異世界なら戦えると思って来た貴族令嬢ですが、わりと無理でしたので頑張ります
はじめまして、ご覧いただきありがとうございます。
本作は、「魔法のない西洋風世界」から、「器霊と呼ばれる魂が道具に宿る中華風世界」へと迷い込んだ、あるお嬢様の物語です。
主人公のリオラは、黒が大好きで、見た目だけは強そうな「黒いパゴダ傘の隠し剣」を携えて異世界へと飛び込みます。しかし、現実は甘くありませんでした。
憧れと現実のギャップに打ちのめされながらも、彼女が「道具に宿る記憶」に触れ、本当の強さを見つけていく成長譚をお楽しみいただければ幸いです。
黒い旗袍を翻し、異世界の空を舞う令嬢の冒険、いざ開幕です!
空の色が、あまりに鮮やかすぎた。
グランベルクの穏やかで少し煤けた青空ではない。吸い込まれるような深い碧を湛えた空を、悠然と巨大な影が横切っていく。あれは、お伽話に聞く「龍」という生き物だろうか。
「……本当に、来てしまったのね」
リオラ・ド・ノワールは、膝まである黒いドレスの裾を払いながら立ち上がった。手の中には、先ほどまで淡い光を放っていた「ビヨンドヴェイル・コア」があった。しかし、願いを叶えた代償か、石は役目を終えたと言わんばかりに、音もなく砂となって指の間から零れ落ちていく。
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彼女の故郷、グランベルクでも屈指の名門、ノワール家の宝物庫。その最深部で眠っていたのは、「ビヨンドヴェイル・コア」と呼ばれる神秘の石。手に取り、望む世界を強く念じれば、次元を超えて道が拓けるという古き伝承。私はその石を握り締め、迷いなく願った。
「――私を、強き魔物が跋扈する戦場へ!」
そして願いの果てに行き着いた世界の大地を彼女は今、踏みしめている。
石が失われたということは、もう二度とあの退屈な貴族社会には戻れないことを意味していた。
普通なら絶望する場面だろう。けれど、リオラの胸にあるのは高揚感だった。
右手の薬指には、家業を継ぐ者の証であるブラックダイヤモンドの指輪が鈍く光っている。そして左手には、細身の直剣を仕込んだ黒いパゴダ傘。
「さあ、お披露目といきましょうか!私という、真の騎士の姿を!」
ふふん、と鼻を鳴らして周囲を見渡す。そこは、切り立った岩山が連なる不思議な渓谷だった。遠くには、見たこともない反り返った屋根が並ぶ街並みが見える。
ここは、玄華界。
人々に器霊という不思議な存在が根付いた世界。
リオラは気取った足取りで歩き出した。自分は強い。そう信じて疑わなかった。近所の野犬を相手に、友人と木刀で立ち回った経験はある(ドレスを汚さない程度に、だが)。何より、この「黒」に包まれた自分の姿は、どんな熟練の戦士よりも強そうに見えるはずだ。
だが、運命は非情だった。
茂みがガサリと揺れ、その「魔物」は現れた。
体長はリオラの腰ほど。燃えるような赤い毛並みに、額から鋭い角が生えた野犬のような獣だ。
「――っ! 来たわね!」
リオラはパゴダ傘の柄を握り、勢いよく引き抜いた。中から現れたのは、磨き抜かれた漆黒の直剣。彼女が最も信頼する「相棒」だ。
「覚悟なさい。ノワール家の剣筋、その身に刻んで……」
言い切る前に、獣が地を蹴った。
速い。野犬とは比較にならない、風を切るような速度。
「えっ……あ、ちょっと!」
リオラは慌てて剣を振った。過去の鍛錬で磨き続けてきた型は、確かに美しく正確だった。けれど、襲いかかる魔物は、庭の木々のように黙って待っててはくれない。
予想を超えた獣の速さと、鼻をつく血生臭い匂いに、リオラの思考が白く弾け飛ぶ。
「こ、来ないで……!」
恐怖に支配された剣筋は芯を外し、自身の勢いに振り回されるように足をもつれさせた。無防備にさらされたドレスの裾を、獣の鋭い爪が黒い生地を引き裂く。
「やだっ!? 私のドレスが!」
悲鳴を上げながら、無様に地面を転がる。泥が自慢の黒い生地を汚し、整えたはずの髪が乱れる。獣は獲物の弱さを察したのか、喉の奥で低く唸りながら、ゆっくりと距離を詰めてきた。
「待って……来ないで。私は、私は選ばれし者で……」
剣を構え直そうとするが、手が震えて力が入らない。
目の前の魔物が放つ「殺気」が、これまでの自分の修練がいかに「遊び」であったかを、残酷なまでに突きつけていた。
死の恐怖が、リオラの心臓を握りつぶそうとしたその時。
「――危ないっ!」
凛とした声が響き、リオラの頭上を一本の銀光が走り抜けた。
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銀光の正体は、鮮やかな房飾り(ふさかざり)がついた一本の長槍だった。
それはリオラの鼻先を掠めて地面に突き刺さり、凄まじい衝撃波で赤い獣を弾き飛ばす。
「ひゃうんっ!?」
情けない声を上げて後退った魔物の前に、一人の少女が舞い降りた。
結い上げた黒髪に、蓮の花をあしらった薄紅色の旗袍。彼女は地面に突き刺さった槍を軽やかに引き抜くと、鋭い切っ先を獣に向けた。
「怪我はないですか、貴女!」
「あ……ええ、ええ……」
リオラは泥にまみれたまま、呆然と応えるのが精一杯だった。
助けに来た少女――玉蘭が手に持つ槍が、不自然なほどに淡く輝いている。それはまるで、武器そのものが呼吸をしているかのような、不思議な光り方だった。
「クウッ、ガアアッ!」
体勢を立て直した獣が、再び低く跳躍する。
玉蘭は一歩も引かず、静かに目を閉じた。
「お願い、銀鱗。街の平穏を守るために、力を貸して」
彼女が槍の名を呼んだ瞬間、槍の表面から細かい銀の鱗のような光が溢れ出した。それが玉蘭の腕に絡みつき、彼女の細い体からは想像もできないほどの力が解き放たれる。
一閃。
ただの一突きで、獣の巨体は仰向けにひっくり返り、霧のように霧散していった。
「ふぅ……。大丈夫ですよ、もう消えました」
玉蘭は槍を背に収めると、親しみやすい笑みを浮かべてリオラに手を差し伸べた。
「私は玉蘭。碧蓮楼の楼主です」
その後ろからは、さらに二人の少女が駆け寄ってくる。
「玉蘭、早すぎだよぉ! 私、お茶こぼしちゃったじゃない!」
そう言って、空の茶器を抱えて走ってくるのは、元気いっぱいの少女、小雪だ。隣には、しとやかな足取りで歩く清音が、心配そうにリオラを見つめている。
「……小雪、走るからよ。私は奏者の清音。こっちは給仕の小雪。貴女、随分と変わった装いですね。見たことのない様式の衣ですが」
「あ、あら……。ごきげんよう」
リオラは差し出された玉蘭の手を借りて、ようやく立ち上がった。
膝の泥を必死に払い、乱れたパゴダ傘の柄を握りしめる。内心の動揺を隠すように、いつもの傲岸な態度を取り繕おうとしたが、声はまだ震えていた。
「私はリオラ・ド・ノワール。……その、少しばかり、この世界の魔物の『作法』が、私の故郷とは違っていただけの話よ」
「作法、ですか?」
玉蘭は不思議そうに小首を傾げたが、リオラのボロボロになったドレスと、震える剣先を見て、すべてを察したように優しく微笑んだ。
「とりあえず、ここでの立ち話は危険です。私たちの居場所、『碧蓮楼』へ行きましょう。……貴女のその剣にも、少し休息が必要みたいですし」
「私の剣に、休息……?」
リオラが自分の黒い直剣を見つめたその時。
薬指のブラックダイヤモンドが、脈打つように熱を持った。まるで、この世界に満ちる不思議な力に応呼するように。
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玉蘭たちに連れられ、岩場を抜けた先には、リオラの想像を絶する光景が広がっていた。そこは、朱色や黄金色の瓦屋根が波のように連なる街。軒先には紅い提灯が揺れ、通りには香辛料とお茶の芳醇な香りが漂っている。何よりリオラを驚かせたのは、道を行く人々が手にしている「道具」たちにあった。
ある者の持つ団扇は自ら風を送り、ある商人の計りは言葉を喋り、ある子供の履く靴は意思を持って泥を避けて歩く。
「な、何なの、この街……。道具が勝手に動いているわ」
「ふふ、驚きましたか? 器霊ですよ。この世界‥‥玄華界に住む私たちはみんな、物と心を通わせて生きているんです」
玉蘭に案内されたのは、街の喧騒から少し離れた場所にある、見事な蓮の池に面した宿。そこが、彼女たちの拠点である「碧蓮楼」だった。
「さあ、着きました。まずはその泥を落とさないと」
通された客間で、リオラは差し出された温かいお茶に口をつける。小雪が淹れたそのお茶は、喉を通った瞬間に柔らかな日差しのような温かさを胸に残した。
「あぁ……美味しい。こんなお茶、グランベルクでも飲んだことがないわ」
「えへへ、お茶の葉が喜んでる証拠だよ!」
小雪が誇らしげに笑う一方で、リオラは複雑な心境だった。自分を守ってくれると信じていた剣は魔物に通用せず、ドレスは汚れ、今や見知らぬ異世界の少女たちに世話を焼かれている。
「私……本当は、もっと華麗に戦うつもりだったのに」
ポツリと漏らした言葉。その時、リオラの右手の指先が、突然氷のような冷たさに包まれる。
『――情けない。500年の矜持が泣いておりますよ、リオラ様』
「えっ!? 誰……?」
リオラは周囲を見渡すも、部屋には玉蘭たちしかいない。しかし、声は確かに自分の手元から聞こえくる。ブラックダイヤモンドの指輪が、深い闇を吸い込んだような輝きを放ち出した。
「指輪が……光ってる?」
驚くリオラの目の前で、指輪から黒い霧が立ち上り、それが一箇所に集まって形を成す。
現れたのは、十歳ほどの少女。夜の闇を織り上げたような漆黒の燕尾服を纏い、背中まで届く艶やかな黒髪。その瞳は冷徹なまでの光を宿し、小さな背筋をピンと伸ばしてリオラを見下ろしている。彼女の姿は幼い頃のリオラそのものだった。
「あなたは……器霊?」
『私の名はノワール。かつてあなたが、誰に言われるでもなく、独り図書室で騎士の物語を読みふけっていた頃……あの、最も純粋に『強さ』へ憧れていた10歳の姿を借りています』
「なっ‥!騎士の物語とか‥‥ってなんで幼い頃の私の姿をしているのよ!」
『今のあなたは、外見を着飾るだけの世間知らずなお嬢様かもしれません。けれど、この指輪が500年見守ってきた歴代の当主の中で、最も高潔で、最も真っ直ぐに自分を磨こうとしていた時期のあなた。その輝きを忘れないために、私はこの姿を選んだのです』
幼い少女の姿をしたノワールは、深々と、しかしどこかトゲのある優雅な礼を見せる。
『あなたがサボり散らかしていた「完璧な礼儀作法」の鍛錬。そのツケを、この野蛮な魔物の蔓延する世界で払うことになるとは……。やれやれ、前途多難ですね』
「な、なによ! 私がサボりまくってたなんて、今言わなくてもいいじゃない!」
初対面の器霊に痛いところを突かれ、リオラは顔を赤くする。しかし、ノワールは冷たい視線の奥に、ほんの少しだけ安堵の色を浮かべた。
『口を動かす暇があるなら、まずは姿勢を正しなさい。あなたは今、ノワール家の当主としてではなく、一人の無知な旅人なのですから』
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「――というわけで、リオラ様。まずはその泥だらけのボロ布を脱ぎ捨てていただけますか?」
ノワールは、自分の化身元である指輪を磨くように指先でなぞりながら、冷淡に言い放つ。
「なっ、ボロ布なんて失礼な! これは我が家お抱えの仕立屋が……」
「今のあなたにとっては、ただの動きにくい重りです」
言い返すリオラの前に、玉蘭が一枚の衣を広げて見せた。それは、夜空のような深い紺色に、銀の糸で蓮の模様が刺繍された旗袍だった。
「これ、私の予備なんですけど、リオラさんに似合うと思って。この世界では、こっちの方が動きやすいですよ」
リオラは渋々、自慢の黒いドレスを脱ぎ捨て、初めて異世界の衣に袖を通す。
絹のようになめらかな生地が肌を滑り、体のラインに沿って吸い付くような感覚。深いスリットからは脚が露出し、最初は「なんて破廉恥な!」と頬を赤らめたが、鏡の前に立つと、その洗練された美しさに思わず息を呑む。
「……意外と、悪くないわね。黒に近い色なのも、私の好みに合っているわ」
『姿勢がなっていません。背筋を伸ばし、顎を引きなさい』
背後からノワールの厳しい声が飛び、リオラは慌てて背筋を伸ばします。
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玄華界の日常、碧蓮楼の朝
翌朝、リオラは窓の外から聞こえる賑やかな音で目を覚ましました。
碧蓮楼の朝は早く、そこには彼女がかつて知っていた「貴族の静寂」とは真逆の、活気あふれる日常がありました。
「リオラさーん! 起きたらお掃除手伝って!」
小雪の元気な声に誘われて中庭へ出ると、そこでは不思議な光景が広がっていた。
小雪が茶碗を洗う横で、竹箒がまるで生きているかのように勝手に地面を掃き、清音が奏でる古琴の音色に合わせて、洗濯物たちが風に舞いながら乾いていく。
「箒が……踊ってるみたい。清音の楽器にも、器霊がいるの?」
「はい。この子の名は『静風』。私の心に寄り添い、穏やかな風を呼んでくれるんです」
清音がふわりと微笑むと、琴の弦がキラキラと光りました。
リオラも負けてはいられないと、手渡された雑巾を手に、廊下を拭き始めた。しかし慣れない労働に、ものの数分で息が上がる有様。
「はぁ、はぁ……。どうして私が、床掃除なんて……」
『それが「生活」というものです。リオラ様。物と一緒に働くという心を知らぬ者に、器霊を御することなど不可能です』
ノワールは宙に浮いたまま、茶壺の器霊が注いでくれたお茶を優雅に啜っている。
そこへ、カツカツと鋭い足音が響いてくる。
現れたのは、黒い革の防具を纏い、腰に長刀を差した知的な女性。自警団長の夜珊だった。
「玉蘭、例の『異界からの客』は彼女か?」
「はい、夜珊さん。リオラ・ド・ノワールさんです」
夜珊の鋭い視線がリオラを貫く。彼女はリオラの細い腕と、傍らに置かれた黒いパゴダ傘をじっと見つめた。
「ふむ……。どこぞの良家の子女というわりには、良い目を持っている。だが、その傘……。中身の剣が泣いているぞ」
「えっ、私の剣が?」
夜珊はリオラのパゴダ傘を手に取ると、親指で少しだけ刃を押し出した。
「手入れはされているが、魂が眠っている。これではこの世界の魔物には通用しない。後で煌鈴のところへ行け。あいつなら、あんたの武器を『目覚めさせる』方法を知っているはずだ」
「目覚めさせる……?」
リオラは自分の剣を見つめました。
ただのファッションの一部だと思っていたこの剣。しかし、ノワールの出現以来、剣の柄から微かな「拍動」を感じるようになっていました。
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街の外れ、紫色の煙がたなびく風変わりな工房。そこが、秘薬の研究者である煌鈴の館だった。
「あら、夜珊の紹介? 随分と可愛らしいお嬢さんじゃない」
出迎えたのは、深いスリットの入った紫の旗袍を纏った妖艶な女性、煌鈴。彼女は自身の体のラインを誇示するように優雅に椅子に腰掛けると、長い煙管から紫煙をくゆらせた。
「私はリオラ・ド・ノワール。私の剣に魂がないって言われて、ここへ……」
「ふーん。見せてごらんなさい、その『玩具』」
煌鈴はリオラの傘を奪い取るように受け取ると、仕込まれた直剣を抜いて光にかざした。
「形はいいけれど、中身は空っぽ。主人の愛着が『外面の格好良さ』にしか向いていないわ。これじゃあ器霊も、居心地が悪くて寝たふりを続けるはずよ」
「なっ……! 私はいつだって、この傘を大切にしてきたわ!」
「それは『アクセサリー』としてでしょう? この子は『武器』として愛されたがっているのよ」
煌鈴は不敵に微笑むと、奥から怪しげに光る液体の入った小瓶を取り出してきた。
「これは私の自信作。物の記憶を強制的に呼び覚ます『覚醒の雫』よ。これをお嬢さん、あんたの指輪の力を使って剣に流し込みなさい」
『リオラ様、覚悟はよろしいですか? 私が道筋を作ります』
指輪から現れた少女姿のノワールが、リオラの肩に手を置く。その瞬間、リオラの意識は現実から切り離され、真っ暗な空間へと引きずり込まれた。
――キン、と鋭い音が響く。
それは、リオラが初めてこの剣を買い与えられた日の記憶。
「格好いいから」という理由だけで選んだあの日。剣はただ、彼女の手の中で冷たく黙っていた。
次に流れてきたのは、夜の庭で独り、慣れない剣を振っていた時の記憶。誰にも見せない努力。ドレスを汚し、手の平に豆を作りながら、「いつか本物の騎士のように」と願った、リオラの純粋な憧れ。
「あ……」
リオラは気づいた。
自分がこの剣を愛していたのは、それが「自分を強く見せてくれるから」だけではなく、この剣と一緒に「変わりたい」と願っていたからなのだと。リオラにとって「礼儀作法」の練習は、サボりまくるに値する退屈な義務でしかなかった。10歳の頃の彼女にとって「礼儀作法」の練習は、「騎士のように凛とした自分になるための修行」の時間だった。ノワールは、その時のひたむきなリオラを認めた。
『主人の想い、確かに受け取りました』
ノワールの声と共に、ブラックダイヤモンドから溢れ出した漆黒の光が、直剣の刃へと吸い込まれていく。煌鈴の薬が触媒となり、冷たかった鉄の棒が、命を宿したように熱を帯びる。
「起きて……! 私と一緒に、この世界で戦って!」
リオラが叫んだ瞬間、剣から眩い黒光が放たれる。
光が収まったとき、そこには以前とは違う「重み」を持った剣があった。刃文には黒い炎のような模様が浮かび上がり、リオラの意思に呼応して、微かに震えている。
「……ふふ、合格。いい顔になったわね、お嬢さん」
煌鈴は満足げに頷き、煙管を置いた。
「でも、道具が目覚めただけじゃ宝の持ち腐れよ。次は、その力を振るう術を学ばなきゃ。ちょうどいいところに、退屈そうにしている『槍の達人』がいるわ」
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煌鈴の工房を後にしたリオラが連れてこられたのは、滝の音が轟く静かな道場。
そこにいたのは、背筋を一本の槍のように真っ直ぐに伸ばし、瞑想に耽る女性――鋒心だった。
「夜珊から話は聞いている、鋒心です。異界からの客人、リオラ・ド・ノワール殿ですね」
鋒心は立ち上がると、一分の隙もない完璧な礼を捧げた。その動作の美しさに、リオラは思わず見惚れてしまう。
「……ええ。私の剣に宿った力を、正しく使いたいと思って」
「よろしい。ですが、器霊の力とは主人の『心身の規律』に呼応するもの。まずはその、ふらついた足取りから直していただきましょう」
修行は、リオラの想像を絶するものだった。
ひたすら旗袍の裾を捌きながらの基礎歩行。石突きで地面を叩くような鋭い踏み込み。そして、何百回、何千回と繰り返される突きと払いの型。
「はぁ……はぁ……! ちょっと、休憩……」
「リオラ様、膝が笑っていますよ。ノワール家の『完璧な礼儀作法』はどこへ行ったのですか?」
宙に浮くノワールが、事も無げに冷たい言葉を投げかける。
リオラは泥にまみれ、額に汗を浮かべながらも、必死に剣――新しく目覚めた影月を握り締めた。
「わ、分かってるわよ……! 私が、自分から願って……ここに来たんだもの!」
その時、道場の奥からひらりと人影が現れる。
大きな鉄扇を弄びながら、跳ねるようにやってきた小柄な少女、焔舞。
「おっ、やってるねー! 鋒心の姐さん、この子が例のリオラ?」
「焔舞か。騒がしいぞ、今は修行の最中だ」
「いいじゃんいいじゃん! 修行ばっかりじゃ疲れちゃうよ。ねえリオラ、ちょっと私のダンスに付き合ってよ!」
焔舞は笑いながら鉄扇を広げ、リオラの懐に飛び込んできた。
戦いというよりは、舞踏。焔舞の変幻自在な動きに、リオラは翻弄される。しかし、翻弄されながらも、リオラは気づく。
「(……リズム。これは、舞踏会のステップに似ている……?)」
グランベルクで嫌々叩き込まれたダンスの教養。それが、異世界の武術と重なり合う瞬間。
リオラの足運びが、劇的に滑らかになる。影月の黒い刃が、焔舞の扇を鮮やかに弾き返した。
「おっ、やるぅ! センスあるじゃん!」
「……ほう。貴殿の国の『作法』、あながち無駄ではなかったようですね」
鋒心がわずかに口角を上げた。
その時、街の方角から重苦しい鐘の音が響き渡る。
「――警鐘!? 魔物の襲撃か!」
夜珊の声が遠くで響いている。
リオラは、まだ震える手で影月を鞘に収めた。怖い。けれど、今度は逃げ出したくない。
「ノワール、行くわよ。私たちの『戦い』を、見せてあげるんだから」
『……ふふ。仰せのままに、我が主』
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街の北門を破り、黒い霧と共に魔物の群れが崩れ込んできた。
それは、リオラが最初に遭遇した獣よりも一回り大きく、禍々しい角を持つ「焔角獣」の群れだった。
「焔角獣⁈単体でも厄介だっていうのに‥‥!避難を急いで! 波泪、西側の誘導をお願い!」
夜珊の鋭い号令が響き渡る。波泪は「ひいぃ、怖いよぉ!」と涙をボロボロと流して走り出す。しかし、彼女の首に巻かれた青い長絹の器霊、澪々(リンリン)がその涙を吸い込むと、キラキラと光る守護の霧を周囲に放つ。その光に導かれるように、街の人々は勇気を取り戻し、迷うことなく避難を始められた。
リオラは、逃げ惑う人々の中に、腰を抜かして震えている小さな子供を見つける。その背後に、燃え盛る角を振り上げた獣が迫り来る。
「――させない!」
リオラの体が、考えるより先に動いていた。
鋒心との修行で叩き込まれた踏み込み。焔舞との手合わせで掴んだリズム。
黒い旗袍の裾を翻し、リオラは子供と獣の間に割り込んだ。
「影月、お願い!」
引き抜かれた黒い直剣が、襲い来る焔角獣の爪を真っ向から受け止める。しかし、獣の膂力は凄まじく、リオラの細い腕が悲鳴を上げた。
『リオラ様、まだです。形だけでは、この乾いた鉄に魂は宿りません』
脳裏に響くノワールの声。同時に、リオラの視界に「記憶」が溢れ出した。
それは、指輪が500年間にわたって守り続けてきた、歴代当主たちの姿。
厳格に、誇り高く。けれど誰もが、その裏側で孤独や恐怖と戦っていた。
そして、自分。
退屈だ、何もないと嘆いていたけれど、本当は「誰かのためにこの力を使いたい」と、あの図書室で騎士物語を読んでいた幼い日の純粋な願い。
「私は……ノワール家の、リオラ・ド・ノワール!」
その瞬間、指輪のブラックダイヤモンドが砕けんばかりの光を放ち、リオラの姿を包み込んだ。
光の中から現れたのは、現在のリオラと重なるように浮かび上がる、十歳の頃の彼女の幻影。
それは、お世辞にも「完璧な令嬢」とは呼べない姿。礼儀作法の時間は窓の外を眺め、執事の目を盗んでは図書室で騎士物語を読んでいた少女。ドレスの裾を泥で汚し、手の平にいくつもの豆を作りながら、独りきりで必死に剣を振るっていたあの日。ノワールにとっての「完成された主人の姿」とは、形式的な礼儀を身につけた姿ではない、「いつか誰かを守れる、誇り高い騎士のようになりたい」と、ただ純粋に、がむしゃらに自分を磨き上げようとしていた、あの十歳の頃の輝きだったのだ。
『……思い出しましたか? あなたが真に求めていた「作法」とは、弱き者を守り、己を律する騎士の誇りであったはずです』
ノワールの声が重なり、影月の刃から漆黒の炎が立ち上る。
それは、かつての自分との再会が生んだ共鳴。冷笑的な世間知らずの「お嬢様」という仮面を脱ぎ捨て、泥にまみれても立ち上がる「騎士」の魂が、器霊の真の力を解き放った。
「はぁぁぁっ!」
リオラの一閃が、獣の焔を切り裂き、その巨体を一刀両断にした。
黒い炎の軌跡が空に残り、霧散していく魔物の欠片が、まるでお祝いの紙吹雪のように街に舞う。
「……やったの?」
呆然とするリオラの元に、槍を振るって加勢に来た玉蘭たちが駆け寄る。
「リオラさん! すごい、器霊と心を通わせたんですね!」
「あはは、あのスカした指輪があんなに光るなんて!」
小雪が笑い、清音が安堵の溜息をつく。
リオラは、まだ熱を帯びている剣を、ゆっくりと黒いパゴダ傘の鞘に収めた。
「……ええ。でも、これは私だけの力じゃないわ。ノワール、それにみんな……あなたたちが教えてくれたのよ」
ふと見ると、指輪から現れた幼いノワールが、少しだけ誇らしげに、けれど相変わらず厳しい表情で立っていました。
『……及第点です。ですが、リオラ様。今の衝撃で旗袍が少し解れていますよ。後で清音に直していただきなさい。ノワール家の当主たるもの、身だしなみは常に完璧でなくては』
「もう、ノワールったら! せっかく感動的なシーンだったのに!」
リオラは頬を膨らませたが、その顔には、グランベルクにいた頃には決して見せなかった、心からの晴れやかな笑顔が浮かんでいた。リオラの笑顔に応えるように、漆黒の炎を纏った影月が、一層強く鳴動した。
「さあ、お喋りは終わりよ。この街の『作法』に従って、盛大にお見送りしてあげるわ!」
リオラは黒い旗袍の裾を美しく翻すと、残りの焔角獣の群れへと躍り出る。かつての彼女なら、獣の形相に怯え、剣を振り回すのが精一杯だっただろう。しかし今の彼女の足運びには、あの道場での厳しい修行で培った規律とリズムが宿っていた。
「はぁっ!」
影月が一閃されるたび、漆黒の炎が夜の帳を切り裂くように走り、魔物たちの燃える角を次々と叩き折っていく。ノワール家当主が500年守り続けてきた「誇り」は、異世界の魔物を退ける絶対的な力へと昇華されていた。それに応えるように、仲間の器霊たちも一斉に輝きを増す。
「これ以上、碧蓮楼の庭を汚させない! 銀鱗、貫いて!」
玉蘭の放つ槍の光が空を穿ち、
「みんな、あと少しだよ……! 澪々(リンリン)、もっと強く!」
波泪が泣きながら広げた守護の霧が、魔物たちの動きを封じ込める。
最後の一体となった巨大な焔角獣が、リオラに向かって咆哮を上げた。
リオラは恐れることなく、右手の指輪を影月の柄に強く押し当てる。
「ノワール、これが私たちの――『最高の礼儀』よ!」
十歳の頃の幻影とリオラの動きが完璧に重なり、影月から巨大な黒い一閃が放たれた。それは魔物を貫くだけでなく、戦場に漂っていた禍々しい気配をも浄化するように、夜空へと消えていった。
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夜明けと平和
やがて、激しい戦いの音が止んだ。東の空が白み始め、夜明けの光が玄華界の街並みを照らし出す。魔物の死骸は霧となって消え、後に残ったのは、静まり返った清浄な空気だけだった。
「終わった……のね」
リオラは影月をパゴダ傘の鞘へとゆっくりと収めた。
気がつくと、街のあちこちから、隠れていた人々が恐る恐る顔を出し始める。
「助かったんだ……」
「あの黒い服のお嬢さんが、守ってくれたのか?」
誰からともなく拍手が起こり、それはやがて大きな歓声へと変わる。
グランベルクで受けていた、血筋に対する儀礼的な拍手ではない、彼女自身の「勇気」に向けられた、心からの感謝。
「あはは! リオラ、凄かったじゃん! 最後のポーズ、ちょっと格好つけすぎだったけどね!」
焔舞が背中に飛びついてきて、リオラは「ちょっと、危ないわよ!」と笑いながらよろけた。ふと見ると、指輪のノワールが、実体化を解く直前にリオラの耳元で小さく囁いた。
『……泥にまみれたお嬢様も、案外悪くないものですね。合格です、リオラ様』
その声は、これまでで一番優しく響いたように感じた。リオラは朝日を浴びながら、碧蓮楼へと帰る仲間たちの背中を追いかける。その足取りは、かつて退屈に支配されていた頃よりも、ずっと力強く、明日への期待に満ち溢れていた。
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エピローグ:玄華界の空の下で戦いが終わり、夕暮れに染まる碧蓮楼のテラス。リオラは特製の黒い旗袍に身を包み、小雪が淹れたお茶を啜っていた。砕け散ってしまったビヨンドヴェイル・コア。元の世界に帰る方法は、まだ見つかっていない。けれど、リオラはこの世界で、新しい「自分」を見つけ始めていた。
「道具には心がある。そして、その心に応えるには、自分自身の心も磨かなきゃいけない……」
隣で戦いの疲れからか、すっかり寝入ってしまった波泪。彼女の首元で、器霊の澪々(リンリン)が主人の寝息に合わせて静かに波打っている。その青い布越しに反射する夕日が、リオラの瞳を優しく照らした。リオラは愛用の傘を愛おしそうに撫で、遠く龍が舞う空を見上げた。
世間知らずなお嬢様の冒険は、まだ始まったばかり。道具に宿る思い出を、そしてこれから作る新しい記憶を、この漆黒の剣に刻み込みながら。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
世間知らずだったリオラが、異世界「玄華界」の洗礼を受け、自身の指輪に宿る器霊・ノワールと心を通わせるまでを描きました。
この物語のテーマは「モノに宿る想い」です。
皆さんの身近にある道具にも、もしかしたらリオラの指輪や傘のように、持ち主を見守る優しい(あるいはノワールのように少し厳しい)心が宿っているかもしれません。
「完璧な礼儀作法」の練習をサボっていた今のリオラが、10歳の頃の自分と向き合うシーンは、執筆していて私自身も胸が熱くなりました。続きを執筆するとしたら、碧蓮楼の仲間たちとの賑やかな日常に加え、さらに個性豊かな器霊や強敵たちを登場させたいと思っています。リオラは無事に元の世界へ帰る手がかりを見つけられるのか、それともこの世界で新たな道を選ぶのか……。
『……ふん。リオラ様、ぼうっとしていないで。この物語を面白いと思った方々に、下の星を5つ捧げるよう促しなさい。それが、この指輪をより輝かせ、あなたの物語を華やかに彩る力となるのです』




