― 誤解 ―
教室の片隅、窓際の席に座る隼人は、いつも通り無言だった。鋭い目つきと無表情な顔が、周囲に冷たい印象を与えていた。誰も彼に話しかけようとはしない。彼が何を考えているのか、誰も知らないし、知ろうともしなかった。
そんな隼人が、ある昼休みの人目の少ない時間、真帆の机に手を伸ばす姿を見た生徒たちは、息を呑んだ。
「まただよ、あいつ真帆の机から何か盗ってる」
「怖わー、先生に言ったほうがいいんじゃない?」
その噂はすぐに広まり、新任の勇真の耳にも届いた。
「真帆、ちょっといいかな?」
「何ですか?」
「最近、真帆の机から何かが無くなったっていう事はなかったかな」
「ううん、先生、そんな事何もないよ」
「あっ、そうか、それならいいんだ、ありがとう」
(何もないんだったら、それに越したことはないんだけどな)
「隼人、ちょっと職員室に来てくれるか」
隼人は、周囲からは「怖い」「近寄りがたい」「不良のひとり」と思われている。
職員室の午後は、窓から差し込む光が柔らかく、静けさに包まれていた。
勇真先生は、机の前に立つ隼人を見つめながら、ゆっくりと声をかけた。
「隼人。来てくれてありがとう」
呼び出された隼人は、無言のまま勇真の前に立った。問いかけにも、目を伏せたまま何も答えない。
「君が真帆さんの机から何かを持ち出しているという話があってね。心配している生徒もいる。だけど、僕は君が悪いことをしているとは思っていない」
隼人は反応しない。勇真はそれ以上押しつけず、静かに言葉を続けた。
「君は、いつも静かだけど、周りを気に掛けているように見える。話したくないこともあるだろう。けど理由があるのなら、それは、ちゃんと伝えたほうがいい。誤解は余計な推測に繋がるから」
沈黙――隼人はただ、拳を握りしめていた。
「僕も、昔は誤解されることが多かった。何も言わないでいると、勝手に決めつけられる。でも、言葉にするって、難しいよな」
隼人の肩が、ほんのわずかに動いた。
勇真は、温かい麦茶のペットボトルを取り出し、隼人の前に置いた。
隼人は、しばらく沈黙したまま麦茶を見つめていた。やがて、かすかに唇を動かした。
「俺が、真帆のスマホを……直してただけです……」
勇真は、驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだったんだね。ありがとう、話してくれて」
隼人は、まだ目を合わせようとはしなかったが、その肩には少しだけ緊張がほどけた気配があった。
「誤解は僕が解いておくよ。君が誰かのために動いたこと、それは立派なことだ。でも、次は、もう少し周りに話てもいいかもしれないね」
隼人は、ほんの一瞬だけ先生の顔を見た。そして、無言のまま小さく頷いた。
――数日前、真帆は教室で古びたスマホをいじっていた。画面がフリーズし、何度も再起動を試みるが、うまくいかない。家には修理に出したり買い替える余裕もない。ため息をついたその瞬間、隼人がそっと近づいてきた。
「俺が直してやるから、貸しな」
驚いた真帆は、少しだけ目を見開いたが、すぐに頷いた。
(うわっ、隼人だ……周りから怖がられている男子。私もあまり関わらないようにしていたけど、どうしよう……)
「すぐには直りそうにないから、俺が一晩預かってチャレンジしてみるわ」
「ありがとう」
「でも、俺と関わってるとあまりいい事もないから。バレないように机に戻しとくから」
それは、誰にも見られていないはずの、静かなやりとりだった。
隼人はそのスマホを持ち帰り、夜遅くまでネットで復旧方法を調べ、慎重に作業を行った。メモリーに貯めこまれ過ぎたデーターを処理し、画面が正常に動いたとき、彼は小さく息を吐いた。
翌日、教室がまだ静かな時間に、隼人は真帆の机にそっとスマホを戻した。
結局、この修理を2回ほど繰り返したが、それを「盗難」と誤解された。
隼人が盗みの疑いで職員室に呼ばれた話を聞いた真帆は、すぐに立ち上がった。勇真のもとへ向かい、静かに言った。
「隼人くんは、私のスマホを直してくれていただけです。誰にも言いたくなかったけど、誤解されるのは、嫌だから」
「聞いたよ、隼人から」
「隼人くんは私の家庭事情も分かってたみたいだけど、それをクラスのみんなに知られないように、内緒にしてくれての」と涙をこぼしながら勇真に伝えた――
勇真は校庭を見ながら、こうつぶやいた。
「隼人は不器用だけど、優しさを隠すのが上手いんだな」
その日、隼人と真帆は教室で目を合わせなかった。けれど、互いの机に置かれた小さなメモには、同じ言葉が書かれていた。
「ありがとう」
それは誰にも見られない、静かな絆の証だった。
夕暮れの風が、ふたりの髪をそっと揺らしていた。石段を並んで歩く凜と勇真。境内の鈴の音が遠くで鳴った。
「この前、学校でちょっとあってさ」
勇真がぽつりと話し始めた。
「隼人っていう生徒がいて、無口で、周りから怖がられてるタイプなんだけど、ある日女子の机から何か盗ってるって噂になって、職員室に呼んだんだ」
「盗難?」
「そう思われてた。でも、話してみたら、彼女のスマホを直してただけだった。家の事情が厳しくて修理に出せないって知ってて、夜中までネットで調べて、直して、次の日そっと机に戻してたんだ」
凜は目を細めて、静かに聞いていた。
「でも、誰にも言わなかった。彼女の事情も、直してたことも。誤解されても、黙ってた。不器用だけど、優しいやつだった」
「その子、勇真に似てるね」
「え?」
「勇真と同じで、困った人を放っとけなくて、直ぐに行動を起こした」
「その行動が、かえって彼女を傷つけるかもしれないと、それ以上の距離を縮めようとはしなかった」
「自分がどろぼう扱いされるかもしれないのに、先生にまで本当の事を言おうとしなかった」
「きっと、言わない覚悟を決めていたんだよ」
「昔の勇真。川で助けてくれたときも、いじめられてた私をかばってくれたときも、何も言わずにただ動いてくれた。あの時みたい」
勇真は少し照れたように笑った。
「俺、隼人に麦茶渡してさ。『自分の気持ちをちゃんと言葉で伝えたほうがいい』って言ったんだ。でも、俺自身は、凜にずっと言えなかったよな。あの時、自分の気持ちを」
凜はふと、首元のペンダントに指を添えた。
「そのスマホって、私たちのペンダントみたいだね。誰にも見えないところで、大事にされてた気持ちの証」
「うん。そうかもな」
ふたりは立ち止まり、神社の鳥居を見上げた。
「勇真、教師になってよかったね」
「めちゃめちゃ忙しいけど、そう思えるようになったよ。今は誰かの気持ちに、気づけるようになったかも知れない」
凜はそっと笑った。
「それって、すごく素敵なこと」
夕暮れの空に、ふたりの影が並んで伸びていた。




