歩いていた。
パーティーでアンジェニカをエスコートすることを嫌がっていたのは知っていた。背が高くて痩せすぎていて可愛らしさの欠片も無い、とベロニカに零していたことも。そして今も、アンジェニカと意地でも並ばないように努力をしている。馬鹿馬鹿しい。誰もそんなこと気にしてなんかいないのに。
アンジェニカが部屋を出てゲイルズに向き直った時、ゲイルズはすっきりとした顔をしていた。
全て計画通りなのだろう。こんな短時間で仕事の引継ぎなど出来るはずがない。前以て準備をしていて、やっとその日が来たと言う感じか。
「本当に私って間抜けね」
そんなことにも気が付かずにいたなんて。もう、自分はとっくに用無しなのだ。
思い返せば、アンジェニカが行っていた領の最北の地への視察が、必要以上に長い日程で組まれていたのも今回の引継ぎの為か。ゲイルズが珍しく進んで視察の件に関わり、たっぷりと余裕をもって日程を組んでいた理由をアンジェニカは今になって理解した。
力無く自室に戻りベッドにその身を投げ出した。一気に疲れが出てきた。
「お嬢様」
アンジェニカの様子を見てフラウが心配そうに声を掛けた。
「大丈夫よ、フラウ。町に行って買い物をして、美味しいケーキを食べましょう。それから挨拶回りをしなきゃ」
ちょっと寂し気なアンジェニカの笑顔に、言葉も無く微笑む事しかフラウには出来なかった。
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