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春暁

作者: 紀之下 葉

(いつの間にか、随分うまくなったものだわ……)

 ぼんやりと天井を見つめながら、隣の部屋で娘が弾いているピアノの音を聞いていた。ゆったりと優しい音色で奏でられるトロイメライに合わせて、まるで合いの手を入れているかのように、窓の外からスズメやウグイスの鳴き声が聞こえてくる。……こんなにまったりとした気分は、相当久しぶりに味わった気がする。自分は今、人生で一番幸福な時間を過ごしているんじゃないかしら……。

 ――しかし、目下、風邪で熱を出して寝込んでいるというこの状況では、「今が一番幸福だ」というのは少し苦しい気がした。

 真由子が熱を出して寝込むなどということは、きわめて珍しいことであったので、家族の者は――といっても父親の修平は八戸に単身赴任しているので、家にいるのは中学三年になる縷絵るえと中学に入学したばかりの流太だけであるが――ひどく驚いた。それなのに流太は朝ご飯を食べ終えるやいなや、土曜日だからと言って友だちの家に遊びに出かけてしまったので、結局、縷絵がほぼ一人で朝ご飯の片付けや掃除洗濯といった家事一式を真由子の代わりに担わなければならなかった。

 そしてついさっき、もろもろの雑務を全て終えてようやく自由な時間が出来たので、自分の部屋でピアノの練習を始めたところであった。

 縷絵は、ピアノを習い始めてもう八年にもなるが、何年か前に初めて弾いたシューマンのトロイメライが随分気に入ったようで、以来何を練習するにもまずトロイメライを必ず一回は弾く、そして練習の終わりにもう一回弾く、これをもう何年もずっとやっているものだから、徐々にではあるが確実に完成度が上がっているのに真由子は気が付いていた。

(継続は力なりって言うものね)

 娘の成長をしみじみと嬉しく思うと同時に、継続しなかった自分に対してちょっぴり後悔の念が湧いてきた。

 縷絵のピアノの発表会などで、どこかの母子が連弾などをしているのを見て、なんとなくうらやましく思うことが幾度もあった。

 真由子も、幼い頃母親に連れられて近所のピアノ教室に通っていたことがあったが、ほんの一年半くらいでやめてしまった。真由子に教えていたピアノ教師がある日、いくら練習してもなかなかうまく弾けない真由子に、「貴女、音楽の才能にはからきし恵まれていないんじゃないかしら」というようなことをため息混じりに呟いたのだ。その時の真由子には、先生の言ったことがよく理解できなかったが、彼女が真由子に向かって放つ嫌な――真由子がのちに覚えた言葉で言えば、軽蔑的な――オーラはなんとなく感じられた。そのうち、真由子自身もピアノに近付かなくなった。自分の娘と、そのピアノ教師との関係があまりうまくいっていないことを薄々察していたのか、母親は、真由子がピアノをやめたいと言い出した時も大して反対しなかった。そうしていつしか、真由子はピアノの弾き方などすっかり忘れてしまった。



 いつの間にか眠りについてしまっていた。

 気が付くと、枕元に縷絵が正座して真由子の顔を覗き込んでいた。

「あ、おはよう」

「……何時? 今」

「十一時半。ちょうどお昼時だよ」

 ということは、およそ二時間ほど寝ていたということになる。

「昼ご飯食べる? それともおかゆにしとく?」

「おかゆがいいわ」

 朝に比べて熱はだいぶ下がったようだし、楽にはなっていたが、食欲はあまり無い。

「わかった」

 縷絵はそう言い残して、食事の用意をしに台所の方へ行ってしまった。



「そういえば、さっき――お母さんが起きるちょっと前に、お父さんから電話があったんだけど」

 真由子用の白い小さな茶碗におかゆを装いながら、縷絵は言った。

「お父さんが?」

「うん。お母さんは大丈夫かって」

「知ってるの?」

「あたしが朝メールしたから」

「そう」

 真由子は少し目を伏せて、

「大丈夫だって伝えてくれた?」

「部屋で寝てるって言ったら、『そうか。早く良くなるように祈ってるよ。無理はさせるな』とか言ってた」

「そう」

 真由子は素っ気なく言った。だが、その頬の微妙なほころびに、娘の縷絵は気付いていた。

 たぶん、真由子はすぐに良くなるだろう、と縷絵は考えていた。

(――昨日のようなことはもうやめてほしいけど)

 思い出して、縷絵はため息をついた。

 昨日の夕方、全身びしょ濡れで仕事から帰ってきた真由子を玄関で見た時、縷絵は本気で驚愕した。

「傘、持って出なかったの?」

 降水確率は五十パーセントを超えていたと記憶している。

 持って出たんだけど、と真由子は苦笑した。

「仕事場に置いて来ちゃったのよ。向こうを出る時は降ってなかったから、ついうっかり……」

 こっちに着いてバスを降りた時、ちょうど降り始めたのだと言う。バス停から家まで歩いてせいぜい五分くらいだが、どしゃ降り寸前の中を歩いて帰る距離ではない。

「電話してくれたら、傘持って行ったのに」

「ケータイの電池が切れてたのよ。近くに公衆電話も無かったし」

「……とにかく早く着替えなよ。風邪ひくよ」

 はいはい、と言って真由子は自分の部屋へ引き上げた。

 雨はその晩ずっと降り続けていた。

 思い出してみれば、ここ数日、真由子はしょっちゅう咳き込んだり鼻をすすったりしていたような気がする。もともと良くなかった体調が、雨に当たったせいでさらに悪化したとも考えられた。私が普段からもっとよく注意しておくべきだったかも知れない——お母さんって全然自分の体調を気遣ってるようには見えないもの——練習のしすぎで指を痛めて、ピアニストの道を断念したシューマンみたいに——いや、もしかするとそれよりもっと酷い——そんなことにならなければいいけど——。

「お母さん」

 つい、思いあまって声に出してしまった。

 あまりに唐突だったので、縷絵の方を振り向いて「何?」と言った真由子の声が少し上擦っていた。

 次の言葉なんか考えていなかったので、困惑してしばらく目を泳がせたが、やっと絞り出すような声で言った。

「無理は……しないでね」



(……あれって、そういえばお父さんが言ってたことだよね)

 真由子が寝室へ戻った後、縷絵は一人で食器を洗いながら、可笑しくなって笑いそうになった。

(血がつながってるから……なんてね)

 気分は良かった。窓の外をうち見ると、昨日の雨でできた水たまりに桜の花びらや色んなものが浮かんでいて、太陽の光を受けてきらきらしていた。



(まあ……)

 真由子は、今食べていたおかゆとは違う、温かい何かが胸に染み込んでくる感じがした。

 ――ああ、やっぱり自分は今最高に幸せだわ。

 ピアノが弾けないことなど、どうでもいいかもしれない。

 真由子は、全ての気持ちを込めて縷絵に応えた。

「ありがとう。心配しなくても、大丈夫よ」



(無理してるように見えたのかしら……この私が?)

 さすがに昨日のあれはちょっと無茶だと自分でも思うけど、でも、

(あの子をあまり心配させちゃいけないわね)

 台所の方から聞こえてくる水の音や食器のぶつかる音に耳を傾けながら、真由子は娘の顔を思い浮かべた。

(いつの間にか、随分成長したものだわ……)

 誰があの子をあんな風に育てたのかしら?――

 もぞもぞと布団に潜り込みながら、ふと、

(これも、継続の力なのかしら)

 真由子の頬に、幽かな笑みがともった。



「春」というテーマから生まれました。

少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

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