第二章 4
「……なんだこの髪は」
「ひい⁉ す、すみません!」
「前髪は一気に切るもんじゃねえ……獣の皮を剥ぐように、少しずつ、丁寧に切るんだよ……」
(分かるけどたとえが怖い!)
このまま椅子が後ろに倒れて地下室に幽閉されたらどうしよう、などと不穏なことを考えるソフィアをよそに、背後で二人の様子を眺めていたルイが笑う。
「マスターは元騎士団所属なんだ。見た目は怖いけどいい人だぞ」
「いちいちうるせえよルイ。――で、どんな髪型がいいんだ」
「も、もう、良いように、短くしてください……」
涙声でそれだけを告げるソフィアに対し、なぜかマスターがかっと目を見開いた。
「短くだと⁉ てめえ、女の髪がどれほど重要なのか分かってねえのか⁉」
「わ、わわわわ」
「悪いことは言わねえ。どうせ今年も学内パーティーとやらがあるんだろう、ルイ」
「え、ああ。多分」
「傷んだとこと前髪は切ってやる。だから長さは変えずにいけ!」
「いいい、いきます! おまかせします!」
そのやりとりを眺めていたルイはしばらく面白がっていたようだが、やがて「残りの巡回があるのでまた」とだけ残して理髪店を立ち去ってしまった。
マスターと二人きりで残されたソフィアは、彼が剃刀を手にした姿を見て「命だけはお助け下さい……」と心の中で何度も繰り返していた。
「――おら、出来たぞ」
「……」
どれほどの時間が経ったのだろうか。
いつの間にか眠っていたらしい、とソフィアはしぱしぱと目をしばたたかせる。
(なんだろう、すごく気持ちよかった……)
ようやく瞼を押し上げたソフィアは、鏡に映った自身の姿に茫然とした。
(これ、私……?)
ざんばらだった前髪は綺麗に切りそろえられ、軽く斜めに流している。枝毛が多くぼさぼさだった後ろ毛も艶々とした光沢があり、肩より下の部分はアイロンで巻いたのか、可愛らしくくるりと巻かれていた。
あまりの変化に声も出ないソフィアに気づいたのか、マスターはどこか得意げに口元に笑みを刻む。
「お前、顔は良いんだからもっとちゃんとしろ。ちょっと手を入れただけで見違えたじゃねえか」
「あ、いえ、はあ……」
「動くときは後ろで結んでおけば問題ないからな」
きょとんとした様子で、ソフィアは前髪やカールした毛先を指でつまむ。
可愛い――と、ソフィアが心を弾ませていると、カラカラン、と来客を知らせる鐘の音が鳴り響いた。お客さんだろうか、と鏡越しに視線を送ったソフィアは目を見開く。
「ル、ルイ先輩⁉」
「ああ。ちょうどよかった」
現れたのは一度店から出て行ったはずのルイ――先程まで着ていた従騎士の制服ではなく、白のシャツに黒のジャケット、茶のスラックスという私服姿だ。
動揺するソフィアをよそに、鏡に映る彼女を見て少し嬉しそうに口角を上げる。
「いいな。よく似合ってる」
「――⁉」
一瞬で顔が熱くなり、ソフィアは隠すように下を向いた。
その態度にマスターだけは何かを察したようだったが、何も言わず床の掃除にいそしんでいる。やがて「行こうか」とルイはソフィアを促した。
引っ張られるように店を後にし、二人は大通りへ出る。
あまりの勢いに流されるままになっていたソフィアだったが、ここでようやくはっと意識を取り戻した。
「せ、先輩、私、まだお金を払ってなくて」
「? 俺が既に払っているが」
「な⁉ 何でですか⁉」
「だって団長に言われたからだろう? 髪」
う、とソフィアは言葉に詰まった。
「本当は俺が先に気づくべきだった。あの後君の様子を見に行きたかったんだが、あいにく会議で抜けられなくてな」
「ル、ルイ先輩……」
「情けない先輩の、精いっぱいの罪滅ぼしだと思ってくれ」
前を歩いていたルイが振り返り、少し困ったように微笑んだ。目じりにくしゃりと皺が寄り、ソフィアは再び鼓動が早まるのを感じる。
ありがとうございます、となんとか絞り出した後、ソフィアは続けてルイに尋ねた。
「あ、あの、どうしてまたお店に?」
「マスターの腕は把握しているが、女性を任せるのは初めてだからな。一応確認に」
「な、なるほど……」
ソフィアも最初はどうなることかと怯えていたが、あの恐ろしい見た目に反して、素晴らしい出来栄えに仕上げてくれた。視界も明るくなり、歩くたびに巻いた髪が揺れる――その様に、ソフィアは珍しく心を浮き立たせた。
(私いま、普通の女の子みたいかも……)
するとルイがぴたりと足を止めた。
ソフィアもすぐに気づき、距離を保ったまま静止する。どうしたのだろうと窺うと、ルイは大通り沿いにある一つのお店に目を奪われていた。つられてソフィアも視線をずらす。
そこにあったのは、ソフィアが先ほど見かけたケーキ屋だった。はて、としばらく首を傾げていたソフィアだったが、もしかしてと予測する。
「あの、ルイ先輩?」
「――あ、ああ。どうした?」
「もしかしてケーキ、食べたいのですか……?」
どうやら予想は的中したらしく、ルイはぱちぱちと瞬くと、頬をわずかに赤くしながら苦笑した。
「そ、そんなに顔に出ていたか?」
「な、なんとなく……」
「甘いものは好きなんだがその……ああいう店は、女性が多いだろう? 男の俺がひとりで行くと、どうしても目立ってしまってな。行くのをためらってしまうんだ」
それは男だからというより、ルイだからではないか――と思ったソフィアだったが、寸でのところで言葉を呑み込んだ。
なるほど考えてみれば、もらった差し入れも甘いマフィンだったわ、と思い出したところでソフィアは思考を巡らせる。
(……ここで私が奢れば、理髪店のお礼になるのでは⁉)
だがソフィアはすぐに考え直し、ルイに気取られぬよう周囲の様子を探った。今日は休息日・アルキュオネ。ディーレンタウンから来た生徒がいるかもしれない。
(万一……万一こんな場面を見られれば、先週以上に恐ろしい事態になる……)
幸い近くに学生らしき人影はなく、ソフィアはひとまず胸を撫で下ろす。わざわざこんな危険な橋を渡るのではなく、理髪店代はどこかで改めて渡せばいい……とソフィアは一人首を振る。
だが頬を掻きながら、寂しそうな笑みを浮かべたルイが、ぼそりと呟いた。
「本当は一度食べてみたいんだが……俺では一生無理だろうな」
「――ッ!」
その瞬間、ソフィアの心の中にあった『自らの保身』と『可愛い』の天秤が、ゴリラによって見事に破壊された。
ずっしりと傾いていたはずの自己保身は、皿ごとどこかにいなくなり、代わりに燦然と『可愛い』という感情だけがソフィアの中で輝く。
(きょ、今日だけ……こ、これはお礼ということで……)
再度周りを十分に確認したのち、ソフィアは恐る恐る切り出した。
「よ、よかったら、食べていきますか⁉」
「え? だが」
「さ、先ほどのお礼ということで!」
ソフィアの剣幕に少々驚いていたルイだったが、少しだけ考えこんだ後、すぐにへにゃりと眉尻を下げた。
照れたように微笑むその顔立ちは、従騎士として働いている時とは随分な違いがあり、ソフィアの心臓はどくんと高鳴る。
「じゃ、じゃあ……すまないが、一度だけ付き合ってもらっていいだろうか」
「お、お供いたします!」
完全に従者と化した言葉を返しながら、ソフィアとルイはケーキ屋の扉を押し開いた。中には女性の二人組がいたが、ディーレンタウンの生徒ではない。
突然現れた見目麗しきルイに、二人は分かりやすく目を奪われており、ソフィアは心の中だけで「わかります」と頷いた。
席に通され、ソフィアは苺のタルトを注文する。
「先輩は何にされますか?」
「ああ、と……そうだな」
どこか歯切れの悪いルイの様子に、ソフィアは首を傾げた。するとルイが頬を指先で掻きながら、きまり悪そうに口を開く。