― 小さな炎 ―
【大学4年 秋 静かなカフェ】
静かな雨音が窓ガラスを優しく叩いていた。
大学近くのカフェ、木のぬくもりが落ち着く小さな空間。
その席で、凜はコーヒーのカップを両手で包みながら、じっと勇真を見ていた。
この数週間、凜はレポートと実習に追われながらも、心のどこかでずっと引っかかっていたものがあった。
――勇真は、もう先生になろうとしている。いつも通りに自分の意志で前へ進もうとしている。
手帳に書き込んだスケジュールを眺めながら、凜は深く息を吐いた。
「はあ……」
勇真は教育実習を終え、教職課程のまとめに入っていた。最近では、高校での実習の話をしてくれるようになった。生徒と向き合う姿、教師としての責任。きらきらとしたまなざしで語る彼を見ていると、なぜか胸が苦しくなった。
「勇真は、もう自分の道を歩き始めたんだね」
そう言った凜の声は、どこか安堵と、そして少しだけ置いていかれるような寂しさを含んでいた。
「凜?」
勇真は眉をひそめる。
凜は静かに続けた。
「少し先の話なんだけど、わたし、医学部6年を卒業したら、東京の研修病院に行こうと思ってるの。研修プログラムが充実してて、若い研修医が多く居て、雰囲気がよさそうなところがあって」
カップの中をじっと見つめながら、凜の言葉は少しずつ、しかし確かに空気を震わせた。
「私が行っちゃったら家からも離れてるし、もうそんなに簡単に会えなっちゃうかも。そう思うと悩む」
勇真は口を開きかけて、少し黙り、深く息をついた。
その顔は、怒りでも悲しみでもなかった。
「まだ、時間もあるし、違う方法も考えてみたら?」
「ううん、今の私自分の名前みたいに、ちっとも凜としてない」
「いつも勇真やお母さんに頼ってばかり」
「こんなんじゃ、人を助ける医者になんかなれない」
「周りの人に、甘えてばかり」
(凜はそんなこと考えていたんだな。でも会えなくなるのは絶対に嫌だ)
(それと今日は、いつもと違う凜の決意みたいなものを感じた)
「俺は賛成できない。だって凜と離れ離れになるんだろ」
勇真は、凜の思いがまるっきり理解できなかった。
それは、勇真が本能的に動き出す思考とは、まったく逆の世界だったから――
雨が上がったあとの夕暮れの空は茜色に染まり、木々の葉が静かに色づき始めていた。
乾いた葉をさらさらと揺らしながら、どこか遠くから来たようなその風は、胸の奥にぽつりと寂しさを落としていった。




