第一章 3
妙案を思いついてから数日後、ソフィアは王立騎士団の訓練場に来ていた。
周りにいるのは熊のような上腕二頭筋や、丸太のような太ももを持つ屈強な男性ばかり。そんな中、完全なる異分子と化していたソフィアは、そこかしこから浴びせられる視線を受け、顔を土気色にさせていた。
(ううう、帰りたい……でもこれで落ちれば、また元の生活に戻れるわけだし……)
今日は件の『王立騎士団・従騎士選抜試験』の日。
資料によると、従騎士に所属出来るのは十五歳以上から。各分野で名だたる成績を残した者や、綿々と続く騎士一族の令息に向けて、スカウトが実施される。
だがスカウトされて、すぐに従騎士になれるものはごくわずかだそうだ。試験を受けられる権利を手にしても、そこから合格を目指して何年もかかる者の方が圧倒的に多い。
実際、今日集まっている面子の中にも学生と思しき年齢の男性はほぼおらず、大半が成人しているようだった。
皆名誉職に就くため、あるいは家名に傷をつけないためにと、どこか爛々とした雰囲気が漂っている。たまたまゴリラの加護者となってしまったソフィアとは大違いだ。
(は、早く試験始まって……)
やがて定刻となったのか、集団の前方に黒い制服を着た一団が姿を見せた。途端におおとどよめく声があがり、ソフィアもつられて首を伸ばす。どうやらソフィアたちの先輩にあたる現・従騎士たちのようだ。
そのなかでも中央に立つ黒髪の男性に、ソフィアは目を惹かれた。
爽やかな顔立ち。
深緑の瞳とまっすぐ通った鼻梁。絶妙な厚さで整えられた形のいい唇が、溌溂とした一声を発する。
「受験者の皆さま、今日は遠路はるばるお越しくださりありがとうございます」
「あれが噂のルイか。最年少騎士候補とかいう」
「初めて見た、はあーやっぱ俺らとは持ってる雰囲気が違うな」
(ルイ……?)
にこやかに進行する彼を見て、周囲の男性陣がこそこそとささめきあう。それをこっそりと聞いていたソフィアだったが、着々と進む説明を聞かねばと、あわてて意識を前方へと戻した。
「――この試験に合格した方は従騎士団に所属していただきます。そこで実務訓練を積んでようやく、騎士認定試験の受験資格を得られることとなります。それでは早速ですが、呼ばれた方から試験官に従って移動してください」
すると脇にいた従騎士の一人が高々と受験生の名前を読み上げ始めた。ある程度の人数を呼び終えると次の男性が。どうやら彼らが今回の試験官であり、グループに分けてテストを行うようだ。
あれだけひしめいていた人影はみるみる減っていき、やがてルイと呼ばれた従騎士とソフィア、そして数人の男性が残された。
案の定ルイが名簿を読み上げていき、最後に読み上げられた「ソフィア・リーラー」という音に「ははい」と噛んだ返事をしてしまう。
恥ずかしいと思いながら集合すると、彼はソフィアを見て何故か口角を上げた。
最年少騎士候補というだけあって、他の従騎士の誰よりも若い。その端正な顔が笑みに変わるのを見たソフィアは、わずかな動悸とともに思わずうつむいた。
「君たちの試験官は俺だ。ルイという。よろしくな」
はい、と緊張を孕んだ応答が重なり合う。ソフィアは一体どんな試験が行われるのだろう、とただそれだけが不安で仕方なかった。
最初に連れてこられたのは、赤土の敷き詰められた中庭だった。長い白線が随分と先まで続いており、ソフィアは茫然とした様子で眺める。
するとルイが、地面にあった横線を足で示した。
「ここでは瞬発力を競ってもらう。俺が合図をしたら、ここから百メートル先のゴールまで走る。それだけだ」
「試験官殿! おれは足には自信があります。どうか先陣を切らせていただけないでしょうか!」
「ええと君は……」
「アイザック・シーアンといいます!」
突然の大きな声に驚いたソフィアは、アイザックと名乗った青年をこっそりと覗き見た。
背はすらりと高く、体は均整がとれている。
自信があると宣言した足は、確かに立派な筋肉に覆われていた。歳もあまりソフィアと変わらないのでは、と思われる容貌で、淡い茶色の短髪に、同じく色素の薄い目をキラキラと輝かせている。
その様子にやる気ありと見込んだのか、ルイはアイザックを一番手に指名した。そのまま受験生たちを残すと、ルイは一人遥か彼方のゴール地点に向かう。
到着したところで振り返ったが、すでに彼がどんな表情をしているのかすら分からない距離だ。
やがてルイが白い旗を上下させた。
どうやら下ろしたと同時に走れという合図らしく、アイザックは自信満々といった様子でスタートラインにしゃがみ込むと、腰を高く引き上げポーズをとる。
旗が振り下ろされた瞬間、じゃ、と砂を噛む音だけがその場に残った。
驚くべきことに全員がスタートの瞬間を見逃してしまったらしく、ソフィアもまた慌てて白線の先を辿る。だがアイザックはとっくに半分以上を走破しており、速度を落とすことなくルイの隣を疾風のように駆け抜けた。
「な、なんだあいつ、早え……」
「十秒切ってるんじゃ……」
やがてルイの口から「九秒九」というタイムが発され、隣にいたアイザックがよっしゃあと雄叫びを上げていた。それを見ていた一同は一気に表情を陰らせる。
一方ソフィアは驚きこそしたものの、逆に見当違いな期待を募らせていた。
(すごい! でもこれだけ優秀な人が一緒のグループなら、私なんてとても合格出来ないわね! たしか去年の体力テストで十五秒くらいだったし……)
ほくそえむソフィアをよそに、残りの受験生たちは順番に走り始めた。さすがに鍛えているだけあって、皆それなりの速度で走り抜いていたが、やはりアイザックを超える者は現れない。
やがてソフィアだけとなり、震えるつま先を白線へと揃えた。それまでは全員、何らかのスタートの型を取っていたが、陸上経験のないソフィアは仕方なく、普段通り立ったまま合図を待つ。
(うう、人前で走るのは恥ずかしいけど、これを我慢すれば不合格になれるんだし……)
先に走り終えた受験生たちは、ソフィアの構えに失笑しているらしく、ゴール付近ではどことなくリラックスしたムードが漂っていた。
今からあの集団にみっともない姿を見られるのか、という屈辱はあったが背に腹は代えられない。
ぱさ、とルイの手から白い旗が下ろされ、ソフィアは同時に走り出す。すると不思議なことに、周囲を流れる景色が異常なほど早いことに気がついた。
(――あれ、)
走る時にいつも感じていた、足の重たさや体の強張りを感じることがない。それどころか足の裏が地面をがっしりと掴み、さらなる加速をソフィアに与えていく。
気づけばソフィアはルイを通り過ぎ、ゴールの遥か先まで走り過ぎていた。息切れどころか、あと数分はそのまま走っていけそうな体力のまま、ソフィアはキキ、と音を立てるように足を止める。
恐る恐る後ろを向く。
すると先ほどまでのんきに雑談を繰り返していた受験生たちが、ぽかんと口を開いたままソフィアの方を振り返っていた。
(なに、今の……)
特に顕著だったのは第一走者だったアイザックで、彼は大きな目をいっそう丸くしたまま茫然としていた。その奇妙な沈黙を破るように、ルイがはっきりと口にする
「――九秒、五」
最初は聞き間違いかと思ったソフィアだったが、他の全員から向けられる表情が、嘘ではないと言外に証明していた。槍のように刺さる無数の視線から、ソフィアはそっと顔をそらす。
この時のソフィアはまだ――ゴリラが時速四十キロで走ることを知らなかった。