― おせっかい ―
【教師二年目/新学期】
勇真は新学期になり、初めて一年生のクラス担任になっていた。
昼休み明けのチャイムが鳴り終わると、教室のざわめきが少しずつ静まった。勇真が教壇に立ち、柔らかな声で言った。
「みんな、ちょっと聞いてくれるかな。今日からこのクラスに新しい仲間が加わります。お父さんの仕事の都合でこの学校に転入になりました」
教室のドアが静かに開き、そこに立っていたのは、制服の袖をぎゅっと握りしめた少女だった。うつむきがちで、視線は床の一点に固定されている。
「坂田千遥さんです。物静かな性格で、打ち解けるのには時間が掛かるところがあるかも知れないけれど、優しい子です。みんな、あたたかく迎えてあげてくださいね」
勇真の言葉に、教室の空気が少しやわらいだ。千遥は先生の背中に隠れるように一歩前へ出るが、顔はまだ上げられない。
「坂田さん、ひとことだけ挨拶できるかな?」
しばらく沈黙が続いた。教室の空気が張り詰める。勇真先生は、彼女の肩にそっと手を置いた。
「無理しなくていいよ。ここは、君のペースで大丈夫だから」
その言葉に、千遥はほんの少しだけ顔を上げ、かすれた声で言った。
「坂田千遥です。よろしく……お願いします」
その声は、教室の隅まで届くほど大きくはなかったが、みんなには届いた。誰かが「よろしく」と優しく返すと、次々に「よろしくね」「待ってたよ」と声が続いた。
勇真は微笑みながら言った。
「ありがとう。千遥さんの席は、窓際の三列目。隣は、瑞希さん。いろいろ教えてあげてくれるかな?」
瑞希はにっこり笑って「うん、任せて」と答えた。
千遥は小さくうなずきながら席へ向かう。その背中に、勇真の声がそっと届いた。
「焦らなくていい。すぐにここが過ごしやすい場所になるからね」
転校してきたばかりの千遥は、昼休みになるといつも図書室にいた。話しかけられるのが苦手で、本の世界に逃げ込むように静かに過ごしていた。
クラスの男子はそんな彼女の壁を感じ、近づくことをしなかったが、孝範だけは、千遥に何度か「お昼を一緒に食べよう」と声をかけていた。でも千遥は目を合わせずに立ち去ってしまう。孝範は「嫌われてるんだ」と思い、次第に距離を置くようになった。
その姿は担任の勇真も目にしていた。
そんなある日、図書室の棚を整理していた勇真は、千遥の姿をふと見つめていた。彼女が静かにページをめくる様子に、心の奥が少し疼いた。
――高校時代、同じように図書室の隅で本を読んでいた凜。人見知りで、誰とも話さず、でも時折見せる小さな笑顔が記憶に残る。
そして、もうひとつの記憶がよみがえる。
「ここ、公式の使い方が違ってる。勇真は進級がやばいんでしょ、教えるよ」
二人は図書室の隅で並んで座り、凜が静かに説明し、勇真が何度も頷きながら問題を解いた。
試験結果はぎりぎり合格だったが、俺にとって何より大きかったのは「自分に関心を抱いてくれていた」ことだった。
今、千遥の姿に、あのときの凜が重なる。
勇真は、千遥の読んでいた本を手に取り、そっと言った。
「この本、孝範もよく読んでたよ。よかったら、感想をお話ししてみたら?」
千遥は驚いたように先生を見つめるが、何も言わずに本を受け取る。
翌日、図書室で隣同士になった二人。孝範が読んでいた本に千遥がふと目を留めて、「それ、続きが面白いよ」とぽつりと話しかける。
「あまり話しすぎるとネタバレになるけど、特に二人で旅行に行くところ」
孝範は驚いて「話しかけてくれたの、初めてだね」と言うと、千遥は少しうつむいて「ごめん。前に声かけてくれたとき、緊張して返せなかっただけ。無視したつもりはなかったの」と答える。
昼休みの図書室には、二人の静かな笑い声が少しずつ増えていった。そして、勇真のまなざしの中には、過去と現在がやさしく重なっていた。
春の夜、窓の外には風が吹いていた。勇真は職員室での仕事を終え、駅前のカフェの隅の席で凜と一緒に今日の出来事を話している。
「今日、ちょっと嬉しいことがあったんだ」
凜は振り返って微笑む。「また生徒に告白されたとか?」
「違う違う、今までそんな事一度もないし。えーっと図書室でね、転校してきた千遥って子が、クラスの男子と初めて話したんだ。ずっと誰とも話す事がなかったのに、ぽつりとこの本の続きが面白いよって」
凜は湯気の立つカップを差し出しながら、「それ、すごくいいね」と言った。
勇真はソファに腰を下ろし、紅茶をひと口飲んでから、少し遠くを見るようにして話し始めた。
「千遥の姿が、昔の凜に重なったんだ」
凜はカップを両手で包みながら、静かに頷いた。
「あの頃の私は、話すのが嫌だった。誰かに何かを伝えるのも、間違えるのも、自分を出すことが恥ずかしくて嫌だった。勇真には昔から知ってたからできたんだろうけど」
二人はしばらく黙って紅茶を飲んだ。その沈黙は、心地よく、あたたかかった。
「今日の千遥も、きっと話しかけるのが怖かったと思う。でも、孝範が『話しかけてくれて嬉しいって』言ったとき、彼女の顔が柔らかくなったんだ」
凜はそっと勇真の手に触れた。
「勇真の言葉、千遥ちゃんにも伝わってるよ。きっともっとみんなにも心を開いていくんだと思う」
勇真はその言葉に微笑んだ。
窓の外には、風に揺れる街路樹の影が映っていた。二人は静かに寄り添いながら、過去と現在がやさしく溶け合う時間を過ごした。




