第二話
翌日――
私は結局、昨日倒れてからそのまま帰ってしまったから先生にまた呼び出されると思った。けれど、私の考えに反し、呼び出されなかった。
だからと言って、自分から言いにいく勇気もなく、そのまま時間はあっという間に過ぎ放課後になった。そして、私は昨日言われた通りにカウンセリング室に向かった。
そこは人通りが殆どなく、シンとしている。
歩く度に自分の足音が大きく響いたので何となく気まずくなって、なるべく音を殺すように歩いた。音がする度に心臓の音が速くなり、大きくなるような気がして気分が悪くなった。
カウンセリング室の前に着くと私は足を止めた。カウンセリング室は扉が閉まっていて、私の心臓はより速く鼓動を刻んだ。
どうしようと思いながらも逃げてしまいそうになり、一歩後退りした瞬間ガラッという音がした。前を見ると圭介君が立っていた。
「あっ、やっぱり美奈ちゃんだった。取り敢えず中に入ろうか?」
圭介君はそう言うと、微笑みながら手を差し出してくれた。私はその手をそっと取って、圭介君と共にカウンセリング室に入った。
私はカウンセリング室に初めて入ったから思わず、キョロキョロと周りを見てしまった。
カウンセリング室は他の教室とは違い、温かみのある電灯を使っているためか明るい雰囲気をしていた。そして、三か所カーテンで仕切られている空間があり、すでに何人かがその空間を利用しているようだった。
その空間から少し離れたところに談話スペースが設けられていた。そこには今は誰もいないが、自由に飲み物が飲めるようになっていた。
「何か珍しい物でもあった?」
圭介君はクスクス笑って尋ねてきた。私は思わず真っ赤な顔になり俯いてしまった。
「そうじゃなくて、初めて来たから……」
「あんまり利用する人はいないからね。どうしても、カウンセリング=心の病気って思う人が多いからね。別にちょっとした悩みでも来てくれたらいいんだけどね……」
圭介君は少し寂しそうに笑ってから、私を談話スペースに案内してくれた。
「何か飲む? と言っても、コーヒーかココアかお茶ぐらいしかないけどね」
「じゃあ、コーヒーで……」
私がそう言うと、圭介君は飲み物を用意し始めた。
談話スペースにはいくつかの椅子が並べてあって、その中心に大きめの机が置いてある。その机の上に飲み物が置いてあって、自由に淹れられるようになっている。
圭介君は二つのカップにコーヒーを淹れ、砂糖とミルクを持ってきた。
「はい、どうぞ。少し熱いから気を付けてね」
そう言いながら片方のカップを私に渡してきたので、私は受け取った。
「砂糖とミルクはどうする?」
「あっ、ミルクだけで……」
私は砂糖の入ったコーヒーは飲めないので、ミルクだけを受け取った。
「甘いの苦手? 甘いの好きそうな顔してるのに」
「苦手ってわけじゃないけど、あんまり好きじゃないかな。それにそんなに、甘いものが好きって顔をしてないと思うけど……」
そう? と言いながら圭介君は自分のコーヒーに砂糖のスティックを開けて入れたかと思うと、もう一個砂糖を開けようとしていた。
「……圭介君の方が甘党みたいだけど」
私がそう言うとニカっと笑って、そうだよ~と返された。
「俺、甘い物すっげ~好き、大好き。だから、バレンタインとかはチョコ大募集してるしね」
なんとなく、バレンタインにチョコレートを催促されている気がした。
「そう、なんだ」
私がそう言うと意味ありげにニッコリと微笑まれた。
「取り敢えず、コーヒーでも飲んでゆっくりお話でもしようか?」
圭介君はそう言うと結局、四つも砂糖を入れたコーヒーを啜った。私もそれを見てから、ミルクだけを入れたコーヒーに口を付けた。
そして、一口飲んだところで昨日疑問に思ったことを尋ねてみた。
「圭介君は昨日、何で職員室に呼び出されたの? 校章付けてなかったし、第一ボタンを開けてたから校則違反ではあるけど、校則違反の場合、呼び出しは職員室じゃなくて生徒指導室だよね?」
「まあ、そうだけど……」
圭介君は答え難そうにしたけど、何となく嘘を吐かれそうだから、これ以上何か言われる前に私は矢継ぎ早に言葉を放った。
「どうして校章を付けてないの? ここの生徒は絶対に付けないといけないでしょう? もし失くしたとしても購買で売ってるでしょう? 後、第一ボタン外すのも校則違反って知ってるよね? カウンセリング室にだって先生は居るはずなのになんで注意されてないの? と言うより、圭介君って本当に私と同じ学年なの?」
私が言い終わると圭介君はふっと笑った。
「じゃあ、美奈ちゃんは俺が同じ学年の人間じゃないと思うんだ? まあ、校則違反はかなりしてるけど、その辺は色々あって注意はされないんだよ」
「色々って?」
「色々は色々だよ。何、俺が自分の事全部言ったら、美奈ちゃんも自分の事全部言ってくれるの?」
圭介君はすごく意地の悪い笑顔を浮かべてそう言ってきた。それに対して私は言葉に詰まって視線を逸らした。
すると、圭介君は笑ってから、「ごめん、ごめん」と言って私の頭を撫でてきた。
「つい意地悪な事言ってごめん。でも、色々言ってきたのは美奈ちゃんだよ? 俺もね、流石に聞かれたくない事くらいあるんだよ」
「でも、私は嘘を吐かれるのは嫌い」
「俺、何か嘘、吐いてる感じだった?」
圭介君は不快な思いをさせたのならごめんと言った。でも、その言葉は「嘘を吐いたの気付いたの?」と言っているように聞こえた。
何となく、信用できない人のような気がして仕方なかった。でも、優しい笑顔を向けられる度に、手を差し伸べられる度に信用したくなる。
だから、私は嘘を吐いている事に関して、それ以上は何も言わない事にした。
「もういい、嘘吐いてるとかは。嘘吐かれるのは嫌いだけど聞かれたくない事があるっていうのは分かるから……」
「……ありがとう」
圭介君は何となく微笑んで、小さな声でそう言った。
「……あの、昨日、職員室で私、呼び出し受けてる最中に倒れたけど、それに関して再呼び出しとかなかったけど、圭介君が何か先生に言った?」
「あ~、うん、少しだけだけど、何かマズかった?」
「ううん、そうじゃなくって、もし呼び出されたら、また職員室に行かないといけなかったし……」
「職員室もやっぱ無理だったりする?」
「……うん。出来ればあんまり入りたくないかな」
圭介君はそっか~と言って腕組みした。
「美奈ちゃんって恐怖症だよね、それ」
「恐怖症? 高所恐怖症とかの恐怖症?」
「うん、まあそう言う感じかな。たぶんだけど、美奈ちゃんのも恐怖症の一種だと思うよ」
私の頭の中では『?』が浮かんでいた。
高所恐怖症とか、高い所が怖くてダメっていうのでしょ?私 が扉開けられないとか、職員室に入ると余計に息がしにくくなったりするのも恐怖症なの? そもそも恐怖症ってどういうのを言うの?
私がそういう事を考えていると圭介君が説明してくれた。
「恐怖症っていうのは、まあ正確に言うと恐怖性不安障害かな。それはいいとして、簡単に言うと心因によって精神的とか身体的に症状が出る疾患の一つで、何か特定のものに強い不安を感じるようなものだよ」
「つまり、精神的な病気って事?」
「う~ん、まあ、言っちゃうとそうなるけど……。美奈ちゃんの場合、きっぱり『病気です』って言われるの嫌じゃない?」
「そりゃ、嫌だけど……、でも、遠回しでも言ってる事は一緒だから、言われる場合はきっぱり言われた方がマシだもの」
圭介君はそっかと言って小さく笑った。
「まあ、恐怖症はさあ、危険とかがないのに何でか『怖い』って思ったりするんだよね。
本人も『分かってる』のに、どうしようも出来ないっていうのがあるからね」
圭介君の言葉に、「ああ、確かにそうだ」と思った。理由も分からずに『怖い』と思って、その所為で逃げてはいけないのに逃げてしまって、分かっているのにどうしようも出来なくなって苦しかった。
「今まで辛かったんじゃない? 美奈ちゃんの場合、不安とかあっても人に言えなさそうだし……」
優しい声でそう言われて、頭を優しく撫でられた。
思わず涙が出そうになった。辛くっても、今まで誰にも言えず、助けも求められなかった。
なのに、昨日会ったばっかりの圭介君は『解かってくれた』。私が辛い事を。不安があっても誰にも言えなかった事を。
思わず、辛かった事を全部吐き出してしまいたくなった。でも、涙を流さないように必死で言葉が全く出なかった。
「美奈ちゃん、泣きたかったら泣いていいんだよ? 今まで辛い事も押し込めてきたんだし、もう我慢しなくてもいいんだよ?」
「……泣きたくない」
私はそれだけしか返せなかった。
私は泣けない訳じゃないけど泣きたくなかった。泣くと辛いし、全部話してしまいそうだし、泣いた後はどうすればいいのか分からないなりそうだから泣きたくなかった。
「そっか……。でも、泣きたくなったらいつでも泣いていいんだよ? 泣く事でスッキリする事もあるし」
そう言いながら、圭介君は私の頭を撫で続けた。それはとても優しくて、何となく心地が良かった。だから、暫く私は何も言わずに頭を撫でられ続けた。
でも、そうしているとふと時間が気になり、自分の付けている腕時計をちらりと見た。すると、いつもならとっくに家に帰っていて勉強をしている時間だった。
どうしようと考えていたら、圭介君はその様子に気が付いたみたいで、「一緒に勉強する?」と聞いてきた。
「でも……」
これ以上、自分の所為で時間を割いてもらうのも気が引けたが、圭介君はそんな事は全く気にしていないというような顔で笑いかけてきた。
「俺の方は基本、暇だから気遣わなくていいよ~。なんだったら、勉強で分からない事があったら聞いてくれてもいいよ」
「でも、文系組って言ってなかったっけ?」
文系組では理系組と違って国語や社会の教科は強いが、基本教えてもらうような教科とは私は思っていない。と言うよりも、私は理系のくせに何故か国語はそれなりに出来る。社会ははっきり言って受験では殆ど要らないのであまり熱心に勉強はしていない。
それ以上に、問題なのは理系のくせに数学の成績が最近下がっている事と物理がボロボロという事だ。まだ、化学と生物はマシ、と言うより、生物はかなり得意ではある。
そんな状態の私に文系組の人が教えられるのか、そもそも、文系組では物理はたしか教えないはずだし、数学も理系クラスに比べて進行が遅い。
私がそう思っていると圭介君はふんぞり返るようにして自慢げに言った。
「これでも、結構頭いいんだよ。友達にも結構、勉強教えてた事があったし」
普通、自分で頭いいとか言うだろうか? そもそも、教えてたって過去形だけど大丈夫なんだろうか? 私がそう思っている間も、向こうは教える気満々だった。
「どの教科が苦手? つーか、どれでも聞いてくれていいよ」
そう言われたので、私は数学の教科書とノートを鞄から取り出して机の上に広げた。
「えっと、じゃあ、ここ、教えてくれる?」
私は授業で聞いて分からなかったところを指差した。圭介君は「どこ?」と言って覗き込んでから、「ああ、ここか」と言って教えてくれた。
圭介君の教え方は先生の教え方以上に分かりやすくて吃驚した。
「えっ、文系組でも、もうここ習ってるの?」
私が思わず聞くと、圭介君はしまったというような顔をして口元を押さえている。
「……圭介君って、もしかしなくても私より年上だよね?」
私はもう、質問じゃなくて確信をもって聞いた。
「あ~、それは今は聞かないでほしいかな……」
「うん、分かったけど、年上だったら私、話し方変えた方がいいかなって思うんだけど。思いっきりタメで喋ってるし、それに先輩って言った方がいいのかな~って」
私がそう言うと、圭介君は何となく顔がにやけてた。
「……どうしたの?」
「あっ、いや、なんていうか『先輩』っていい響きだな~って。後、タメで喋ってくれる方が俺はいいな。何かその方が仲がいいって感じするし」
そう言いながら圭介君は完全に締りのない顔をしていた。笑っている顔は嫌いじゃないけど、今の顔は嫌だな~と思ってしまい、あと少しで口に出してしまいそうだった。
結局その後は、始終機嫌の良かった圭介君に勉強を教えてもらい、明日も教えてもらう事になった。
いつも家に帰ってから勉強しても何となく捗らなかったのに、その日はいつも以上に勉強に集中できた。
なんとなく分かるというのがいつもだったけど、教えてもらったおかげで理解出来たというところが増えた。そのおかげか、いつぶりか分からないけど、勉強が苦にならなかった。
小さい頃は知らない事が知れるというのがすごく嬉しくて勉強も楽しかった。でも、いつの間にか勉強しなくてはいけないと強いられるようになり、成績を上げないといけないと言われてからは勉強が苦にしか思えなくなっていた。
そして、いつの間にか自分の好きな事だけ学べればいいのにという思いと、それに対立するようにどんなに嫌でも勉強しなければいけないと思うようになり始めていた。
その状態が続いていくにつれ、余計に勉強には集中出来なくなっていき、成績が下がり始めてしまって今に至る。
成績に関しては、今までどうにか無理やり保っているような状態だったけど、もう保つのが難しくなったせいで最近は下がってきていた。
もうどうしたらいいのか分からなくなっていた、そんな時に圭介君は手を差し伸べてくれた。
なのに、私はまだお礼を言えていない。手を差し伸べてくれた事に対してお礼を言えていない、「ありがとう」と。
でも半分、また明日も会えるから明日でいいかなと私は心の中で甘えた事を考えていた。