疲れたので、私は王太子を手放した
「殿下が……また、お呼びですか」
リュシエンヌは机の上に広げた書類から視線を上げ、小さく息を吐いた。
「途中だったのに……」
今日中に目を通すべき案件が三つ。
未決裁の文書が二通。
どれも後回しにできる内容ではない。
どうせ、また愚痴を聞かされるだけなのに。
そう思いながらも、断るという選択肢は浮かばなかった。
王太子の婚約者という立場に就いてから、
呼ばれれば応じる。
拒否するという思考自体が、いつの間にか削ぎ落とされていた。
足取りは重かった。
王太子の部屋。
ノックをして、扉を開けた瞬間――違和感に足が止まった。
ユリウス王太子の隣に、見知らぬ女が座っていた。
淡い色のドレスに柔らかく波打つ髪。
砂糖菓子のような笑顔で、女は王太子に身体を寄せている。
「来たね、リュシエンヌ」
緊張感のない軽い声だった。
「立っていないで、座ってくれ」
促され、リュシエンヌは言われるまま椅子に腰を下ろす。
向かい合う形ではあるが、距離は妙に遠い。
「紹介するよ。マルティナ伯爵令嬢だ」
「は、初めまして……」
女――マルティナは、少し頬を染めて頭を下げた。
遠慮がちに控えめな声色だった。
だが、その手は、自然な仕草でユリウスの腕に触れていた。
ユリウスは満足そうに頷いた。
「それでね、今日呼んだのは……大事な話があるからなんだ。
そんなに身構えなくていい」
嫌な予感が、ようやく胸に届く。
「リュシエンヌ。君は、いつも不機嫌そうだろう」
唐突な言葉だった。
「眉間に皺を寄せてばかりで、場が和まない。
もっと、こう……明るく振る舞えたらよかったんだけど」
ユリウスは困ったように笑い、
隣のマルティナへと視線を向ける。
「彼女のようにね」
マルティナは一瞬、驚いたように目を瞬かせ、視線を伏せた。
「そ、そんな……わたしは、ただ……」
慌てて手を振るが、あまり拒否しているようには見えない。
「……」
リュシエンヌは扇子を握りしめた。
「努力してくれれば、違った未来もあったと思うよ」
責めるつもりはない、とでも言いたげな口調で、
ユリウスは続ける。
「だから、婚約は解消しようと思う。
お互い、そのほうが楽だろう?」
とても、軽い一言だった。
「……そう、ですか……」
マルティナが、控えめに一歩前に出る。
「嬉しいです……。
選んでくださって……」
マルティナとユリウスが言葉を交わす。
その様子は、ひどく穏やかで、幸福そうだった。
――理由を問いただすべきだと、
婚約者として拒むべきだと、
頭では分かっているのに。
口は、どうしても動かなかった。
リュシエンヌの胸に浮かんだ感情はひとつだけ。
……疲れた。
怒りも、悲しみも、もう追いついてこない。
ただ、長い役目を終えたあとのような、
深い疲労だけが残っていた。
◆
どうやって部屋に戻ったのか、覚えていない。
気がつくと、見慣れた政務室にいた。
扉を閉めた途端、足から力が抜け、
リュシエンヌは椅子に崩れるように腰を下ろした。
机の上には、さっきまで見ていた書類がそのまま残っていた。
王太子名義で、実際には彼女が整えてきた仕事だ。
王太子と婚約してから、もう数年になる。
公爵家初の王太子妃だと、家族は喜んだ。
期待も、責任も、そのすべてを受け取ってきた。
――それなのに。
こんな形で終わるなんて。
書類に視線を落としたまま、しばらく動けずにいると、
控えめなノックの音が響いた。
「……失礼いたします」
入ってきたのは、王太子近衛の一人。
アデル・グレンフォード。
平民出身ながら、数々の功績を重ね、
数年前に男爵位を授けられた人物だ。
黒髪をきちんと後ろで束ね、無駄のない服装。
姿勢は常に正しかった。
政務の調整も、社交の裏方も、
リュシエンヌと分担しながら王太子を支えてきた相手だった。
彼は一歩下がった位置で、深く頭を下げる。
「……お加減は、いかがですか」
それ以上、言葉はなかった。
アデルは、いつもそうだった。
余計なことは言わない。
だが、必要なことからは決して目を逸らさない。
リュシエンヌは机に肘をついたまま、視線を落としたまま口を開く。
「アデル……あなたは、知っていたの……?」
名を呼ばれた瞬間、アデルの肩がわずかに強張る。
その沈黙だけで、答えは十分だった。
一瞬、言葉を選び、それから口を開く。
「殿下は……あの方と。
いつから、なのですか?」
「……昨年の、冬のはじめ頃からです」
淡々とした声だったが、
どこか申し訳なさが滲んでいた。
「リュシエンヌ様が、お忙しかった時期です。
政務も式典も増え、
社交の調整に追われていた頃……」
「……私が、忙しくしていた時に?」
「君のほうが得意だろう」
王太子にそう言われ、押し付けられた仕事の数々が脳裏をよぎる。
アデルは続けた。
「殿下は……慰めを求めておられたのだと思います。
簡単に笑い、
甘い言葉を返してくれる相手を」
「そう……」
リュシエンヌは椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げた。
「あの方のこと……知っている?」
アデルは察したように頷いた。
「新興の伯爵家です。
近年、急速に資産を増やした一族で……
社交界では、少し前から注視されていました」
「……やっぱり」
「野心が強く、動きも早い。
殿下に近づく理由としては……
分かりやすい相手でした」
胸の奥が、ほんの一瞬だけ痛む。
――気づけたはずだった。
だが、忙しさを理由に後回しにしてきた。
……もう、終わったことだ。
今さら正解をなぞっても、意味はない。
「……これまで殿下がお務めを果たせたのは、
あなたが裏で整えていたからです。
人間関係も、揉め事も……」
「……」
窓ガラスに、自分の姿が映っていた。
目の下の隈。
張りつめた表情。
誰のせいで、こうなったと思っているのよ。
怒りは確かにあったが、それを表に出すことはしない。
妃候補として、
感情を隠す癖だけは、
嫌というほど身についている。
「……こんな時にも。
学んだことが、離れないのね」
アデルが何か言いかけるより先に、
リュシエンヌは静かに首を振った。
「もう、いいの」
机の端に置かれた、冷めきった紅茶に視線を落とす。
香りは、もう残っていなかった。
◆
数日後、夜会の招待状が届いた。
それを見た瞬間、胸の奥がわずかに重くなる。
だが、迷う余地はなかった。
欠席すれば、あらぬ憶測を呼ぶ。
何を言われるかわからない――だからこそ、行かないわけにはいかなかった。
部屋で身支度を整えていると、侍女が櫛を持つ手を止め、控えめに口を開いた。
「お嬢様……。
今宵は、行かれなくてもよろしいのでは。
旦那様も、だいぶ心配しておられました」
「そういうわけにはいかないわ」
リュシエンヌは、鏡越しに侍女を見て、わずかに首を傾げる。
「欠席すれば、
それだけで好き勝手に言われるもの。
――それは、もう分かっているでしょう」
侍女は唇を噛みしめ、小さく頷いた。
「……そうですか」
侍女はそれ以上は言わなかった。
彼女は気持ちを切り替えるように目をきっとさせ、
髪を丁寧にまとめ直す。
ドレスを整えると、
リュシエンヌは静かに立ち上がった。
相変わらず、足取りは重い。
だが、玄関脇の姿見の前で、ふと足が止まった。
鏡に映るのは、よく仕立てられたドレスと、
背筋を伸ばした女だった。
踏み出す足に、わずかに力がこもる。
そのまま、夜会へ向かう馬車に乗り込んだ。
会場に足を踏み入れた瞬間、ざわめきがわずかに揺れる。
視線が集まる感覚には慣れているはずだったが、今は身にしみた。
すぐに、アデルが近づいてくる。
「アデル……お久しぶりね」
いつも一緒だったからか、わずか数日後でもこんな言葉が出てきた。
アデルは一礼する。
その動きは、いつもよりキレがない。
「……あなたがいなかったから、準備は大変でした。
直前まで指示が定まらず、現場が混乱していました」
彼の視線の先では、使用人たちが慌ただしく動き回っている。
段取りの甘さが、否応なく目に入った。
「……まあ、想像通りね」
「無理をなさらないでください。
周りは、思っている以上に無神経ですから」
「……ありがとう」
リュシエンヌは、ふとアデルを見た。
「……あなたは大丈夫?
顔色がよくないわ」
アデルは一瞬きょとんとしたあと、すぐに表情を引き締めた。
「問題ありません。
本来は、あなたが担っていた役目ですから」
「答えになってないわ」
小さく息を吐くと、アデルはわずかに視線を逸らした。
「……慣れています。
それに、あなたに気を遣わせる立場ではありません」
その言い方が、ひどく彼らしかった。
「そう」
それ以上は踏み込まなかった。
相変わらず、あなたも自分のことは後回しね。
アデルと別れ、リュシエンヌは会場を見渡す。
集まっている顔ぶれは、見慣れない者が多い。
新興貴族たちだ。
――なるほど。
王太子の隣に立つ人間が代われば、
夜会の質も、こうなる。
そう思った瞬間、視線の先に例の二人が見えた。
ユリウス王太子と、その腕に寄り添うマルティナ。
「リュシエンヌ! 来てくれたんだね」
ユリウスは、以前と変わらない朗らかな声で近づいてくる。
「君がいなくなって、ほんとうに大変だったよ」
周囲に向けてそう言えば、
貴族たちは曖昧に笑い、同意するように頷いた。
マルティナが首を傾げ、甘い声で続ける。
「リュシエンヌ様がいらっしゃらなくなってから、
皆さん、少し困っているみたいなんです」
そう言って、マルティナはユリウスを見上げた。
「……殿下。
この前、お話ししていましたでしょう?
“皆が困らない方法がある”って」
ユリウスは一瞬きょとんとし、それから思い出したように声を上げた。
「ああ、そうだったね」
そして、続けた。
「前から考えていたんだ。
君がアデルと結婚したらどうだ?」
リュシエンヌの扇子が、ぴたりと止まった。
「君の家は公爵家だし、
後継ぎにアデルを立てれば、丸く収まるだろう?」
「……なにを、急に……」
声が、わずかに震える。
思考が追いつかない。
怒りより先に、眩暈がした。
視線の端で、マルティナと目が合う。
その笑みが、ほんの一瞬だけ硬くなったように見えた。
王太子の周囲にいる新興貴族たちは、
さも名案だと言わんばかりに頷き、リュシエンヌの反応を待っている。
「え、あの近衛って……元平民でしょう?」
「釣り合わないのでは?」
「公爵家? 冗談でしょう……」
囁き声が、波のように押し寄せる。
見渡さなくても、わかる。
誰も、助けてくれない。
リュシエンヌの視界に、アデルが入った。
彼は固まったまま、
必死に視線で訴えている。
――断ってください。
「アデル……」
その瞬間、はっきりと思い出した。
自分を気遣い、
対等に扱い、
支え続けてくれたのは――この人だけだった。
リュシエンヌは、ゆっくりと息を吸う。
「……お受けします」
ざわめきが走る。
アデルの目が、大きく見開かれた。
「そうか、よかった。これで皆も安心するだろう」
ユリウスは安堵したように笑う。
リュシエンヌは、王太子をまっすぐ見据えた。
「ただし――」
扇子を、静かに畳む。
「わたくしが、嫁ぎます」
「……え?」
間の抜けた声が、ユリウスの口から漏れた。
新興貴族たちも、マルティナも、
笑顔のまま言葉を失っている。
アデルはしばらく彼女を見つめ、
やがて、静かに問いかけた。
「……本気ですか」
「本気よ。
……あなたは、嫌?」
一瞬の沈黙。
それから、アデルははっきりと首を振った。
「いいえ。
私には、過ぎた話です。
それでも――あなたが望むなら」
リュシエンヌは目を細め、
差し出されたその手を、迷いなく取った。
そのまま踵を返し、
夜会の喧騒を背にする。
残された人々は、
誰ひとりとして、二人を引き留められなかった。
◆
それからリュシエンヌは、王都を離れた。
実家のことは、すでに方がついていた。
「……お父様、あっさりだったわ。
『よく耐えたな』って。それだけ」
肩をすくめて言うと、アデルは少し困ったように笑った。
「ご立派なお父上ですね」
「ええ。だから、心配はいらないの」
アデルのもとに嫁ぎ、地方の小さな領地で暮らす。
華やかさはない。
「それがいいのよ」
紅茶を口に含みながら、リュシエンヌは笑った。
「夜会ばっかりで、正直しんどかったもの。もうこりごり」
隣で、アデルが読み終えた新聞を畳み、机の端に置く。
王都から届いたものだ。
リュシエンヌは、ちらりと見出しに目を走らせた。
『王太子ユリウス失脚』
回らなくなった公務。
噴き出した不正と失策。
詳細を読む気にはならなかった。
アデルが、静かにこちらを見る。
「……後悔は、ありませんか」
「あるわけないでしょう」
リュシエンヌはカップを持ち上げ、紅茶の香りを吸い込む。
「こうして、誰かと紅茶を味わえる。
それだけで、充分よ」
一拍置いて、顔を向ける。
「……あなたこそ。後悔はないの?」
アデルは一瞬考えるように黙り、
それから、口元を緩めた。
「いいえ。
むしろ――ようやく、ここだと思えました」
「そう……なら、よかった」
そう言って、リュシエンヌはふっと視線を逸らした。
アデルは、ほんの少し距離を縮めて座り直す。
気配に気づいて顔を上げると、
ちょうど、彼と目が合った。
「では……これからも。
隣にいてもよろしいでしょうか」
リュシエンヌは、はにかむように微笑み、
静かに頷いた。
私には、これで――充分だ。
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