― 出発 ―
春の朝、駅の空気は少しだけ冷たく、けれど、どこか新しい季節の匂いがした。
東京行きの新幹線の改札前。発車時刻まで、あと少し。
凜のスーツケースのキャスターが、コンコースの床を静かに転がる音だけが響いていた。
「ねえ凜ちゃん、東京行ったらさ、ちゃんと朝ごはん食べてよね」 さくらが凜に腕を絡ませながら言う。
「この前も、コーヒーだけって言ってたじゃん。あれじゃダメだよ」
「うん、気をつける」
凜は笑いながら答える。
「あとね、さくらの高校の文化祭、絶対来てよ。お兄ちゃんも居るし、凜ちゃんがいないとつまんないから」
「うん、行けたら行くね」
「行けたらじゃなくて、来るの!」
さくらの言葉に、凜は少しだけ目を潤ませながら、頷いた。
「うん、わかった」
「それと私がステンドガラスで作ったオーナメント。これが凜ちゃんを見守ってくれるから」
「うん。ありがとう。」
父・優は少し照れくさそうに言った。
「困ったことがあったら、すぐ電話しろよ。まあ、勇真が先に気づくだろうけどな」
「お父さん、それ言うの何回目?」 陽子が苦笑する。
「だって、ほんとのことだろ」
凜は、家族の言葉をひとつひとつ胸に刻みながら、改札の前に立った。
沙耶が凜の手を取り一言囁く。
「迷ったら、帰ってきなさい、
でも、あなたなら、きっとがんばれる」
「私は大丈夫だから」凜は気丈に振舞った。
さくらは目を潤ませながらも、凜に向かって胸を張る。
「凜ちゃん、こっちは大丈夫だよ。おばさんは、さくらが守るから」 その言葉に、凜はふっと笑った。
みんなが声をかける中で勇真は、黙ったままだった――
口を開いたけれど、声にならなかった。
(行かないで、なんて言えない。
でも、行ってほしくない――)
「じゃあ、行ってくるね」
凜の声は、自らの不安をかき消すように勇真に声を掛けた。
(言わなきゃ。何か、ちゃんと……
頑張れとか、気をつけてとか、そんな言葉じゃ足りない
でも、それ以上の言葉が、出てこない)
凜は、今日勇真がこの様に落ち込んでしまう事を、あらかじめ想定していた。
「……勇真」
「勇真もこの故郷で頑張ってね!東京に着いたら連絡するから……」
「勇真と交換したペンダントがあるから、私は大丈夫!勇真だってそうでしよ」
とやさしく慰めるように言葉を掛けた。
いつもの穏やかな勇真。でも、その瞳の奥にある影が、胸を締めつける。
「私ね、ずっと周りに流されて生きてきたの。誰かの期待に応えることばかりで、自分がどんな人間になりたいかなんて、これまで考えたこともなかった」
「でも、あなたと一緒にいて、あなたの姿を見て、変わりたいって思ったの。あなたが、私を信じてくれたから。だから、決心が出来た」
凜の声が、胸に深く刺さる。何も言えない。言葉を探しても、喉が詰まって出てこない。
きっとどこかで孤独を感じるだろう。そんな自分が情けなくて、余計に言葉が出ない。
「ありがとう、勇真。私、頑張るから」
勇真はただ、凜の手を握る。その手に、自分の想いを込めるしかなかった。
勇真は息を吸い込んだ。胸が痛む。何度も言葉を探して、やっと絞り出す。
「……凜」
「俺だって、凜がいる事で成長出来た事がたくさんある。
凜が成長するために、凜らしくなるために、選んだ道だから……応援する。
いまさらだけど、凜に出会えた事に感謝しているよ」
その言葉に、凜の胸が熱くなる。愛も、信頼も、祈りも、全部が詰まっていた。
――やっぱり、この人は私を支えてくれる。
涙がこぼれそうになるのを必死にこらえ、笑顔でうなずく。
ホームに響くアナウンスが、彼女の決意を後押しするように聞こえた。
「みんなありがとう。ほんとに、ありがとう」
凜がみんなに会釈をし改札を通る 。その背中は、少しずつ遠ざかっていく。
凜は一歩、また一歩と進み、改札を通り抜けた。
(この故郷には、私のはじまりがある)
神社の鈴の音、図書室の静けさ―― そして、勇真の手のぬくもり。 それらすべてが、凜の中で「大事なもの」として根づいていた。
(でも、今の私は、それを胸にしまって、前に進まなきゃ。
振り返ったら、涙がこぼれてしまうから。
振り返ったら、またここに戻りたくなってしまうから)
エスカレーターを上がる凜の背中が、少しずつ小さくなっていく。
凜は振り返らない。
その姿が見えなくなるまで、勇真はじっと見つめていた。
「……行っちゃったね」 さくらがぽつりとつぶやく。
凜の姿はエスカレーターの向こうに消え、新幹線の発車ベルが鳴った。
望月家の面々はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて沙耶が静かに口を開いた。
「さあ、帰りましょうか。凜なら、きっと大丈夫よ」
その声は、母としての覚悟と信頼に満ちていた。
さくらは「お腹すいたー」と言いながら、沙耶の腕を取って歩き出す。
沙耶はさくらの手をぎゅっと握り返しながら、振り返らずに歩き出した。
けれど――勇真だけは、まだその場に立ち尽くしていた。
改札の向こうを見つめる目は、どこか空っぽで、言葉にならない感情が胸の奥で渦巻いていた。
(行っちゃったんだな)
「うん。でも」 勇真は胸元のペンダントをそっと握りしめた。
「あいつは、ちゃんと前に進んでいる。だから、俺も」
「勇真くん、帰るよ」 沙耶が振り返る。 その声に、勇真はようやく顔を上げた。
「……うん」
けれどその声は、どこか遠く、寂しさを隠しきれない響きを帯びていた。
沙耶はその表情を見て、何も言わずにそっと歩み寄り、勇真の肩に手を置いた。
「大丈夫。あなたなら、ちゃんと見守る事が出来るわ」
勇真は小さく頷き、もう一度改札の向こうを見つめた。
そこにはもう凜の姿はない。けれど、彼女が残していった想いは、確かにここにあった。




