― ふたりの場所 ―
勇真は鳥居をくぐった瞬間、ひんやりとした空気が肌に触れた。高校一年生、夏の初めの陽射しは強いのに、この境内だけはどこか季節が遅れているようで、影が濃く、風がよく通る。大きなクスノキやイチョウの葉が風に揺れ、ざわざわと低い音を立てている。まるで枝そのものが息をしているみたいだった。
大きな木々の葉は、陽射しをやわらかく透かして揺れ、光はその隙間から細い帯になって地面へ落ちている。
その光の筋の中を、小さな埃の粒がふわふわと漂い、まるで時間そのものが静かに舞っているようだった。
昔、この場所で笑っていた頃と同じ光景だった。
石畳は午後の光を受けてうっすらと光をまとい、歩くたびに淡い影が足元に重なる。ところどころ苔が柔らかく広がっている。人の気配はほとんどなく、境内の隅にある手水舎の水は鏡のように澄み、風がそっと触れたときだけ、静かな輪が広がった。その音がやけに心に残る。
拝殿の屋根の端に吊るされた鈴が、風にほんのわずか触れただけで、かすかな音を転がす。誰かが鳴らしたのか、昔から変わらないその澄んだ響きが、胸の奥の懐かしい場所をそっと叩くようだった。
ここは、時間の流れがゆっくりになる場所だ。
石段の周りには、少し色づき始めた紫陽花が青や薄紫のままひっそりと咲いている。まだ咲ききっていない花房は控えめで、初夏の静けさとよく似合っていた。鳥の鳴き声も遠く、蝉の声だけが少し早く季節を知らせている。
その音は、胸の奥に眠っていた想い出をやさしく呼び起こし、幼い自分と誰かの笑い声が、どこか遠くからかすかに届くような錯覚さえ与えた。
懐かしさに触れた瞬間、どこか現実とは違う世界へ迷い込んだような、不思議な静けさと温かさがあった。
子どもの頃走り回っていた境内も、こうして立ち止まってみるとずいぶん広く感じる。
勇真は高校生活になじみ始めたこの頃、ふと部活の帰りに寄り道して、想い出の詰まるこの場所に足が向いていた。子どもの頃、よく凜と遊んだ場所。縄跳び、鬼ごっこ。
その静けさの中、石段の上に誰かが立っているのが見えた。白いシャツが光を受けてやわらかく浮かび上がり、祈るように手を合わせている姿が、境内の静けさにすっと溶け込んでいた。
時間がふっと、あの日の続きに戻った気がした。
「あれ?」
石段の上に、人影があった。白いシャツにローファー姿の少女が、手を合わせて目を閉じていた。少し伸びた前髪のすき間から見える横顔に、勇真の胸が、なぜか静かに鳴った。
「凜?」
その声に、凜は驚いたように振り返った。けれど目が合った瞬間、微笑みが浮かぶ。
「勇真」
「びっくりした。どうしたの、こんなとこで」
「お父さんの病院の付き添いで、今検査中。なんとなく、ここに来たくなった」
「そうなんだ」
風が吹いて、凜の髪が揺れる。 二人は、石段の端に腰を下ろす。
しばらくの沈黙。
蝉の声が遠くで鳴き始めていた。
「ここ、昔よく来たよな」
「鬼ごっことか、縄跳びとか、携帯ゲーム持ってきて、みんなで遊んでた」
「うん。覚えてるよ。ほら、勇真が転んでさ。膝を擦りむいて」
ふたりとも、少しだけ笑った。その笑顔の奥に、言葉にできない何かがあった。
「ほら、勇真が転んでさ。膝を擦りむいて」
凜がそう言って小さく笑うと、不思議と胸の奥があのときの痛みを思い出した。けれど、それ以上に強く残っているのは、泣きそうになっている自分の隣で、凜が必死に絆創膏を貼ってくれていた光景だった。
「ああ、あったな。なんか毎回のように転んでた気がする」
「うん。よく泣きそうになってた」
凜は昔を思い出すように目を細める。
「でも、泣くのを我慢してる顔、なんかかわいくて。ほら、わたしより背が低くて弟みたいに思ってたから、手当てしながら早くよくなれーって、勝手におまじないみたいな気持ちでいたんだよ」
そう言って、凜は自分の膝に視線を落とした。
風が通って、紫陽花の葉がさわさわと鳴る。境内の空気が、ふたりのまわりだけ少し違う時間を流し始めたようだった。
「変だよね。子どもながらに一生懸命でさ。怪我とか病気とかで困っている人を助けたい気持ちが出てきて」
そこで一度、凜は言葉を止める。長く息を吸い込み、吐き出すように続けた。
「わたし、あの頃いつも勇真の手当てしてて、それが理由かははっきりしないけど、今お医者さんになりたいって思ってるんだ」
「それは凜にぴったりだね。俺、ずっと神社来てなかったんだ。なんか、ちょっと、来づらくて」
あの日、読書ノートを勝手に見てしまったあの日から、何かが大きく変わった。
やめてと言われた時の、凜の顔。あんなに怒った凜、初めてだった。俺は、凜に嫌われた。だから、神社にも来なくなった。凜にも会いづらくなった。
でも、今、目の前にいる凜は、あの頃と変わらない笑顔を見せてくれた。
少しだけ、ホッとした。
「俺、また来ようかな。ここ」
「うん。わたしも、また来る。さくらちゃんにも会いたいし」
「さくら、『最近りんちゃん来ない』って寂しがってるよ」
「うん、じゃあちゃんと顔出さなきゃね」
ふたりは顔を見合わせて、少しだけ笑った。
その笑顔は、まだぎこちなくて、でも確かに、昔のふたりに戻るための、小さな一歩だった。
「じゃあ、そろそろ行くね。もうすぐお父さん検査が終わるから」
「うん。またな」
その場に残された鈴の音だけが、昔と変わらず境内に響いていた。
凜の日記 ―6月28日 晴れ―
今日、久しぶりに神社へ行った。
鳥居をくぐった瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。懐かしい匂い。鈴の音。風の音。全部、あの頃と変わっていないのに、私だけが変わってしまったみたいだった。
勇真が来なくなった理由は、私を避けていたんだと思う。
でも今日そこで、勇真に会った。
「また来ようかな」って言ってた時、心の中で何かが溶けて、胸がじんわりと熱くなった。
小学六年生、放課後の教室は、冬の光が斜めから差し込んで、机の影を長く伸ばしていた。
いつもなら誰よりも遅くまで残って、友達と校庭で遊んだりしたりしていたのに。
最近は、授業が終わるとすぐに帰ってしまう。
(どうしたんだろう)
そんなふうに軽く考えようとするのに、胸の奥に小さな棘のようなひっかかりが残る。
私、何かしたかな。その問いかけだけが、毎日少しずつ大きくなっていった。
ある日、下駄箱で勇真の姿を見つけた。
声をかけようとした瞬間、彼はぱっと顔をそらし、靴を履き替えるとそのまま走り出してしまった。
凜の伸ばした手を静かに降ろす。
驚きよりも先に、胸の中に冷たいものが広がった。
気のせいだと思いたかった。
たまたま急いでいただけだと。
でも、それからも勇真は同じように、凜の前からスッと逃げるように姿を消した。
ふたりの間に、理由の見えない距離ができ始めていた。
もう、私のことなんてどうでもいいのかな。そんなふうに思うたび、神社に来るのが怖くなってた。
あ~あ、何でこんなふうになっちゃったのかな。
さくらちゃんにも、また会いたいな。勇真にも。
あの神社で、また少しずつ、前みたいに戻れたらいいのにな。
私、やっぱりあの場所が好き。




