表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

疲れたので、降りました。シリーズ

疲れたので、私は王太子を手放した

作者: 福嶋莉佳
掲載日:2026/01/17

「殿下が……また、お呼びですか」


リュシエンヌは机の上に広げた書類から視線を上げ、小さく息を吐いた。


「途中だったのに……」


今日中に目を通すべき案件が三つ。

未決裁の文書が二通。

どれも後回しにできる内容ではない。


どうせ、また愚痴を聞かされるだけなのに。

そう思いながらも、断るという選択肢は浮かばなかった。


王太子の婚約者という立場に就いてから、

呼ばれれば応じる。

拒否するという思考自体が、いつの間にか削ぎ落とされていた。


足取りは重かった。


王太子の部屋。

ノックをして、扉を開けた瞬間――違和感に足が止まった。


ユリウス王太子の隣に、見知らぬ女が座っていた。


淡い色のドレスに柔らかく波打つ髪。

砂糖菓子のような笑顔で、女は王太子に身体を寄せている。


「来たね、リュシエンヌ」


緊張感のない軽い声だった。


「立っていないで、座ってくれ」


促され、リュシエンヌは言われるまま椅子に腰を下ろす。

向かい合う形ではあるが、距離は妙に遠い。


「紹介するよ。マルティナ伯爵令嬢だ」


「は、初めまして……」


女――マルティナは、少し頬を染めて頭を下げた。

遠慮がちに控えめな声色だった。


だが、その手は、自然な仕草でユリウスの腕に触れていた。


ユリウスは満足そうに頷いた。


「それでね、今日呼んだのは……大事な話があるからなんだ。

そんなに身構えなくていい」


嫌な予感が、ようやく胸に届く。


「リュシエンヌ。君は、いつも不機嫌そうだろう」


唐突な言葉だった。


「眉間に皺を寄せてばかりで、場が和まない。

もっと、こう……明るく振る舞えたらよかったんだけど」


ユリウスは困ったように笑い、

隣のマルティナへと視線を向ける。


「彼女のようにね」


マルティナは一瞬、驚いたように目を瞬かせ、視線を伏せた。


「そ、そんな……わたしは、ただ……」


慌てて手を振るが、あまり拒否しているようには見えない。


「……」


リュシエンヌは扇子を握りしめた。


「努力してくれれば、違った未来もあったと思うよ」


責めるつもりはない、とでも言いたげな口調で、

ユリウスは続ける。


「だから、婚約は解消しようと思う。

お互い、そのほうが楽だろう?」


とても、軽い一言だった。


「……そう、ですか……」


マルティナが、控えめに一歩前に出る。


「嬉しいです……。

選んでくださって……」


マルティナとユリウスが言葉を交わす。

その様子は、ひどく穏やかで、幸福そうだった。


――理由を問いただすべきだと、

婚約者として拒むべきだと、

頭では分かっているのに。 


口は、どうしても動かなかった。


リュシエンヌの胸に浮かんだ感情はひとつだけ。


……疲れた。


怒りも、悲しみも、もう追いついてこない。

ただ、長い役目を終えたあとのような、

深い疲労だけが残っていた。





どうやって部屋に戻ったのか、覚えていない。

気がつくと、見慣れた政務室にいた。


扉を閉めた途端、足から力が抜け、

リュシエンヌは椅子に崩れるように腰を下ろした。


机の上には、さっきまで見ていた書類がそのまま残っていた。

王太子名義で、実際には彼女が整えてきた仕事だ。


王太子と婚約してから、もう数年になる。


公爵家初の王太子妃だと、家族は喜んだ。

期待も、責任も、そのすべてを受け取ってきた。


――それなのに。


こんな形で終わるなんて。


書類に視線を落としたまま、しばらく動けずにいると、

控えめなノックの音が響いた。


「……失礼いたします」


入ってきたのは、王太子近衛の一人。

アデル・グレンフォード。


平民出身ながら、数々の功績を重ね、

数年前に男爵位を授けられた人物だ。


黒髪をきちんと後ろで束ね、無駄のない服装。

姿勢は常に正しかった。


政務の調整も、社交の裏方も、

リュシエンヌと分担しながら王太子を支えてきた相手だった。


彼は一歩下がった位置で、深く頭を下げる。


「……お加減は、いかがですか」


それ以上、言葉はなかった。


アデルは、いつもそうだった。

余計なことは言わない。

だが、必要なことからは決して目を逸らさない。


リュシエンヌは机に肘をついたまま、視線を落としたまま口を開く。


「アデル……あなたは、知っていたの……?」


名を呼ばれた瞬間、アデルの肩がわずかに強張る。

その沈黙だけで、答えは十分だった。


一瞬、言葉を選び、それから口を開く。


「殿下は……あの方と。

 いつから、なのですか?」


「……昨年の、冬のはじめ頃からです」


淡々とした声だったが、

どこか申し訳なさが滲んでいた。


「リュシエンヌ様が、お忙しかった時期です。

 政務も式典も増え、

 社交の調整に追われていた頃……」


「……私が、忙しくしていた時に?」


「君のほうが得意だろう」

王太子にそう言われ、押し付けられた仕事の数々が脳裏をよぎる。


アデルは続けた。


「殿下は……慰めを求めておられたのだと思います。

 簡単に笑い、

 甘い言葉を返してくれる相手を」


「そう……」


リュシエンヌは椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げた。


「あの方のこと……知っている?」


アデルは察したように頷いた。


「新興の伯爵家です。

 近年、急速に資産を増やした一族で……

 社交界では、少し前から注視されていました」


「……やっぱり」


「野心が強く、動きも早い。

 殿下に近づく理由としては……

 分かりやすい相手でした」


胸の奥が、ほんの一瞬だけ痛む。


――気づけたはずだった。

だが、忙しさを理由に後回しにしてきた。


……もう、終わったことだ。

今さら正解をなぞっても、意味はない。


「……これまで殿下がお務めを果たせたのは、

 あなたが裏で整えていたからです。

 人間関係も、揉め事も……」


「……」


窓ガラスに、自分の姿が映っていた。


目の下の隈。

張りつめた表情。


誰のせいで、こうなったと思っているのよ。

怒りは確かにあったが、それを表に出すことはしない。


妃候補として、

感情を隠す癖だけは、

嫌というほど身についている。


「……こんな時にも。

 学んだことが、離れないのね」


アデルが何か言いかけるより先に、

リュシエンヌは静かに首を振った。


「もう、いいの」


机の端に置かれた、冷めきった紅茶に視線を落とす。

香りは、もう残っていなかった。





数日後、夜会の招待状が届いた。


それを見た瞬間、胸の奥がわずかに重くなる。

だが、迷う余地はなかった。


欠席すれば、あらぬ憶測を呼ぶ。

何を言われるかわからない――だからこそ、行かないわけにはいかなかった。


部屋で身支度を整えていると、侍女が櫛を持つ手を止め、控えめに口を開いた。


「お嬢様……。

 今宵は、行かれなくてもよろしいのでは。

 旦那様も、だいぶ心配しておられました」


「そういうわけにはいかないわ」


リュシエンヌは、鏡越しに侍女を見て、わずかに首を傾げる。


「欠席すれば、

 それだけで好き勝手に言われるもの。

 ――それは、もう分かっているでしょう」


侍女は唇を噛みしめ、小さく頷いた。


「……そうですか」


侍女はそれ以上は言わなかった。


彼女は気持ちを切り替えるように目をきっとさせ、

髪を丁寧にまとめ直す。


ドレスを整えると、

リュシエンヌは静かに立ち上がった。


相変わらず、足取りは重い。

だが、玄関脇の姿見の前で、ふと足が止まった。


鏡に映るのは、よく仕立てられたドレスと、

背筋を伸ばした女だった。


踏み出す足に、わずかに力がこもる。


そのまま、夜会へ向かう馬車に乗り込んだ。


会場に足を踏み入れた瞬間、ざわめきがわずかに揺れる。

視線が集まる感覚には慣れているはずだったが、今は身にしみた。


すぐに、アデルが近づいてくる。  


「アデル……お久しぶりね」


いつも一緒だったからか、わずか数日後でもこんな言葉が出てきた。


アデルは一礼する。

その動きは、いつもよりキレがない。


「……あなたがいなかったから、準備は大変でした。

直前まで指示が定まらず、現場が混乱していました」


彼の視線の先では、使用人たちが慌ただしく動き回っている。

段取りの甘さが、否応なく目に入った。


「……まあ、想像通りね」


「無理をなさらないでください。

 周りは、思っている以上に無神経ですから」


「……ありがとう」


リュシエンヌは、ふとアデルを見た。


「……あなたは大丈夫?

 顔色がよくないわ」


アデルは一瞬きょとんとしたあと、すぐに表情を引き締めた。


「問題ありません。

 本来は、あなたが担っていた役目ですから」


「答えになってないわ」


小さく息を吐くと、アデルはわずかに視線を逸らした。


「……慣れています。

 それに、あなたに気を遣わせる立場ではありません」


その言い方が、ひどく彼らしかった。


「そう」


それ以上は踏み込まなかった。

相変わらず、あなたも自分のことは後回しね。


アデルと別れ、リュシエンヌは会場を見渡す。


集まっている顔ぶれは、見慣れない者が多い。

新興貴族たちだ。


――なるほど。


王太子の隣に立つ人間が代われば、

夜会の質も、こうなる。


そう思った瞬間、視線の先に例の二人が見えた。


ユリウス王太子と、その腕に寄り添うマルティナ。


「リュシエンヌ! 来てくれたんだね」


ユリウスは、以前と変わらない朗らかな声で近づいてくる。


「君がいなくなって、ほんとうに大変だったよ」


周囲に向けてそう言えば、

貴族たちは曖昧に笑い、同意するように頷いた。


マルティナが首を傾げ、甘い声で続ける。


「リュシエンヌ様がいらっしゃらなくなってから、

 皆さん、少し困っているみたいなんです」


そう言って、マルティナはユリウスを見上げた。


「……殿下。

 この前、お話ししていましたでしょう?

 “皆が困らない方法がある”って」


ユリウスは一瞬きょとんとし、それから思い出したように声を上げた。


「ああ、そうだったね」


そして、続けた。


「前から考えていたんだ。

 君がアデルと結婚したらどうだ?」


リュシエンヌの扇子が、ぴたりと止まった。


「君の家は公爵家だし、

 後継ぎにアデルを立てれば、丸く収まるだろう?」


「……なにを、急に……」


声が、わずかに震える。


思考が追いつかない。

怒りより先に、眩暈がした。


視線の端で、マルティナと目が合う。

その笑みが、ほんの一瞬だけ硬くなったように見えた。


王太子の周囲にいる新興貴族たちは、

さも名案だと言わんばかりに頷き、リュシエンヌの反応を待っている。


「え、あの近衛って……元平民でしょう?」

「釣り合わないのでは?」

「公爵家? 冗談でしょう……」


囁き声が、波のように押し寄せる。


見渡さなくても、わかる。

誰も、助けてくれない。


リュシエンヌの視界に、アデルが入った。


彼は固まったまま、

必死に視線で訴えている。


――断ってください。


「アデル……」


その瞬間、はっきりと思い出した。


自分を気遣い、

対等に扱い、

支え続けてくれたのは――この人だけだった。


リュシエンヌは、ゆっくりと息を吸う。


「……お受けします」


ざわめきが走る。

アデルの目が、大きく見開かれた。


「そうか、よかった。これで皆も安心するだろう」

ユリウスは安堵したように笑う。


リュシエンヌは、王太子をまっすぐ見据えた。


「ただし――」


扇子を、静かに畳む。


「わたくしが、嫁ぎます」


「……え?」


間の抜けた声が、ユリウスの口から漏れた。

新興貴族たちも、マルティナも、

笑顔のまま言葉を失っている。


アデルはしばらく彼女を見つめ、

やがて、静かに問いかけた。


「……本気ですか」


「本気よ。

 ……あなたは、嫌?」


一瞬の沈黙。


それから、アデルははっきりと首を振った。


「いいえ。

 私には、過ぎた話です。

 それでも――あなたが望むなら」


リュシエンヌは目を細め、

差し出されたその手を、迷いなく取った。


そのまま踵を返し、

夜会の喧騒を背にする。


残された人々は、

誰ひとりとして、二人を引き留められなかった。





それからリュシエンヌは、王都を離れた。


実家のことは、すでに方がついていた。


「……お父様、あっさりだったわ。

『よく耐えたな』って。それだけ」


肩をすくめて言うと、アデルは少し困ったように笑った。


「ご立派なお父上ですね」


「ええ。だから、心配はいらないの」


アデルのもとに嫁ぎ、地方の小さな領地で暮らす。

華やかさはない。


「それがいいのよ」


紅茶を口に含みながら、リュシエンヌは笑った。


「夜会ばっかりで、正直しんどかったもの。もうこりごり」


隣で、アデルが読み終えた新聞を畳み、机の端に置く。

王都から届いたものだ。


リュシエンヌは、ちらりと見出しに目を走らせた。


『王太子ユリウス失脚』


回らなくなった公務。

噴き出した不正と失策。

詳細を読む気にはならなかった。


アデルが、静かにこちらを見る。


「……後悔は、ありませんか」


「あるわけないでしょう」


リュシエンヌはカップを持ち上げ、紅茶の香りを吸い込む。


「こうして、誰かと紅茶を味わえる。

 それだけで、充分よ」


一拍置いて、顔を向ける。


「……あなたこそ。後悔はないの?」


アデルは一瞬考えるように黙り、

それから、口元を緩めた。


「いいえ。

むしろ――ようやく、ここだと思えました」


「そう……なら、よかった」


そう言って、リュシエンヌはふっと視線を逸らした。


アデルは、ほんの少し距離を縮めて座り直す。


気配に気づいて顔を上げると、

ちょうど、彼と目が合った。


「では……これからも。

 隣にいてもよろしいでしょうか」


リュシエンヌは、はにかむように微笑み、

静かに頷いた。


私には、これで――充分だ。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

少しいつもと違い長めにしました。

今後の参考にしたいので感想・評価など頂けたら、嬉しいです。


◆後日談です。

疲れたので、降りました【後日談・アデル視点】

https://ncode.syosetu.com/n7953lq/

疲れたので、降りました【後日談/その後】

https://ncode.syosetu.com/n1334lr/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
作者様の名前からこちらに到着。 ちょっと!一作前?このお話の前身?のバージョンアップ版にびっくりしたよ?!(笑)。 「降りました」と「王太子を手放した」は、基本は同じなのに雰囲気が全然変わっていて驚…
貴族の勢力図を塗り替えるような王太子妃候補の交代劇ですが、側近のアデルを公爵家に送り込むことで、新興勢力の伯爵令嬢に鞍替えしたために、滞った公務の代行をリュシエンヌに回しつつ、引き続き公爵家の後ろ盾を…
あの阿呆を放置していた王家もまた同罪。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ