第一章 2
ぼんやりと昨日の一幕を再生していたソフィアは、再び重たいため息をついた。
(……って言われたけど、一体何があるっていうのかしら……)
手に飛び散った具材を拭き、新しいサンドイッチに手を伸ばす。残りはあと二つ。大切に取り扱わねば。
だが集中を要していたソフィアの頭上に、突然小さな鳴き声が落ちてきた。何かしら、と顔を上げると、葉の生い茂る枝の根元に小さなリスがいるではないか。
黒目ばかりの大きな瞳と、ふかふかとした分厚いしっぽを確認し、ソフィアは思わず目を輝かせる。
「か、可愛い……!」
リスはソフィアの方をじっと見たまま、しきりに首を傾げていた。食べるかしら、と思いサンドイッチをふりふりとかざしてみる。
するとソフィアの意図が通じたのか、するするっと吸い付くような俊敏さで木の幹を伝い下りてきた。
(あああ、近くで見るともっと可愛い……傍に来てくれないかな……)
ちょうど人がひとり挟まる程度まで縮んだ距離だったが、それ以上接近してくれる様子はない。ソフィアは祈るような気持ちでそろそろとサンドイッチを差し出した。
しかし手元が狂ってしまい、次の瞬間、サンドイッチはソフィアの手を離れ、ぼて、とあっけなく地面へと落下した。はああ、とソフィアは蒼白になる。
「ど、どうしよう……」
見るも無残になったサンドイッチを回収し、膝の上に残された食料を確認した。あと一切れとなったサンドイッチを見つめた後、ソフィアは改めて視線を横に向ける。
そこには、キラキラと期待に満ちた眼差しでこちらを見つめるリスがいた。
(せっかく来てくれたのに……)
ソフィアは少しだけ迷っていたが、やがてはーあと息を吐き出すと、自分とリスの丁度真ん中あたりにハンカチを広げ、そこに最後のサンドイッチを乗せた。
もちろん調味料やハムは抜いて、パンとレタスだけにしている。
「良かったらどうぞ。あなた、お腹へってそうだし」
微笑むソフィアに対し、リスはきょとんとした表情で、その大きな瞳を何度かぱちくりさせていた。もしかして伝わったのかしら、とソフィアはおかしくなり、こっそりと立ち上がる。
(結局何も食べられなかったけど……まあ、半日くらいどうにでもなるだろうし……)
供給が無いと分かると、途端に空いてくるお腹を恨めしく思いながら、ソフィアはその足で校長室へと向かった。
――だがそこに待ち受けていたのは、空腹を忘れるほどの衝撃的な宣告だった。
「校長先生、今、なんと……」
「ですので『王立騎士団』からのスカウトが来ています」
ぽかんとするソフィアを前に、校長は数枚の書類を差し出した。おそるおそる受け取ると、冒頭に『王立騎士団・従騎士試験について』と書かれている。
「もちろんすぐに加入というわけではなく、まずは候補生としての試験を受けていただきます。その後訓練を積み騎士認定試験に合格すれば、正騎士になれるということで」
「ど、どうして私が⁉」
するとフクロウの神を彷彿とさせる穏やかな笑みのまま、校長が静かにうなずいた。
「それはもちろん、あなたが『ゴリラの神』の加護者だからです」
「ゴリラ……」
「昨日も言ったように、ゴリラの加護者は戦うことに関して、類まれなる才能を持っています。そのためゴリラの加護者が発見された場合は、必ず王宮に報告する義務があるのです」
「い、今までのゴリラの加護者も、……?」
「はい。過去の加護者たちも全員騎士団に所属していた、という記録があるようです」
「……」
夢なら覚めてほしい、とソフィアは絶句した。
王立騎士団といえば、上位になると国王様の護衛をも任される大変な名誉職だ。優れた体格、運動能力が必須とされ、なりたいと思ってもそうそうなれるものではない。
おまけに女性で就任した者は今まで一人としていないはずだ。
ソフィアが血気盛んな男であれば、是が非でもと勇んで乗り込むところなのだろうが、何せこちらは昨日ゴリラになったばかりの非戦闘員だ。自ら戦いの場に進んでいくなど、正気の沙汰ではない。
(でも王立騎士団からの誘いを断れば、周りからなんと言われるか……)
騎士団をはじめ、王立機関への就職は原則スカウトという形でしか行われない。
つまり声をかけられるだけで大変光栄なことであり、それを断ったとあれば親兄弟親戚からどんな非難を受けるか計り知れない。
また国家に対し不従順とされることもあり、ソフィアの実家に何らかの影響が出ないとも限らない――とまで想像したところで、ソフィアはぶんぶんと首を振った。
「わ、分かりました。お受けします……」
「良かった。では先方にもそのように」
「で、ですが! 一つだけお願いが……」
「なんでしょうか?」
そこでソフィアはこくりと息を呑み込んだ。
「あの、私が候補生試験を受けることは、秘密にしておいてもらえませんか……ゴリラの加護者であることも……」
ただでさえ悪目立ちしている今、『王立騎士団・従騎士』の試験を受けるとなれば、面白く思わない人間はいっそう増えるだろう。
何故あいつが、と尋ねられた時にゴリラの加護者だというのも知られたくない。
(あと二年……平穏に生きていくためにはそれしかない)
わずかに顔を陰らせたソフィアの様子に気づいたのか、校長はにっこりと笑みを刻んだ。
「それはもちろんです。加護の種類によっては、周りに知られたくないという方も多いですからね。わたしもおいそれと、あなたの加護を言いふらすような真似はしませんよ」
「ありがとう、ございます……」
「スカウトされた、ということももちろん内密に。どうも最近、王都を狙う組織があるようですし、正式に従騎士となるまでは黙っておいた方がいいでしょうね」
その言葉にソフィアは再び不安に襲われた。
学校にいるとあまり意識しないが、最近王都の中で反王政派の動きが過激化しているという噂を耳にしたことがある。
自分には関係ないと思っていたのだが、従騎士――将来的に騎士となれば、彼らと正面切って戦う場面も出てくるのだろうか。……考えるだけでも恐ろしい。
頭を下げ校長室を出た後も、ソフィアはふらふらとおぼつかない足取りで廊下を歩いていた。やがて先ほど訪れていた裏庭に戻って来たかと思えば、ぼんやりとした意識のままサンドイッチを捜す。
だが不思議なことに、食べ残された痕跡どころかパンくず一つ残っていなかった。
(まさかあのリス、全部食べちゃったのかしら?)
食べ残しを放置しては悪かろう、と見に来たソフィアだったが、仕方なく唯一残されていたハンカチだけを拾い上げ、手の中で畳み込む。
その間も脳内で、先ほど校長から言われた言葉が何度も再生されていた。
「騎士団って……一体私にどうしろと……」
確かにゴリラの加護者である以上、人並み以上の力があることは認めよう。
だがそれとこれとはわけが違う。
戦いたいと思わない人間が、どうして血で血を洗うような戦場に参加できるだろうか。
穏便な学校生活。
ひいてはその後の生き方を思慮するのであれば、どう考えても王立騎士団に所属してはならない、とソフィアの本能が警鐘を鳴らしていた。
「うう、でも試験を受けないわけにはいかないし……かくなる上は『不合格』となるくらいしか…… ん?」
苦し紛れに口にした言葉だったが、ふとソフィアは言葉を呑み込んだ。
そうだ。
合格しなければいいのだ。
(騎士の適性が無いと認められれば、いくら私がゴリラでも、向こうから断られるはず……!)
最初から断るのは角がたつ。
だが騎士道は清廉潔白を良しとする教え。それにそぐわない人物だと判断されれば、いくら過去のゴリラたちが騎士だったとはいえ、おいそれと国の中枢に迎え入れないはずだ。
(それならきっと大丈夫だわ! だって、どう考えても私に騎士なんて大役、背負えるはずがないもの!)
少しだけ心が軽くなった気がして、ソフィアはふうと胸を撫で下ろす。やがて午後の授業の始まりを告げる予鈴が鳴り、ソフィアは慌てて教室へと戻っていった。