― 気づき ―
【医学部6年春/神社の石段】
凜が東京に行くまで、あと一年を切った。
それなのに、勇真はまだ答えを出せずにいた。
「東京に行く」という言葉を聞いてから、腹に大きな錘が入ったままだった。応援したい気持ちと、どうしようもない不安が、ずっとせめぎ合っていた。
「勇真、わたし、東京の研修病院に行くって決めたの」
凜の言葉は、静かだった。でもその静けさが、勇真の心を揺らした。
少し間を置いて、勇真は言った。
「またこの話か……地元にも病院はあるし、わざわざ遠くに行かなくてもいいだろ」
「凜がいなくなったら、学校であったことを誰に話せばいい?教育実習で生徒が変な質問してきたこととか、そういうの、全部凜に話してた。凜が隣にいるのが、当たり前だったんだよ」
その言葉に、凜は目を伏せることなく、静かに答えた。
「それでも、行きたいの。わたし、成長したいから」
「成長って、凜は今のままで十分だろ。優しいし、真面目だし、患者さんにもきっと好かれる」
「違うの。わたし、ずっと誰かに守られてばかりだった。お母さんにも、お父さんにも、勇真にも」
「東京の病院は、研修プログラムが充実してる。それで、若い研修医が多くて、切磋琢磨できる環境がある。わたし、そこで自律したい。誰かの傘の下じゃなくて、自分の力で」
「どうして?」
勇真は、石段に置いた手をぎゅっと握りしめた。
「凜が東京に行くって考えると、俺ひとり置いていかれる気がする」
「俺は、凜みたいに未来について考えることができないから。教職を目指したのも、透監督の背中を見ていいなって思ったからで。深く悩んだわけじゃない」
凜は、静かに言った。
「勇真は、選んでるよ。いつも、誰かのために。わたしのために」
勇真は、凜の言葉に目を伏せた。
「でも、俺は凜みたいに、未来を見据えて動けない。今しか見てない」
どうして、こんなにも話がかみ合わないんだろう。
勇真は、凜の言葉を聞きながら、ずっとその疑問を胸の奥で転がしていた。
凜が目指す凜とした女性――それは、誰かに頼らず、自分の意志で立ち、自分の選択に責任を持てる人。
幼い頃から誰かに守られてきた自分への挑戦。
「絆創膏を貼る女の子」から、「命を支える医者」になるための決意。
その姿は、自分の世界からは遠くて。 勇真には、どうしても理解できなかった。
勇真は、目の前の人を守るために、考えるより先に動く。
川に飛び込んだのも、凜を助けたのも、全部本能だった。
透監督みたいな教師になりたい――その気持ちだって、じっくりと考えたわけじゃない。
ただ、目の前にある温かさに惹かれて、直感で選んだだけだった。
だから―― 凜が「自分を変えたい」「自分の足で立ちたい」と言ったとき、勇真はそれを自分から離れていくように感じてしまった。
彼にとっての幸せは「隣に凜がいること」
凜にとっての幸せは「自分の意志で誰かを助けられること」
そのズレが、勇真には理解できなかった。
勇真は多忙を極める際中であっても、透のお参りを欠かさず続けていた。
日々の仕事に忙殺される中で、透の仏壇に話を聞いてもらいに――
勇真は手を合わせたあと、居間でお茶をいただいていた。ふと勇真は、仏間に飾られた若き日の透と沙耶の写真に目を留めた。
「これ、東京?」
写真には、大学のキャンパスらしき建物と、若い沙耶が文庫本を抱えて微笑んでいる姿が写っていた。
沙耶が隣に立ち、懐かしそうに頷いた。
「ええ。私、東京の大学で英文学を学んでいたの。シェイクスピアやブロンテ姉妹に夢中だった頃ね」
「透監督とは遠距離だったんですか?」
「そう。透は地元で教職を始めていて、私は東京で文学に浸っていたある日、彼が『距離を置こう』って言ったの。
『君の夢を邪魔したくない』そういったの。
それまでの透は週末はもちろん、時間を見つけるとすぐに新幹線で会いに来ていたの」
勇真は、思わず息を呑んだ。
「でも、おばさんは?」
「私は、透が邪魔なんて思ったこと、一度もなかった。でも、彼は不器用だったから。私が自分のペースで成長できるように、あえてそう考えてくれたのよ」
勇真は、凜の言葉を思い出していた。
「やっと自分の夢を選ぶ事ができた」と話した時の決意に満ちた眼差し。
誰かが、自分らしく生きられる場所を選ぶこと――それも、夢なんだと。
そして、勇真は思った。
(俺は、凜の隣にいたい。でもそれは、凜が自分らしくいられる場所でなきゃ意味がない)
その気づきが、勇真にとって凜を許すじゃなく、凜を応援するに変わる瞬間だった。




