プロローグ
少年が見上げるのは、青い世界。
それは海を切り取ったかのような、目の前を覆いつくすほどの青。透明な壁の向こう、たくさんの銀色が自由に泳ぎ回る様は、少年の心をつかんで離さなかった。
「シンは本当に水族館が好きだな」
隣に立つ女性の呆れたような言葉に、少年は「うん!」と力強くうなずいた。
「だってこんなに速くてキレーなの、ほかに知らないもん!」
キラキラとした目は、やがてひとつの大きな影を捉える。
その影はほかのどの影よりも速く、まるで青い世界を切り裂いていくようだった。
「すっげー……、速っえーっ! なあなあアヤメさん! 今の、今の速いやつ何!?」
女性は少年の視線を追った。そして「ああ、あれか。あれはな……」と少年の質問に答えていく。説明を聞きながらも少年は、片時も青い世界から目を離さなかった。
「あんなに速く泳げるなんて、よっぽど泳ぐの好きなのかなぁ」
少年の純粋な言葉に、女性は苦笑じみた顔をする。
「それは、どうなんだろうな。……なあシン。お前は、息をするのは好きか?」
女性からの突然の問いに、少年は初めてそちらに視線を向けた。
「んー? わかんない。だって息しなきゃ死んじゃうじゃん」
「そうだな。それは好きか嫌いかで語るようなことじゃない。……あいつらにとって泳ぐってことは、そういうことなんだ」
女性の言葉が理解できたのか、少年は青い世界へと向き直った。先ほど見つけたあの影を再び見つめ、その影がほかの影をどんどんと追い抜き、この青い世界の中で何よりも、誰よりも自由に生きている姿を、その瞳に映している。
「……でもさ」
「うん?」
ふいに、少年が女性へと語り掛ける。その声は今までのような騒がしい子供の声ではなく、どこか、ふつふつと湧き上がるような意思の強さを感じさせた。
「それって、やっぱりすげーくない?」
「生きるために泳ぐことが、か?」
少年は首肯する。
「だってさ、それがなきゃ生きられないんだろ? そうするのが当たり前なんだろ? ならやっぱり、どんな『好き』よりも、それが一番すげー」
少年の言葉に、女性は眠たげな瞳を見開き、そしてまぶしそうに細めた。一心不乱に青い世界を見つめる少年の横顔を、その瞳を、決して忘れないように。そして、その瞳に宿る強い意思を、自分の中にとどめておくために。
「アヤメさん。おれ、こんな風に生きたい」
少年の瞳が女性を映す。ありのままの純粋さと夢への熱をともす瞳だ。その視線を真正面から受け止めて、女性はフッと笑った。
「言ったからには、覚悟しておけよ? 明日からの練習はこんなもんじゃないからな」
「うんっ!」
年相応の笑顔を見せる少年に、女性はどこか安堵する。
誰かが言った。
子供の夢は叶わない、と。
あの瞳の輝きが、どうか失われないように。女性はこのとき、確かにそう願った。
久しぶりの投稿です。
全30話程度の内容になると思いますので、お付き合いいただけると幸いです。