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「静かなる観測者」

作者: 茶ヤマ

最寄り駅もなく、バスの本数もほとんどないところにある、小さな水族館。

週に一度だけ、その水族館へ足を運ぶようになったのは、ある日の奇妙な出会いがきっかけだった。


特別な展示があるわけでも、流行りのカフェが併設されているわけでもない。

平日の昼など、人影はほとんどない。


私はそこで「リク」と出会った。


ペンギンエリアの奥、他のペンギンたちが滑るように水中を泳ぎ、岩場を跳ねているその中で――


たった一羽だけ、微動だにせず、エリアの一角で、一点を見つめている個体がいた。


左の羽に深緑の腕輪をつけたそのペンギンは、周囲の動きにはまったく関心を示さず、時折、首をわずかに傾げては、何かを測るように視線をずらす。


それだけなのだが妙に気になった。


――「この子、何かを見ているのかな……」


口にしたつもりはなかった。

けれどその時、私の頭の中に、声が響いた。


――「そうじゃない、考えてるんだ」


まるで自分の思考が、そのまま他者の声として返ってきたような、奇妙な感覚だった。

あたりを見回しても誰もいない。

ただ、先ほどまで、一点を見つめていた個体が、まっすぐにこちらに目を向けていた。


……この子が、話しかけた…?


驚きつつ、そのペンギンに小さく手を振ってみると、興味を失ったように、ふいっと首を背け、また一点を見つめ始めた。


それが、「リク」との最初の「会話」だった。



◇◇◇◇◇



その時は、気のせいか何かだろうと思った。


ところが、次の週も、ペンギンエリアに行くと、左の羽に深緑の腕輪をつけたそのペンギンはある一点を見つめていた。


――「…やあペンギンくん」


試しに脳内で呼びかけてみる。


――「なんだいニンゲン」


即座に脳内に返事が来た。

と同時に、あのペンギンが真正面から私を見た。

金属質な光をたたえた小さな目が、すうっと深く沈んで、私を覗き込んでいるように感じた。


「…この声は、君なのね」

「ふぅん、聞こえてたのか」


ペンギンは、くっと首を傾けた。

耳ではなく、やはり脳の奥に言葉が浮かぶ。

誰かが私の中の思考を、そのまま返してきたような不思議な感覚だった。


「ニンゲンの娘、君は見る側かね?」


意味はわからなかったが、私は笑って答えた。


「多分、違うと思う。けど、君はどっちだと思う?」


返事はなかった。けれど、水槽越しの視線が、わずかに細められた気がした。

それが笑ったように見えたのは、気のせいかもしれない。


私はその日から、そのペンギンを勝手に「リク」と呼ぶことにした。



◇◇◇◇◇



次の週も、その次の週も。私はリクの前に通い続けた。

会話の「音」はなくても、リクの言葉は、たしかに私の思考に溶け込んできた。


「なあ、ニンゲンの娘、君は7日ごとにここへやってきては、我々を見ている。なぜだ?」

「そう言われてもねえ…見ていると、心が落ち着くから、かな」

「まったくわからないな」


彼は自らを「観測者」と呼び、この水族館のペンギンエリアが「調和振動の観測に向いていた」とも言った。


意味はさっぱり分からなかったけれど、リクは言葉を急がない。

むしろ、会話よりも思考の共有に近かった。


リクが視線を合わせると、奇妙な感覚になる。

起きていながら夢を見ているような。

床に立っているのに、もっと心もとない足場の悪いところにいるかのような。

瞬きの間に、その感覚はなくなるのだが、そんな奇妙な感覚を刹那の間だけ味わうのだ。


彼は私の記憶の奥に眠る夢の断片をのぞきこみ、私は彼の内側に渦巻く、遥か彼方の星の海を垣間見るような、そんな気分になった。


「君は私をリクと呼ぶが、なぜだ」

「何となく。頭にその単語が浮かんだから。ペンギンの「リク」、私の中で君は、他のペンギンと区別できる特別個体なの」

「ふぅん……」


リクは、どことなく満足気な声を発した。


「いいな、「リク」という名前。短くて、響きが可愛い」


私は「リク」の命名に少しだけ自信を持ったため、笑った。



◇◇◇◇◇



普段のリクは、あまりにも動かないので、水族館のスタッフに理由を聞いてみたが、そういう性格、かつ、結構な高齢だからじゃないだろうか、という返事しかこなかった。


ペンギンにも個体差はある。


よく動く子、物静かな子、たくさん食べる子。いたずらをする子。

リクは、ほとんど動かない子、という事なのだろう、と。


それが、私だけに言葉をかけてくるなんて、言えるわけもなく。


そうして何ヶ月かが過ぎたある日。


リクは、珍しくすいすいと水の中をせわしなく泳いでいた。

そうして言った。


「そろそろ還らなくちゃならない」

「還るって……どこへ?」


私は「還る」という言葉の意味がわからなかった。

ただ『水族館からいなくなる』のではなく、『この地上からいなくなる』――そんな含みがあることは、わかってしまった。


「リク、どこに還るの?」


もう一度の聞いてみたが、問いにすぐには答えはかえって来なかった。


首を傾げながら、一度だけまばたきのようにゆっくりと目を閉じた。

やがて、まるで“それは既に語られたことだ”と言わんばかりに、脳内に声が響いた。

いつもとはわずかばかり違う、どこか突き放すような声。


――観測対象は、あなたたちだった。

――あなたたちの感情と、可能性と、終焉を。


「あなたたち」――人間のことだろうか。


「可能性? 終焉……?」


リクは、それでも静かだった。水の底で、まるで小さな流れに身を任せているような姿勢。


「え?リク……?」


――この惑星には“観測者”が無数に送られている。

――すべて、記録と観測のため。あなたたちが、どこへ向かうのか。


「……私も、観測されたひとりだった?」


少し悲しくなって、そう尋ねた。


リクの視線が、まっすぐに私の心の中を見ていた。

水槽の中の水がゆっくりと動く。

そして、最後に、こんな風に告げた。


――正確に言えば、あなたは“観測された”というより、“観測に応えた”側だった。あなたが私に「リク」という名をくれて、私を特別だと言ってくれたように…私にとっても、あなたは特別だった…


その言葉の響きは、奇妙に、優しかった。



◇◇◇◇◇



その夜、夢を見た。


星の海に似た黒い空間で、何かが流れていく。

光の尾をひいて、静かに、遠くへと離れていく。


それはペンギンのような、でももう少し細長く。

そして、かのペンギンが水中を切って泳ぐかの如くの流れで、すぅっと消えていった。



◇◇◇◇◇



次の日。


いてもたってもいられず、私は予定を変更して水族館を訪れた。


ペンギンエリアに小さな表示板が立てられていた。


「高齢のフンボルトペンギン『なな』が、昨日未明、静かに息を引き取りました。

長い間、見守ってくださりありがとうございました。」


そこには、左の羽に深緑の腕輪をつけ、他のどのペンギンよりも、静かな瞳で何かを見つめていたあの子の、「リク」の写真が添えられていた。



私はしばらくの間、ペンギンエリアに立ち尽くしながら、ふと考えていた。


リクが言っていた「観測」とは、一体なんだったのだろう。


星の動きでも、生態系の変化でもないと、私は感じていた。


彼は、ほとんど動かずに、ただ一点を、じっと見ていた。

それは、決して派手な何かではなかった。

目に見えるようで、見えないもの。


後になって、リクの“観測”が、ある種の「任務」だったと気づいた。

何かの一環で、地球に送り込まれた存在だったのだと。


でも……。


そうと知っても、私はあの日々が冷めることはなかった。


むしろ、胸の奥にそっと置かれたあたたかい石のように、記憶は今も静かに熱を持っている。


観測されていたのは、きっと“私”の心の動きだった。


日々の小さな選択、誰にも言わない不安、

形にならないまま通り過ぎていく感情の“ゆらぎ”。


リクは、それをじっと見つめていた。

まるで、それがこの世界の真実であるかのように。


「任務」というには、あまりにも丁寧で、やさしくて、静かすぎて、祈りのようだった。


だから私は思う。


これはただの観測なんかじゃない。

リクにとっても、きっと何かを「託す」時間だったのではないかと。


私が、彼と過ごした時間を、忘れずに抱えていくこと。


それが彼の“報告”の一部になるのだとしたら――

私は、それでいい、と思えるのだ。


そして。


リクがいなくなった水槽の奥に感じる、微かな視線の余韻。

それは、リクが私に残してくれた、次の観測者への、静かな、言葉のないバトンなのだろうか。


リクは本当にいたのだ。


どこか遠くの、黒く静かな宇宙の向こうで、

今も私を、そしてこの世界を、見守っていてくれる。


それを思えるのは、あの一点を、今も誰かが見つめている気配が、この胸の中に、静かにしっかりと残っているからだ。



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