― 自慢の兄 ―
梅雨の晴れ間、図書室の窓から差し込む光が、さくらの頬を淡く照らしていた。ページをめくる手が止まり、彼女は隣に座る紗希の顔をそっと見つめた。
「ほんとに、誰にも送ってないの?」
紗希はうつむいたまま、小さく頷いた。
「うん……スマホで撮った画像を見せただけ……でも、もう広まっちゃってる。あの模試の解答用紙に書いてあった画像を、誰かがSNSに載せたみたい」
さくらの胸の鼓動が高鳴った。
あの日、紗希が「ちょっと見つけちゃった」と言って見せてくれたスマホの画面。図書室のコピー機の横に置かれていた、教師用の模試解答プリント。それを、軽い気持ちで撮影し、同じように友達数人に話していた。
でも、今――それが退学処分の対象になろうとしていた。
(紗希が処罰される……)さくらは帰宅してからも、ずっとその事が頭から離れない。
さくらは胸に不安をかかえたまま玄関の扉を閉めた。靴を脱ぐ手も震えている。リビングの奥から、勇真の低い声が聞こえた。
「おかえり、さくら、今日は珍しく帰りが早いな」
勇真はソファに座り、仕事の資料を広げていた。夕陽がカーテン越しに差し込み、部屋を淡い橙色に染めている。
「お兄ちゃん、話があるの」
さくらは声を絞り出すように言った。
勇真は資料を閉じ、妹の顔を見つめる。その目に宿る緊張を見て、ただ事ではないと悟った。
「紗希が退学になるって、聞いたの」
「理由は?」勇真の眉がわずかに動く。
「図書室で紗希が答案用紙を見つけて、スマホで撮ったの。それを見せた別の子が拡散して、紗希が処罰されるなんて」
さくらは唇を噛み、涙をこらえながら続ける。「紗希は悪気なんてなかった。ただ、見つけてしまっただけなのに……」
勇真は深く息を吐き、しばらく黙った。教師としての冷静さと、兄としての感情が胸の中でせめぎ合っている。
「簡単じゃないな。」
勇真は低く言った。「校則違反は事実だ。でも、拡散したのは紗希じゃないんだろ?」
「そう!だから、紗希だけに全責任を負わせるのはおかしい!」
さくらは机に手をつき、必死に訴える。
勇真は立ち上がり、さくらの肩に手を置いた。「まず、事実を整理する。紗希がみんなに見せた状況の証言、拡散した子の名前が要る。感情だけじゃ学校は動かない」
「私、やる。紗希を守るためなら、何だって」
さくらの瞳に決意が宿る。
「俺も力になる」勇真はわずかに微笑んだ。
その夜、さくらは親友の芽依の部屋にいた。机の上には、芽依のスマホが置かれている。画面には、問題の答案用紙の画像が表示されていた。
「芽依、これ、いつ送られてきたの?」
さくらの声は低く、緊張を隠せない。
「昨日の放課後、紗希からじゃないよ。拓海から」
芽依は不安そうに答え、スマホをさくらに差し出した。
間違いなく拓海だ。5人ぐらいいる中でスマホ画面で解答用紙を見せてた。拓海が写真を撮ろうとしたんだけど、あわてて私が止めなって言ったの。
さくらは息を呑み、スマホを握りしめる。
翌日、さくらは拓海を呼び出した。人気のない体育館裏、冷たい風が吹き抜ける。
「拓海、話がある。」
さくらの声は鋭く、目は真っ直ぐ拓海を射抜いていた。
「何だよ、そんな怖い顔して。」
拓海は苦笑したが、その笑みはすぐに消えた。
「答案用紙の画像、拡散したのは拓海でしょ。芽依に送ったのも」
さくらはスマホを突きつける。送信履歴の証拠がそこにある。
拓海の顔色が変わる。「俺はただ、見せてもらっただけで」
「嘘つかないで!」
さくらの声が響く。「紗希は退学になろうとしてるのに、あなたは黙ってるつもり?」
勇真は職員室の前で立ち止まった。教職二年目としての立場ではあるが、妹のさくらから事情を聞いた以上、黙っているわけにはいかなかった。
ひと呼吸入れてから――
「失礼します」
教頭・三宅が書類に目を通していた。厳格で知られる人物だ。
「望月先生。何か?」
「はい。図書室での模試解答流出の件ですが、その用紙がそもそも生徒の目に触れる場所に置かれていたことが問題ではないでしょうか」
三宅は眉をひそめた。
「それでも、撮影したのは生徒です。退学は妥当な処分です」
「ですが、彼女は反省しています。拡散したのも本人ではありません。彼女に間違いを正す機会を与えるべきです。拡散した生徒も成長過程の未熟さが上にやってしまった、小さなつまづきです。」
勇真の言葉に、三宅はしばらく沈黙した。
「教職になったばかりの立場で、よくここまで言えましたね」
「教師として、守るべきものがあると思ったんです」
翌日、紗希たちは退学を免れ、保護者面談と反省文で処分が軽減された。
さくらは図書室の隅で、紗希と並んで座っていた。
「ほんとに、ありがとう。巻き込んじゃって、ごめんね」
さくらは首を振った。
「お兄ちゃんが助けてくれたんだよ。ほんとに、かっこよかった」
「さくらも助けてくれた。本当にありがとう」紗希は涙を浮かべそう言った。
教師としての第一歩。守ることの意味。
そして、誰かの想いを成し遂げるために、動く勇気。
窓の外には、夏に近づく星たちが静かに瞬き始めてていた。
【望月家のリビング】
テレビの音が小さく流れる中、望月家のリビングには、ゆったりとした時間が流れていた。母・陽子はキッチンで洗い物をしていて、さくらはこたつに入って、みかんを剥いていた。
勇真はソファに座り、教育実習の報告書を広げていた。ペンを走らせながら、ふと視線を上げると、さくらがじっとこちらを見ていた。
「なに?」
さくらは、みかんの皮を丸めながら、ぽつりと口を開いた。
「お兄ちゃんが、うちの学校に来てくれてほんとによかった」
勇真は一瞬、手を止めた。
「紗希のこと?」
さくらはこくりと頷いた。
「うん。あの時、私、どうしていいか分かんなくて……でも、お兄ちゃんが教頭先生のところまで話し合いに行ってくれて、すごく安心した」
勇真は少し照れくさそうに笑った。
「俺はただ、さくらが泣いてるのが嫌だっただけだよ。」
「ありがとう、かっこよかったよ。お兄ちゃんが先生になって、なんかちょっとだけ、自慢だった」
勇真はみかんを一房もらって、口に運んだ。
「お前、そんなこと言うと、俺は調子乗ってしまうよ」
「いいよ、乗っても。だって、ほんとに助けてくれたんだもん」
さくらは、こたつの中で膝を抱えながら、ぽつりと続けた。
「お兄ちゃんって、昔からそう。困ってる人がいたら、すぐ飛び込んでく。ばかみたいに」
「ばかって言うな!」
「でも、そういうとこ好きなんだよね」
勇真は、みかんの皮を丸めて、さくらの頭にぽんと乗せた。
「ありがとな」
さくらは笑いながら、みかんの皮を投げ返した。
その音に気づいた母・陽子がキッチンから顔を出す。
「こら、ゴミをそんな風に投げっこしない!」
ふたりは顔を見合わせて、くすくすと笑った。
その夜、望月家のリビングには、静かであたたかな笑い声が響いていた。
【駅前のカフェ】
「さくらの友達がね、退学になりかけたんだ」
勇真がぽつりと口を開いた。
「紗希って子。さくらが泣きながら俺に相談してきてさ。『紗希は悪い子じゃない』って、俺、教師としてどうすればいいか分からなくて、でも兄としては、助けたかった」
凜は静かに頷いた。
「それで、どうしたの?」
「職員室に行って、教頭に直談判した。教職になったばかりのくせにって言われたけど、先生の管理ミスもあったし、退学は重すぎるって。結局、簡単な処分で済んだ」
凜は、勇真の横顔を見つめた。
「すごいね。ちゃんと守ったんだね」
凜はそっと笑った。
「それ、まるで私のお父さんみたい。お父さんも時々生徒さんが問題を起こす度に、真実を突き止めて『この子達は何も悪くないんだ』って『まだ成長段階だから多少の間違いは起こすものだ』って、偉い先生のところに直談判に行ってたんだよ。生徒たちの事を親身になって、そして生徒の将来を思ってくれる人だった」
「透監督なら、どうしたかなって、その時に考えてた。俺、まだまだだけどあの人が信じてくれた俺でいたかった」
凜は、勇真の手にそっと自分の手を重ねた。
「ちゃんと、届いてるよ。あなたのまっすぐは、いつも誰かを救ってる」
勇真は、凜の手のぬくもりに、少しだけ目を細めた。
「俺、教師になってよかったかもしれない」
「ううん。教師になったからじゃない。あなたが勇真だから、誰かを守れるんだよ」
「ひとつも、飾った言葉なんか使わないし、不格好ですけどね!」
「おいっ!」
カフェを後にしたふたりの間に、心地よい風が吹き抜けていった。
だんだん学園ドラマみたいになってきてしまいました(汗)




