特別
ガラス越しに見えた弟の顔はしわくちゃで、「可愛いねえ」と話しかけながら顔を綻ばせるパパに共感することはできなかった。鼻の穴が真正面を向いている顔は子豚のように見えるし、真っ赤になりながら泣いている姿は動物園で見た猿の子供にも似ていた。首にはおすもうさんを思い出させるような脂肪の段々が二つもくっ付いていて、頭は青森のおじいちゃんみたいなつるっぱげだ。
不細工な弟の姿を見て、ママのお腹が膨らみ始めた時から抱いていた漠然とした不安は消えかけていた。私だけに注がれていたママとパパの愛情が、分散されるならまだしも、全て弟に移ってしまうのではないかという不安。そんなものを抱いてしまったのは、私だけを見ていてくれた二人が、お腹の赤ちゃんの話をするときはどこか別の世界へ行っているように思えたからだ。でも、もうそんな心配はいらないだろう。しばらくしたらまた私だけを構ってくれるはずだ。
ママが休んでいる病室に行こうと、いつまでも新生児室のガラス窓に張り付いているパパの服の袖を引っぱった。お産でしばらく会えなかったママに、久しぶりにおさげを編んでもらいたかったのだ。背負ってきた黄色のリュックの中にはぬいぐるみやお人形と一緒に、お気に入りのヘアゴムが二つ入っている。しぶしぶ窓から離れたパパの手を握ってから、ちらとガラス窓の方を見ると、あれだけ泣きじゃくっていた弟が今ではピタリと泣きやんでいて、澄ました顔でこちらをジッと見ていた。目と目が合った時、私はドキリとした。さっきまでは目を糸のように細めて泣いていたため気付かなかったが、潤んだその瞳は零れ落ちそうなほど大きく綺麗に透き通っていて、今では顔全体の印象もずいぶんと変わって見え、その姿をとても可愛らしいと思ってしまったのだ。
慌てて視線をそらした私は、再び胸に立ち込めた不安をかき消すように病院の廊下を急ぎ足で進んでいった。
帰りの会を終え校門に向かうクラスメイトをよそに一人、一年五組の教室へと向かった。五年前には自分も通っていた教室だが、雑に並べられた背の低い椅子と机や、後ろに飾られた、さつまいも掘りの様子を描いた稚拙な絵たちが迎える教室に足を入れるのは、幼かった昔の自分に戻ってしまうようで気が重かった。二回ドアを叩き教室へ入ると、中では弟の担任が教卓でテストかなにかの丸つけ作業をしていた。これから陸上クラブの指導があるのか、首から笛を下げたジャージ姿で、もう秋も終わるというのに黒く焼けた顔が暑苦しい。生徒は皆下校していて、私と先生の二人きりだった。
「おお、お姉ちゃんか。いつもご苦労」
そう言いながらドアの方を一瞥しただけでまた作業に戻った先生の態度にむっとして、少しぶっきらぼうに、弟の連絡帳を受け取りに来たことを伝えた。その苛立ちが先生に伝わったらしく、待ってろ今用意するからなとガタンと椅子を鳴らしながら慌てて立ち上がり、机の上にあるぎゅうぎゅうに詰まったボックスファイルの中から連絡帳を探し始めた。別に急いでいるわけでもないくせに、こうして時間を取られていることに腹が立っているのは、その原因が弟にあるからだろう。
やっと夜泣きを卒業できたという頃に喘息持ちだということが分かった弟は、あまり外には出られず、今年入学した小学校もひどい咳で休むことが多かった。休んだ日の連絡帳や宿題のプリントを渡す仕事は私がすることになった。大した仕事ではなかったが、弟に掛かりきりになる母の姿や、仕事から帰るとまず先に弟の具合を母や本人に聞く父の様子を遠くから見ているうちに、その仕事は重く辛いものに変わっていた。母と父に構ってもらうのは私だったのに、弟なんて生まれて来なければよかったのに、という思いが徐々に膨らんでいた。
もし弟が健康な身体で産まれてきたらこんな思いはしなかっただろうか。連絡帳を渡す仕事が無かったとしたら、こんなことは考えずに済んだだろうか。いや、それも違うだろう。家族で出かける時、私の両手はいつも埋まっていたのに、弟が産まれ、歩けるようになってからはどちらか片方を奪われて、今私の両側には誰もいない。弟の両手に母と父の手がしっかりと繋がれているのを後ろから眺めて抱く嫉妬の思いは、弟の病気とは関係ない。あの時新生児室の前でよぎった不安は的中してしまったのだ。
「おっかしいなあ」という声にハッとして目を向けると、先生はまだ連絡帳を探していて、机の上には無かったのか今度は引き出しを開け中をゴソゴソやっている。すると先生は、自分の用意の悪さやがさつさを誤魔化すかのように「お姉ちゃんは立派」という文脈の言葉を並び立ててきた。この先生が自分の失態を取り繕おうと言葉を発する時は、鼻の穴が膨らむ癖があることを知っていた。
「今まで一年生から六年生までクラスを受け持ってきたけど、自分の兄弟のクラスに行ってお便りを運ぶ役目を、恥ずかしがってやらない子も結構いるんだよね。大切な家族のことなのに、いけないことだよね。でも、お姉ちゃんはいつも偉いね。弟思いの良いお姉ちゃんだ」
私と先生の、考え方や気持ちの落差に頭をガツンと殴られたような痛みを感じ、その痛みが熱に変わって頭から肩に降り、手足の先まで伝染した。すぐに熱が収まると湯冷めのような寒さが襲い、ぶるぶると震えた自分の身体を見下ろした時、ああ、私は今怒っているのだと気付いた。怒りに震えているのだ。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせるが、滲む涙で視界がぼやけるのに連なって、頭の中も滲んでいくようだった。先生の言葉が途切れ途切れにしか聞こえなくなっていく。
「……年上としての……しっかり者……お手本になる……仲良しで……弟思いで……姉弟だから……お姉ちゃんなんだから、お姉ちゃんなんだから、お姉ちゃんなんだから」
ガンッと傍にあった生徒の机を蹴ると、ヒッと息を呑んだ先生の音を最後に教室は静けさを取り戻し、私は深く息を吐いた。ガンッ、ヒッ、はぁー、の音が頭の中でもう一度こだまする。
「……私はあいつのお姉ちゃんなんかやりたくない」
いつの間にか先生の手には弟の名前が書かれた連絡帳が握られていた。先生が何か言う前に、連絡帳も受け取らずに踵を返して教室を出ていった。
家のドアノブを思い切り引いたが鍵が掛かっていて、ドアが開かなかった分の衝撃が肩にまで来た。さっきまでの教室での出来事がまだ尾を引いているようで、怒りと焦りがないまぜになった気持ち悪さが胸につかえている。家には母がいると思ったがどうやら出かけているようだ。ランドセルに付けてもらったリール付きのキーケースから鍵を取り出しドアを開け、玄関に入りドアを閉めるとその場にずるずると座り込んだ。母になんて言えばいいのだろう。もう学校から連絡が入っているかもしれない。昔、下校中に友達と寄り道をして帰るのが遅くなった時のように、酷く叱られるかもしれない。あるいはそれ以上か。
そのまましばらくぼうっとしていたが、自分の部屋でゆっくり考えようとようやく立ち上がり、靴を脱いだ所で鍵を閉め忘れていたことに気付いた。靴の踵を踏んでドアの前まで行き、鍵を閉めようとしたところで突然ドアが開き、驚きの声を上げてしまった。
「あはは。今帰ったところ?」
右手で買い物袋を提げ左手で弟の手を引いた母がそこに立っていた。
「うん。あ、さっき帰った」
ランドセルを背負ったまま玄関にいるのにさっき帰ったとはおかしなことだが、母には誤魔化しの言葉が通用しないことが殆どなので正直に答えた。丁度、あの先生のはぐらかしが私にはすぐ分かるように。
「ふうん。おかえり。ただいま。これ台所まで運んでちょうだい」
そう言って買い物袋を差し出す母は全てを見通しているような目をしていた。その目を見ていると、不思議と、自分の思いを全て口に出そうという決心がついた。神前や仏壇の前では虚勢を張る必要が無いのと同じ理由なのかもしれない。教室のことでピンと張り詰めていた緊張の糸が、母の顔を見てほぐれた反動もあるだろう。
「私もう、連絡帳取りに行かないから」
「どうして?」
しばらくの間言い淀んでいたが、母は何も言わず待ってくれた。母と手を繋いでいる弟も黙ってこちらを見ている。出かける時は必ずつけるマスクが弟の表情を窺いづらくしていた。
「お母さんとお父さんをヒロに取られるのはもう嫌なの。昔みたいに私だけを見ていてほしいの。お姉ちゃんの私じゃなくて、私としての私に接してほしいの。お姉ちゃん扱いしないで。大人扱いしないで。私を本当に好きな人はお母さんとお父さんしかいないの。友達と遊んでも先生に褒められてもなんの意味も無いの。二人の代わりは他のなんにだって利かないんだから!」
母は唇をぎゅっと結び、ただ悲しい顔をしていた。どうしても大人になれない自分を叱ってほしいと思ったが、そうはしてくれなかった。
「ごめんね。でも、それは出来ないかな」
母は少ししてからそれだけ言った。そんなことは分かっていた。私は力なくうなだれたまま母の手から買い物袋を受け取った。弟は何も言わなかった。
買い物袋を台所に運んで中の食材を冷蔵庫に詰めていると、後から来た母が無理矢理作った明るい声で「今度の土曜か日曜さ、ヒロと二人でお出かけしてきなよ!」と提案してきた。
次の土曜日、昼ごはんを食べてから弟と二人でアルプス公園へ出かけた。この公園は家から歩いて十分の場所にあり、山の起伏を利用した大きな滑り台や、マレットゴルフのコース、バーベキュー場など様々な施設があって、敷地も広い。その中には「小鳥と小動物の森」という名の動物コーナーがあり、今日はそこを回る予定だった。数日前に弟の前であんな事を言い放ったのに、二人きりで動物園なんかに行かせる母はおかしいと思う。可愛い動物を二人で見れば仲が縮まるとでも思っているのだろうか。そもそも私は犬と猫以外の動物を可愛いと思わないし、好きではない。そんな私をよそに、弟は入口に着いた途端まず目に付いたインコの檻に突進していった。今日は気管の調子が良いようで、思いきり走っても咳一つせず、極彩色の羽を持つ鳥たちに釘付けになっている。私は歩いて檻に近づき、弟の隣に並びその鳥を観察した。一羽は止まり木の上で羽繕いをし、また一羽は地面を跳ねながら移動し草の種をついばんでいる。気ままに生活する彼らを見ていると「籠の中の鳥」という慣用句は間違っているような、そんな充実感を感じ取った。その内、一際鮮やかな鳥が檻の壁に器用に掴まり、頭をぐりぐりと動かしながら檻のあちこちを噛み始めた。その滑稽な姿に思わず笑い、彼は自身の羽の美しさにまだ気付いていないのかもしれないと考えた。弟にそのことを話したくなり、檻から目を離し隣を見るとその姿はなく、焦って周りを見渡した。弟とはぐれないように手を繋いでいてねと母から念を押されていたのに、気まずさからその言いつけを守らなかったことを後悔した。しばらく辺りを探すと、シカのイラストが描かれた順路標識を見上げている弟の姿が見えた。駆け寄って弟の肩に手を置き、勝手に離れたことを叱ったが、どこ吹く風の様子で聞き流し、「シカんとこ行きたい!」とはしゃいでいた。その様子を見て力が抜けた私の気も知らず、弟は私の手を掴みシカのいる方へとぐいぐい引っ張っていった。
それから、リス、水鳥の池、ポニー、タヌキ、猛禽類のコーナーと順に巡っていった。出かける前は乗り気ではなかったが、どの動物にも種ごとに行動の特徴があり、また、同じ種類の動物でも個体ごとに性格が違っているようで、その差を見つけるのが楽しく、思いのほか動物園を満喫していた。しかし、私がじっくり檻の中を見ようとしても弟はすぐに飽きてしまい、早く次のところへ行こうと駄々をこねるので、私たち姉弟はこの場にいるどの人たちよりも早く動物園を回っていった。
フクロウの、想像していたよりもずっと低い鳴き声に驚き、もっと聞いていたいと思ったが例のごとく弟に急かされて、しぶしぶその場を離れ次に向かったのは猿山だった。そこには二、三十匹のサルがいた。大きなサルは静かにしゃがみ座りをしているものが多く、時々毛づくろいをしたり、遠くを眺めたりしている。対して、まだ小さい子ザルたちは忙しなく動き回り、コンクリートの山を駆け上っては転げ落ちたり、車のタイヤを紐で吊るしたブランコにぶら下がって遊んでいる。落ち着きのない子ザルたちの姿にどこか既視感を覚え、その正体はすぐに分かった。
「ねえ、ヒロもあの子たちと一緒に遊んできたら。仲良くなれそうじゃない?」
猿山の子ザルを指差してそう言ったが、弟には皮肉が通じなかったようで、「え、いいの? 行ってくる!」と私の手を離して真剣に柵の中への入口を探し始めた。呆れてその様子を眺めていると、「ギャギャー! ギャギャー!」という大きな声が耳をつんざいた。声がした方を振り向くと、タイヤのブランコの近くで二匹の子ザルがじゃれ合っていた。いや、あれは喧嘩だ。手を鉤のような形に構えてお互いの腕や顔を攻撃している。引っ掻くなんてやさしいものではなく、出血するのではないかと思うほどの勢いで爪を突き刺し合う様子は、攻撃という言葉が相応しかった。ブランコの取り合いで喧嘩が始まったのかもしれない。弟も二匹の喧嘩を怯えた表情で見ていた。すると、さっきまでは岩のように佇んでいた大人の猿の一匹が動き出し、喧嘩をしている子ザルの片方に近付いて、大きく手を振って張り手のように顔をぶった。ぶたれた子ザルが怯んでいる内に、もう片方をあっちに行けと示すように体を押し付けて二匹を遠ざけ、喧嘩を終わらせた。私は胸をなで下ろし、周りを見ると今の出来事を見ていた他の人たちも安心した表情を浮かべていた。猿山を挟んだ左右に離された二匹の子ザルに、それぞれ何匹かの大人のサルが近付いて体を寄せている。慰められているのか、叱られているのか、判断はつかない。
「怖かったねー。でも、大丈夫でよかったね」
いつの間にか隣にいた弟が、私に話しかけてきた。
「そうだね」
「……あのちっちゃいおさるさんが僕だとしたらさ」
「うん?」
「おっきな大人のやつはお姉ちゃんだね」
「え? ママかパパじゃなくて、私?」
「うん。お姉ちゃん」
弟の言葉に私は動揺した。私はまだ子供の括りの中にいて、母と父に守ってもらう立場だと思っていたが、弟の目からは違うように見えていたというのか。弟の言葉をしばらく反芻していると、いつまでもわがままで嫉妬深い子ザルのままではいられないという気持ちが芽生えてきた。でもどうやって変わればいいのかは分からない。もどかしい気持ちが拭えないまま、喧嘩をしていた子ザルの方にもう一度目をやると、大人のサルの群れを離れ、さっきの事はケロッと忘れたのかまた走り回って遊んでいる姿があった。そういえば、さっき喧嘩で傷ついた子ザルを囲んでいたのは、その子の両親なのだろうか。いや、そこには二匹以上の数がいたはずだ。この猿山の社会には子と親の関係は薄く、子供たちを大人全員で見守っているように見えた。その環境で伸び伸びと走り回る子ザルを見て、似ているようであの子たちと私は随分違うんだな、私もああなれたらいいなと考えつつも、サルと人間を一緒くたにするつもり? と笑っている自分もいた。ただ、弟の言葉と猿山での発見で、私の狭く小さかった考え方の枠ががたがたと歪み、ぼろぼろと崩れていき、少しずつ視野が広がっていく感覚があった。私を愛してくれるのはこれまでもこれからも両親という特別な存在だけだと思い込んでいたが、少しよそに目を向ければ、他の存在に気付けるかもしれない。母と父からの愛情を受け取る器を、弟に全て譲り渡しても、私はもう大丈夫かもしれない。
きっとこの先、特別という名の化け物が私を何度も縛ろうとしてくる。それに惑わされ一度囚われるとなかなか抜け出せず、すぐ足下に転がる普通に気付くのは難しいだろう。中学に上がれば、自身のことを他のクラスメイトとは違う優れた存在だと勘違いするかもしれないし、いずれ恋をするようになったら、世界中にこの人しかいないと決めた運命の相手がめまぐるしく入れ替わり、混乱してしまうかもしれない。
その時私は一旦立ち止まり、特別であふれた何てことのない普通の世界をぼんやりと見渡して、自分の道をまた進んでいきたい。愛情は母と父からしか受け取れない掛け替えのないものだと思い込み停滞していた時間を、ゆっくりと取り戻したい。
弟がいつの間にか猿山の柵を離れ、ウサギとモルモットのふれあい広場へと駆けていくのが見えた。その背中を見た時、もしかしたら、と一つの考えが浮んだ。ただ受け取るだけのいままでだったが、これからは私が他の誰かに、愛情を与えることすら出来るのかもしれないと。乾いた土を湿らせるあたたかい雨のような愛や、暑さに喘ぐ人々を涼ませるビルの影のような愛を、生みだしては与えることが出来るのではないかと。そんな想像をしはじめると、口元が綻んでいくのを抑えることがなかった。
「弘樹、待って。今行く」
そう声を掛けてから、弟が背負う黄色のリュックをめがけて私は駆け出した。