第一章 5
「――あ、」
頭上から零れたその声に、ソフィアは目を見張った。上空――驚いたような表情のアイザックと目があう。
彼の片手はロープから外れており、上体が大きく傾いだのが分かった。すると混乱したのか、もう一方の手もロープから離れてしまい、アイザックの体は完全に投げ出される。
(――ッ!)
次の瞬間、ソフィアは右手でロープを強く握り、窓枠で足を踏ん張ると、可能な限り左腕を伸ばした。
地上では悲鳴にも似た声が上がり、直後に落下してきた途方もない重量をソフィアは左手だけでがっしりと受け止める。
「だ、大丈夫ですか、アイザックさん……」
「ソ、ソフィア……ご、ごめんよう……」
間一髪、アイザックの襟元を掴むことが出来たソフィアは、今にも弾け飛びそうな心臓を落ち着かせながら、はーっと安堵の息を吐いた。
しかし左手に大柄なアイザック、ロープを掴むのは右手一本という状態のソフィアに、下からは心配する声が相次いだ。だが当のソフィアは一人感心したように、『ゴリラの神』へ感謝を捧げていた。
(すごい……まったく重くないわ、これ……)
明らかに自分より重たいアイザック片手に、ソフィアはするするとロープを手繰って降下していく。
あっという間にアイザックの足が地面に着き、続けてすたりとソフィアも着地した。すぐさま同じグループの受験生たちが、興奮した様子で二人を取り囲む。
「あんたすげえな! 大の男一人抱えて、腕一本で降りるなんて!」
「下にいた俺らも、絶対落ちたと思ったぞ!」
「ええと、あはは……」
ごまかすような笑みを浮かべていたソフィアに対し、九死に一生を得たアイザックは、完全に女神を前にした敬虔な信者のようになっていた。
「ソフィア、ありがとう! おれなんてお礼を言ったらいいか……!」
「い、いえ。たまたま運が良かっただけで……、降りようと頑張ったのはアイザックさんですから」
「ソフィア……」
完全に頬を染めているアイザックの様子に、ソフィアはいたたまれなくなって視線をずらす。
すると周囲を取り巻く受験生たちから少し離れたところに、エディと名乗った少年がいた。彼はちやほやと賛美されているソフィアを眺めていた――かと思うと、すぐに顔を逸らす。
(……?)
どうしたのだろう、とソフィアが疑問に思っていると、人混みをかきわけるようにしてルイが現れた。
「静かに。今、代わりの試験官を呼んだから、皆は次の試験会場に移動してくれ――それから、ソフィア・リーラーは俺と一緒に来い」
「へ?」
「手。痛くないのか?」
指摘されてようやく右手を開く。すると握りしめていた部分が、痛々しい擦過傷になっていた。滲んでいる血の鮮烈さに、ソフィアがぎゃああと目を剥く。
「痛そうです‼」
「だろう。今から医務室に連れて行く」
「お、おれも行きます! ソフィアがこうなったのは俺の責任ですし!」
「お前はまだ試験中だ。付き添える元気があるなら、最後まで試験を受けろ」
「で、ですが……」
分かりやすくしょんぼりしているアイザックに、ソフィアは苦笑した。
「アイザックさん、私なら大丈夫です」
「で、でも、」
「せっかくここまで頑張ったんですから、最後まで頑張ってください!」
当のソフィアに言われて納得したのか、アイザックは渋々といった様子で頷いた。
離れていく際も『試験が終わったら、絶対迎えに行くから!』と大きな声で叫ぶアイザックに、ソフィアは照れたように手を振り返す。それを見ていたルイは、くすりと小さく笑みを零した。
「随分となつかれたな」
「え⁉ そ、そういうわけでは」
「まあいい。付いてこい」
ルイに導かれるまま、中庭を通り抜け、騎士団の建物へと足を踏み入れる。一階の角が医務室らしく、扉を開けると病人用のベッドが数棟と、遮光瓶で埋め尽くされた薬品棚が置かれていた。
奥には一対の椅子があり一方に腰かけたルイが、顎で指すようにしてもう一つの椅子を勧めてくれる。
おずおずとソフィアが座ると、突然ルイにぐいと右手を引っ張られた。指先を引っ張るように広げられたかと思うと、ルイが「おや」と瞬いている。
「あの体重を支えた割には、傷が浅いな」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。よほど腕の力が強いとみえる」
「あ、あはは……」
思わずどきりと跳ねた心音をソフィアが呑み込んでいるうちに、ルイは慣れた様子で消毒を始めた。
添えられているルイの手は存外大きく、ソフィアの小さな手はすっぽりと収まっていた。初めて家族以外の異性と手を重ねてしまった、とソフィアはやり場のない視線をうろうろと泳がせる。
(うう、緊張する……)
だがあまりきょろきょろしていても悪いだろうか、と包帯を巻いてもらう間、ソフィアは正面にいるルイを窺い見た。
綺麗な顔。
伏せている睫毛が恐ろしく長い。鼻も彫刻のように真っ直ぐで整った造作をしている。
するとソフィアの視線に気づいたのか、ルイの頬に落ちていた影がぱちと動いた。深緑のルイの瞳が、うかがうようにソフィアを覗き込んでくる。
「どうした? 痛いか」
「あ、いえ⁉ 何でもないです!」
今後一生拝めないだろう美貌を堪能していた、などというわけにもいかず、ソフィアは顔を真っ赤にしながらぶんぶんと首を振った。
その様子が面白かったのか、ルイはふは、と吹き出すようにして笑う。眦にくしゃりとした皺が寄り、一気に親しみやすい風貌に変わった。
それを目の辺りにしたソフィアは、あれ、と瞬く。
(もしかして、ルイさんって結構若い……?)
現・従騎士。しかも試験官の一人を任されるほどなのだから、それなりの年齢だと思っていた。
だが今こうして間近で見るルイは、ソフィアとさほど変わらない歳に見える。
でも年齢は見た目では分からないし、とソフィアは悩んでいたのだが――しばらくして、何故かルイがソフィアの手を掴んだままなことに気がついた。
とっくに治療は終わったはずである。












