堕ちる覚悟
目の前に並んだ料理を見ても食欲が湧かない。一日や二日食べなくてもどうってことはないが、この時に自分が普段通りに過ごさないと使用人たちが心配をする。自分の立場を分かっているからこそ、食べたくなくても食事を取り、きっちり仕事をしなくてはいけない。そして、早くアンジェニカを見舞いに行こうと思う。
そう思っても、ここに座れば必ず目の前にあったあの笑顔が無いと、何を食べても味気が無い。この感覚はあの笑顔を得るより前のものだ。腹が膨れればいいと思って料理を口に放り込んでいたあの頃。それがあの笑顔を前にすると、料理の味も香りも感じるようになり、食べ物が美味しいと思えるようになった。
今までは知らなかったが、料理長のリアーナやヤッセンは随分と手のかかる食事を作ってくれていた。それを知ったのはアンジェニカがロイドに教えてくれたから。
「このスープには十種類の野菜が入っていて、水は使ってないのですって。野菜の美味しさがたっぷり煮込まれているのですね」「この魚はこの時期にしか手に入らないもので、塩を振ってじっくりと時間をかけて水気を出してから焼いているそうです。そうすると魚の旨味がギュッと詰まって美味しくなるのですって」
そう言ってニコニコしながら食べるアンジェニカを見ていると、自分もその美味しさを感じてみたくなる。ゆっくり味わって香りを楽しんで。
「私はとても欲が深かったのだな」
「どうしたのですか?旦那様」
給仕する為に立っていたヤッセンがボソッと呟いたロイドの言葉を拾った。
「……いや、いつも美味しい食事をありがとう」
「……え?」
寂しげではあるが笑顔でロイドが初めてそんなことを言ったものだから、ヤッセンはそれこそ固まった。
アンジェニカ様が居なくてちょっと変になってるかもしれない。もしかして、旦那様こそ病気なんじゃ?
「ん?」
「いえ、旦那様がそんなことを仰るなんて吃驚です」
「ああ。ハハハ、私もびっくりだよ」
ちょっと気が弱くなっているのかもしれないな。
食事を終えたロイドが執務室に入ると、既にジェイが書類を整え、今か今かと待ち構えていた。
「旦那様、さっさと仕事を終わらせてしまいましょう」
主人思いの家令は少しでも仕事を早く終わらせられるようにと、力を尽くしてくれたようだ。
「ありがとう、ジェイ」
それなのに、早く仕事を終わらせなくてはと思うのに、ふと気が付くと思考がアンジェニカの方へ行っている。アンジェニカの存在が自分の中でかなり大きいことを自覚して、それに浮かれてそして恐怖して。
自分がアンジェニカに好きだと伝えたらどうなるだろうか?驚く?喜ぶ?多分両方とも無い。きっと悲しむ。自分がアンジェニカを好きになっても、アンジェニカが自分に執着することは無いが、ロイドの気持ちを意識してしまったらどうだろうか?もし、自分が望むようにアンジェニカがロイドを愛してしまったら、きっと過去のような出来事が起こってしまう。
分かっているのに、自分の無責任な愛情を押し付けてしまいたい浅はかな自分が恨めしい。失いたくない。だけど愛したい、愛されたい。そんな誰もが望み、叶えていることを自分は望めない。一体自分はどんな罪を犯してこんな罰を与えられているのだろうか?
思わず大きな溜息を吐いてしまった。
「アンジェニカ様のことが気になりますか?」
ジェイが神技のように正確に動かす手を休めて、ロイドに聞いた。
「ああ、心配だよ。でもそれ以上に自分が情けなくてね」
「アンジェニカ様が風邪を拗らせたのは旦那様のせいではありませんよ」
「いや、私が気を配っていなかったのが原因だ」
「それなら私たちこそ、その責任を果たせなかった愚か者です」
ジェイは顔にこそ出さないが、その声には悔しさが感じられる。
「……本当は、それだけを考えていたわけじゃない」
「とおっしゃいますと」
完全に手を止めてしまった二人は、とりあえず休憩をしようとジェイがお茶の準備をした。
「私は、アンジーが大切だ」
「はい」
「私は、アンジーが……、好きだ」
「はい、存じております」
「えっ?!」
ロイドは吃驚してジェイを見て、それから顔を真っ赤にした。
「なぜ?」
誰にも言っていないのに?
ジェイは、フフッと笑う。
「屋敷の使用人も、騎士団の団員も、皆知っております」
「みんな?」
「皆です」
「なぜ?」
「見ていれば分かります」
ジェイは平然と言い放ち、湯気が揺れる紅茶をロイドの前に置いた。ロイドはそれを見ることも無く両手で頭を抱える。
見ていれば分かる?そんなに簡単に分かるのか?嘘だ!
「ああ、皆ではないですね」
ロイドは顔を上げた。ジェイの言葉に何故か助けられた気分になる。
「アンジェニカ様は、お分かりではないかと」
「……」
残念というか助かったというか、微妙な気持ちになりながら、再び頭を抱えた。
「ハハハ、何を悩んでいるのですか」
「煩い!悩んでない!間抜けな自分が情けないだけだ」
本当に情けない。使用人たちはロイドの気持ちを知っていて生温かく見守っていたのだ。そして、その想い人は、自分との約束を守って適度な距離を取り、ロイドの気持ちに気が付かない。
「もう、頭がぐちゃぐちゃだ」
「ハハハハ、それでは仕事になりませんな」
「笑い事じゃない……」
珍しく機嫌を悪くしたロイドは、幼い頃のように不貞腐れている。ジェイやハンナに怒って八つ当たりをしていた寂しがり屋の男の子を思い出す。
「何を悩むことがありますか?」
「は?悩む事しかないだろ?」
「私は特段問題を感じませんが」
「ジェイには分からない。好きな人に好きになってもらえない人間の気持ちなんて」
「いや、そんな人は沢山いますよ。誰もが自分の好きな人に好いてもらえるわけではないのです」
「……そうだろうけど」
ジェイは思春期の少年を相手にするかのような気分になりながら、この悩める主人に語りだした。
「私は、アンジェニカ様が特別な方のように感じています」
「それは私も分かっている。アンジェニカは特別だ。私に執着しないし、自分をしっかり持っている」
「そうです。アンジェニカ様は思慮深く自分の意思を持って行動されます。自由でお優しくて既に皆から頼りにもされています」
「アンジェニカは無くてはならない存在だからな」
ジェイの言葉に、ロイドは至極満足している。自分が思っていることをジェイは全部言ってくれた。
「そして、旦那様をとても大切に思っていらっしゃいます」
「……」
それは分かっている。でも、その気持ちは母のような姉のような、家族に対する感情だ。
「旦那様が遠征からお帰りになる日は、いつもより早く仕事を終わらせて、ソワソワしながら待っていらっしゃいます」
「……」
「領内を視察している時、領民と話をする時には必ず旦那様のことに触れ、旦那様の素晴らしさを伝えています」
「……」
えーっと、それはちょっと恥ずかしい。
「アンジェニカ様が刺した刺繍入りのハンカチを、肌身離さずお持ちですね?」
ロイドを表す剣とアンジェニカを表す猟銃。女性らしさを感じるには聊か勇まし過ぎるように感じるが、ロイドはそのハンカチを大変気に入り、使うこともなく大事に持ち歩いていた。もはや屋敷中の誰もが知っていたことだが、それを聞いたアンジェニカが頬を染めながら一日で更に十枚刺した。ロイドが大喜びしたのはいうまでもない。
「アンジーの刺繍の腕は一流だ」
仮令刺繍が素晴らしい出来栄えでなかったとしても、肌身離さず持っているだろうが。
「私には、アンジェニカ様はロイド様に対して、親兄弟以上の感情を持っているように感じますがね」
その言葉に目を見開いてジェイを見つめる。
「それは、どういう……」
「これ以上のことはご自分でお考え下さい」
「そんなことを言うな。私は未熟で臆病者だ。都合のいいことを考えても、アンジーを失えば生きていけない。これに関して一度の失敗も許されないのだ」
「失敗を恐れていても、何も解決しませんよ。もし失敗をしたら、お二人で堕ちるところまで堕ちてみたらいかがですか?」
「……え?」
「恰好をつけるのはお止めなさい。アンジェニカ様のお心が旦那様に囚われたら、どこまでもお二人で堕ちる、と覚悟を決めればいいのです」
「……」
「誰もお二人のことを止めたりしませんよ」
ジェイはそう言って、少し冷めた紅茶に優雅に口をつけた。
読んで下さりありがとうございます。








