第二章 6
「――今日は本当にありがとう。楽しかった」
「い、いえいえ! というか、お金本当にいいんですか?」
「食べたのはほとんど俺だろう」
結局、見事にあの量を完食し、二人は店を出た。
その際ソフィアが支払いをしようとしたのだが、いつの間にかルイが先に支払っており、お礼のタイミングを完全に損ねてしまったのだ。
「ですが理髪店のお礼もまだ……」
「だから良いって。ほら、バスが来るぞ」
ルイの言葉通り、定刻ぴったりにディーレンタウン行のバスがやって来た。中には誰の姿もなく、ソフィアはルイに押し込まれるようにして乗り込む。
「俺は一度騎士団に寄って帰る。送れなくてすまないな」
「い、いえ! ここまでで十分です!」
「代わりに――これ」
必死になって頭を下げるソフィアの前に、がさりと何かが差し出された。顔を上げると、先ほど訪れた店のロゴが描かれた紙袋がある。
ソフィアが慌てて受け取って中を見ると、油紙に包まれたクッキーが入っていた。ルイが持ち帰りで、と買っていたものだ。
「こ、これ、先輩のものでは」
「今日の礼にと思って包んでもらったんだ。良かったら寮に戻って食べてくれ」
にっこりと微笑むルイを前に、ソフィアは尊さと眩しさで顔を覆いたくなった。
他の乗客はおらず、ソフィアが座席に座ったところでバスが発車する。窓越しにひらひらと手を振るルイの姿が見え、ソフィアもまたこっそりと振り返した。
(こんなところを万一誰かに見られていたら……)
途端にひやりと汗が出る。
やがてバスが大通りを一周したところで、ソフィアは手にしていた紙袋を再度眺めた。店のマスコットなのだろう――リスがデザインされたロゴを見て、嬉しそうに目を細める。
(やっぱり……なんだか色々すごい人だわ……)
あれだけのケーキを完食したのにも驚いたが、ただの後輩であるソフィアに対してこの気の遣いよう。
こんなことをされたら、誰でもルイのことを好きになってしまうのではないか――とまで考えたところで、ソフィアはぶんぶんと首を振る。
(何にせよ、私には刺激が強すぎる……)
心地よい振動を伝える座席にもたれながら、ソフィアはようやく肩の荷を下ろした。
翌日、第三アステラ。
どうやら昨日のルイとの交流は見られていなかったらしく、ソフィアが詰問を受けることはなかった。連日の寄せては返すような質問攻めもようやく波が引いてきて、上級生たちがソフィアの教室を訪れる頻度も減りつつある。
すると今まで鳴りを潜めていた、もう一つの問題がひょっこりと戻って来た。
「――あなたねえ、調子乗るのも大概になさいませ」
「スカーレル先輩とちょっと知り合いだったくらいで、彼女面してらしたんですって?」
「髪まで切って、あなたが色目つかっても無駄ですから」
「あー学内パーティーがあるから? わかりやすいですわぁ」
「カリッサ様、噂の素敵なボーイフレンド、是非紹介してくださいませね」
背後にいるクラスメイトの子女たちから、くすくすと笑いが漏れる。ソフィアは無視するように速足で廊下を歩くが、彼女たちも全く同じペースでついて来るため、なかなか引き離すことが出来ない。
(うう、どうしよう……今から騎士団に行かないといけないのに……)
先日の入団式と顔合わせを終え、今日から従騎士の訓練が始まる。
ちなみに走力増強を兼ねて、騎士団までの約十キロの距離を自力で走破して通わなければならない。以前のソフィアであれば、この時点で不可能な勤務体系だ。
(でも学校を出るところを見られたら、一巻の終わりだし……)
なおもねちねちと食い下がってくる子女たちを引き連れながら、折り返しの階段に差しかかる。すると一段を降りる前に、同じ階の廊下からアイザックが声をかけてきた。
「あ、ソフィア! 今日の――」
(――今だわ!)
良く通るアイザックの声に、ソフィアの背後にいた女子たちが一斉に彼の方を振り返った。
その瞬間――ソフィアはがばっと手すりを乗り越え、隙間を縫うようにして階下へと降下する。三階から二階、二階から一階と手すりを片手で掴みながら、あっという間に一階の廊下に到達した。
(で、出来た! でも怖すぎる!)
撒くなら今しかない、という咄嗟の行動だったとはいえ、いまさらになって足が震えている。やがて三階から「あれ⁉」「消えた⁉」という動揺した声が聞こえてきて、ソフィアはばれないうちに玄関ホールへと急いだ。
「ソフィアひどいよー。一緒に行こうとしたのに置いてくなんて」
「ご、ごめん、アイザック……」
一時間後、騎士団領に到着したアイザックは恨めしそうな目でソフィアをじっと見つめていた。
隣にはここに来るまでに疲弊しきったエディがいる。ちなみにソフィアは三十分以上前に到着しており、体力的にも大した変化はない。
「でもその、私やることあるから、明日からも別々に行こうと思うの」
「えー⁉ でも俺、ソフィアと一緒に行きたいんだけど」
「アイザック、やめとけ……はあ、……そのゴリラ女と一緒に走ったら、さすがのお前も話すどころじゃ、にゃいぞ……」
(フォローされているような、微妙に腹立たしいような……)
だがこの二人と一緒に学校を出るところを見られようものなら、ようやく収まった騒動が再燃する未来しか見えない――と、ソフィアはむっと口をつぐんでおく。
やがて定刻を迎え、訓練が始まった。
内容は走り込み、腕立てといった基礎に始まり、剣技や格闘、射撃と各専門分野の練習も行うようだ。
従騎士に選ばれた者の中には、ソフィアとは違うグループだった男性も多く、女性であるソフィアを一瞥して、あからさまに眉を顰める者も多かった。
だがソフィアが走り、投げ、殴るたびに、彼らはみるみる言葉を失っていく。
「さすがソフィア、絶好調だなー」
「え、えへへ……」
我がことのように賞賛してくれるアイザックに向けて、ソフィアは曖昧な笑いを浮かべた。実はこれでもかなり手を抜いている方なのだ、なんて、とてもではないが口には出来ない。
(そういえば、ルイ先輩はいないみたい……)
新人従騎士の訓練には、騎士団の正騎士や従騎士の先輩たちが教官としてつくのだが、その中にルイの姿はなかった。ソフィアはどことなく寂しい気持ちを抱えながら、次の訓練所に移動する。
そこは高台に設置された建物で、テーブルの置かれた研修室と外に設置された実習室があった。
実習室には透明な板で区切られたスペースが五つほどあり、前方五十メートルほどに人型の板が何枚も並んでいる。
そのどれもに目盛りが描かれており、ソフィアははてと首を傾げた。
「ここでは射撃訓練を行う。まずは銃火器の分解から」
突然手渡された銃に、ソフィアは目を疑った。
本や噂で見聞きしたことはあるが、現物を見るのは初めてだ。他にも初めて手にした人は多いようで、アイザックも興奮した様子でしげしげと眺めている。
「すごい、銃だ!」
「こ、ここ、これって大丈夫? 暴発したりしない?」
「弾も入ってないのにするか馬鹿」
冷たく割り入った声に振り返ると、エディが教官の指示が出る前から、さっさと解体を始めていた。
その手慣れた様子に二人して「はあ」と目をしばたたかせる。どうやら相当銃に慣れているようだ。
やがて一通りの構造と組み立て、整備の仕方を学んだところで、実際に使用する段階に入った。
万一に備えて防弾用のベストを羽織る。講師によると『蜘蛛の加護者』が作り出した繊維が用いられているらしく、着弾の衝撃が段違いなのだそうだ。
一巡目の面々が先ほどの射撃台に並び、各自決められた場所に立つ。
するとそこに、陽気な声がふわりと舞い込んで来た。
舞い込んで来た、というのは比喩ではない――実際に上空から、白とこげ茶の混じった翼をはためかせた『人』が降りてきたのだ。
「あれ、今日は新人従騎士の訓練日だったのかあ」
「こ、これは、アードラー隊長!」
「堅苦しいなあ、アーシェントでいいって」
アーシェントと名乗った彼は、厚い靴底を地面へと着けた。その身には深緑の軍服を纏っており、ソフィアはいまさらになって「ああ!」と目を見開く。