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星願未遂  -ふたりの長いものがたりー  作者: つくね
2. 遠ざかる距離

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― ふたりの場所 ―


 勇真は鳥居をくぐった瞬間、ひんやりとした空気が肌に触れた。高校一年生、夏の初めの陽射しは強いのに、この境内だけはどこか季節が遅れているようで、影が濃く、風がよく通る。大きなクスノキやイチョウの葉が風に揺れ、ざわざわと低い音を立てている。まるで枝そのものが息をしているみたいだった。

 大きな木々の葉は、陽射しをやわらかく透かして揺れ、光はその隙間から細い帯になって地面へ落ちている。

その光の筋の中を、小さな埃の粒がふわふわと漂い、まるで時間そのものが静かに舞っているようだった。

 昔、この場所で笑っていた頃と同じ光景だった。

 石畳は午後の光を受けてうっすらと光をまとい、歩くたびに淡い影が足元に重なる。ところどころ苔が柔らかく広がっている。人の気配はほとんどなく、境内の隅にある手水舎の水は鏡のように澄み、風がそっと触れたときだけ、静かな輪が広がった。その音がやけに心に残る。


 拝殿の屋根の端に吊るされた鈴が、風にほんのわずか触れただけで、かすかな音を転がす。誰かが鳴らしたのか、昔から変わらないその澄んだ響きが、胸の奥の懐かしい場所をそっと叩くようだった。

 ここは、時間の流れがゆっくりになる場所だ。

 石段の周りには、少し色づき始めた紫陽花が青や薄紫のままひっそりと咲いている。まだ咲ききっていない花房は控えめで、初夏の静けさとよく似合っていた。鳥の鳴き声も遠く、蝉の声だけが少し早く季節を知らせている。

 その音は、胸の奥に眠っていた想い出をやさしく呼び起こし、幼い自分と誰かの笑い声が、どこか遠くからかすかに届くような錯覚さえ与えた。

 懐かしさに触れた瞬間、どこか現実とは違う世界へ迷い込んだような、不思議な静けさと温かさがあった。

 子どもの頃走り回っていた境内も、こうして立ち止まってみるとずいぶん広く感じる。


 勇真は高校生活になじみ始めたこの頃、ふと部活の帰りに寄り道して、想い出の詰まるこの場所に足が向いていた。子どもの頃、よく凜と遊んだ場所。縄跳び、鬼ごっこ。

 その静けさの中、石段の上に誰かが立っているのが見えた。白いシャツが光を受けてやわらかく浮かび上がり、祈るように手を合わせている姿が、境内の静けさにすっと溶け込んでいた。

 時間がふっと、あの日の続きに戻った気がした。


「あれ?」

 石段の上に、人影があった。白いシャツにローファー姿の少女が、手を合わせて目を閉じていた。少し伸びた前髪のすき間から見える横顔に、勇真の胸が、なぜか静かに鳴った。

「凜?」

 その声に、凜は驚いたように振り返った。けれど目が合った瞬間、微笑みが浮かぶ。

「勇真」

「びっくりした。どうしたの、こんなとこで」

「お父さんの病院の付き添いで、今検査中。なんとなく、ここに来たくなった」

「そうなんだ」


 風が吹いて、凜の髪が揺れる。 二人は、石段の端に腰を下ろす。

 しばらくの沈黙。

 蝉の声が遠くで鳴き始めていた。

「ここ、昔よく来たよな」

「鬼ごっことか、縄跳びとか、携帯ゲーム持ってきて、みんなで遊んでた」

「うん。覚えてるよ。ほら、勇真が転んでさ。膝を擦りむいて」

 ふたりとも、少しだけ笑った。その笑顔の奥に、言葉にできない何かがあった。


「ほら、勇真が転んでさ。膝を擦りむいて」

 凜がそう言って小さく笑うと、不思議と胸の奥があのときの痛みを思い出した。けれど、それ以上に強く残っているのは、泣きそうになっている自分の隣で、凜が必死に絆創膏を貼ってくれていた光景だった。

「ああ、あったな。なんか毎回のように転んでた気がする」

「うん。よく泣きそうになってた」

 凜は昔を思い出すように目を細める。

「でも、泣くのを我慢してる顔、なんかかわいくて。ほら、わたしより背が低くて弟みたいに思ってたから、手当てしながら早くよくなれーって、勝手におまじないみたいな気持ちでいたんだよ」

 そう言って、凜は自分の膝に視線を落とした。

 風が通って、紫陽花の葉がさわさわと鳴る。境内の空気が、ふたりのまわりだけ少し違う時間を流し始めたようだった。

「変だよね。子どもながらに一生懸命でさ。怪我とか病気とかで困っている人を助けたい気持ちが出てきて」

 そこで一度、凜は言葉を止める。長く息を吸い込み、吐き出すように続けた。

「わたし、あの頃いつも勇真の手当てしてて、それが理由かははっきりしないけど、今お医者さんになりたいって思ってるんだ」

「それは凜にぴったりだね。俺、ずっと神社来てなかったんだ。なんか、ちょっと、来づらくて」

 あの日、読書ノートを勝手に見てしまったあの日から、何かが大きく変わった。

 やめてと言われた時の、凜の顔。あんなに怒った凜、初めてだった。俺は、凜に嫌われた。だから、神社にも来なくなった。凜にも会いづらくなった。

 でも、今、目の前にいる凜は、あの頃と変わらない笑顔を見せてくれた。


 少しだけ、ホッとした。

「俺、また来ようかな。ここ」

「うん。わたしも、また来る。さくらちゃんにも会いたいし」

「さくら、『最近りんちゃん来ない』って寂しがってるよ」

「うん、じゃあちゃんと顔出さなきゃね」


 ふたりは顔を見合わせて、少しだけ笑った。

 その笑顔は、まだぎこちなくて、でも確かに、昔のふたりに戻るための、小さな一歩だった。

「じゃあ、そろそろ行くね。もうすぐお父さん検査が終わるから」

「うん。またな」


 その場に残された鈴の音だけが、昔と変わらず境内に響いていた。




 凜の日記 ―6月28日 晴れ―

 今日、久しぶりに神社へ行った。

 鳥居をくぐった瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。懐かしい匂い。鈴の音。風の音。全部、あの頃と変わっていないのに、私だけが変わってしまったみたいだった。

 勇真が来なくなった理由は、私を避けていたんだと思う。

 でも今日そこで、勇真に会った。

「また来ようかな」って言ってた時、心の中で何かが溶けて、胸がじんわりと熱くなった。


 小学六年生、放課後の教室は、冬の光が斜めから差し込んで、机の影を長く伸ばしていた。

 いつもなら誰よりも遅くまで残って、友達と校庭で遊んだりしたりしていたのに。

 最近は、授業が終わるとすぐに帰ってしまう。

(どうしたんだろう)


 そんなふうに軽く考えようとするのに、胸の奥に小さな棘のようなひっかかりが残る。

 私、何かしたかな。その問いかけだけが、毎日少しずつ大きくなっていった。

 ある日、下駄箱で勇真の姿を見つけた。

 声をかけようとした瞬間、彼はぱっと顔をそらし、靴を履き替えるとそのまま走り出してしまった。

 凜の伸ばした手を静かに降ろす。

 驚きよりも先に、胸の中に冷たいものが広がった。

 気のせいだと思いたかった。

 たまたま急いでいただけだと。

 でも、それからも勇真は同じように、凜の前からスッと逃げるように姿を消した。

 ふたりの間に、理由の見えない距離ができ始めていた。


 もう、私のことなんてどうでもいいのかな。そんなふうに思うたび、神社に来るのが怖くなってた。

 あ~あ、何でこんなふうになっちゃったのかな。


 さくらちゃんにも、また会いたいな。勇真にも。

 あの神社で、また少しずつ、前みたいに戻れたらいいのにな。


 私、やっぱりあの場所が好き。


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