― 後悔させない ―
大学4年の勇真は、高校数学の教育職員免許状取得のため、2週間の教育実習を受けていた。
実習先は、自分が通っていた地元の高校。懐かしい廊下、階段、体育館の匂い。
変わったものもあるけれど、変わらないものもあった。
そして何より、生徒たちの純粋な目は、あの頃の自分と重なって見えた。
放課後の教室。黒板には「微分積分まとめテスト」の文字が消し残っている。
生徒たちは次々に帰っていく中、一人だけ席に残る男子生徒がいた。
「おーい、帰らないのか?」
勇真が声をかけると、生徒――佐伯蒼汰が、そっと顔を上げた。
「あの、望月先生」
「ん?」
「相談、してもいいですか」
勇真は少し驚いたが、教卓の前まで来ると、笑って言った。
「おう、俺で良ければな」
教室の窓から、夕陽が差し込む。
蒼汰はカバンのファスナーをいじりながら、ぼそりと呟いた。
「……好きな子がいるんです」
「ほう」
勇真は思わずにやける。「いいね、青春してるな」
「でも、その子、隣のクラスの子で、時々廊下ですれ違ったり学食で会うだけなんです。話すこともあんまりなくて、でも、気づいたらずっと目で追ってて」
「なるほどな」
勇真は腕を組み、頷いた。「気持ちは分かる。俺もそんな感じだった」
「先生も?」
蒼汰は目を見開いた。
「幼馴染の子でさ。気づいたら、好きになってた。でも、何も言えなかったよ。ずっと、そばにいるのが当たり前すぎて、気持ちを伝えるタイミングを何度も逃して」
「でも、今なら分かる。想いって、相手にしっかり言わないと伝わらないんだよ。こちらから視線を送って、気づいてほしいとかじゃ、ぜんぜん伝わらない」
蒼汰は小さく頷いたが、不安そうにうつむいた。
「でも、自分なんかがあの子に似合うとは思えなくて」
「そんなの、自分で決めつけることじゃない」
勇真は笑って、生徒の肩をポンと叩いた。
「お前がその子を大切に思ってるなら、それだけで十分な事じゃないか?つり合いが取れないなんて考えていては行動できない」
勇真は少し間を置き、優しく続けた。
「誰かを好きになる気持ちって、それだけで尊いんだよ。届くかどうかより、ちゃんとその気持ちと向き合って行動できたかが大事だと思う」
蒼汰の目がわずかに潤んでいた。
「先生、俺、やってみようかな。今度話しかけてみる」
「うん、それがいい」
勇真はにっこりと微笑んだ。
「失敗したっていいんだ。好きって気持ちは、恥ずかしいことじゃない。逃げずに向き合ったお前なら、きっと後悔しない」
「ありがとうございます」
蒼汰は深く頭を下げ、帰っていった。
勇真は、生徒の背中を見送りながら――
ふと、自分自身の過去と重ねる。
(おれも時間がかかったけど、ようやく、向き合えたんだから)
夕陽が教室の床をオレンジ色に染めていた。
風が吹き抜け、どこかで風鈴が鳴る音がした。
あれから一週間、放課後の教室。
数学の補習が終わり、教室には夕暮れの柔らかな光が差し込んでいる。
黒板には今日の復習問題が残されていた。
勇真は教卓の横でプリントをまとめていた。
そのとき、トントンと控えめにドアをノックする音がした。
「失礼します」
顔をのぞかせたのは、蒼汰だった。
あれから一週間――どこか表情が晴れやかになった気がする。
「お、蒼汰。どうした? 補習はもう終わったぞ」
「いえ、先生に伝えたいことがあって」
勇真は手を止めて、彼の方を向いた。
「伝えたいこと?」
蒼汰は一度深呼吸し、そして――少し照れくさそうに笑った。
「俺、あの子と付き合うことになりました」
一瞬、時が止まったように感じた。
だがすぐ勇真の顔に、嬉しそうな驚きの笑みが浮かぶ。
「マジか。やったな、蒼汰!」
「はい。ちゃんと彼女に話しかけて。勇気いったけど、そのあと何度か友達も一緒に遊んだりして。そしたら、昨日向こうから言ってくれたんです」
「向こうから?」
「『蒼汰くんといると、落ち着くし、楽しい』って言われました」
蒼汰の顔が、ちょっと赤くなる。
だけどその目は、何よりも誇らしげだった。
「すごいじゃん。ちゃんと気持ちが伝わったんだな」
「先生が、あの日言ってくれたから、俺、行けたんです」
勇真は、少しだけ目を細めた。
自分の中の過去――あの、言えなかった気持ちと重なる想いが、少しずつ昇華されていくのを感じた。
「それはお前の力だよ。俺は背中をちょっと押しただけだ」
「でも、その一言がなかったら、きっと今も何も変わってなかった。だから、本当にありがとうございました」
蒼汰は深々と頭を下げる。
「よし、じゃあ記念になんか奢ろうか?」
勇真は冗談っぽく言って笑う。
「え、マジですか?」
「アイスくらいな。でも高いやつは禁止な」
「やったー! ハーゲンダッツ行けますかね」
「調子乗るな、コンビニ限定だ」
二人の笑い声が、夕暮れの教室に響く。
窓の外には、夏の気配。
風がふと吹き抜けて、カーテンがふわりと揺れた。
勇真はその横顔を見つめながら、心の中で呟く。
(そうだな。俺も、ちゃんと向き合わないとな)
想いを伝えることの意味。
それを知った一人の生徒の姿が、勇真にとっても大きな自信となった。
場所は、放課後の神社。
夏の終わりが近づき、空は少し高くなった気がした。
境内のベンチに並んで座る勇真と凜。
二人とも言葉少なだったけれど、沈黙が不思議と心地よかった。
「そういえばさ」
不意に、勇真が口を開いた。
「うん?」
凜が横を向くと、勇真は空を見上げたまま、少し笑っていた。
「この前話してた、生徒の話。片思いしてるって言ってたやつ」
「ああ、あの生徒さん?」
「そう。あいつな、付き合うことになったんだって」
「えっ! すごいじゃん!」
凜の目がぱっと輝く。
小さく両手を握りしめて、本気で嬉しそうに笑った。
「うん。自分から頑張って、話しかけて、距離縮めて。そしたら、告白は向こうからだったらしい」
「へぇ、きっとちゃんと想いが伝わったんだね」
「そうだな。あいつ、顔真っ赤にして報告に来たよ。『付き合うことになりました』って」
「かわいい」
凜がふふっと笑う。
勇真はその横顔を、少し見つめてから視線を外す。
「なんかさ、あいつを見てたら思ったんだ」
「うん?」
「俺と同じ後悔をさせないように、背中を押した」
凜は一瞬目を伏せたが、すぐに勇真を見つめ返した。
「でも、今の勇真は違うよね」
「結果的に、今そうなっただけ。凜と離れていた期間は後悔の連続だった。「『あの時に気づいていれば』とか、『ひとこと言っておけばよかった』とかの繰り返しを経験して、勇気をもって行動することの大切さがわかった。
俺ってばかだから、とっさの判断では動くけど、じっくと物事を考えて行動することが苦手だったから。その経験があったからこそ、蒼汰の背中を押せた」
少しだけの静寂。
でもその間に、確かに何かが変わっていく音がした気がした。
風が、木々の葉を揺らす。
凜は、そっと小さく呟いた。
「勇真にとってもすごく嬉しい経験だったね。その生徒さん、きっと勇真先生のことずっと覚えてると思う」
「なんで?」
「背中を押されて、大切な物が実った事は、力を貸してくれた人を慕うことになるから」
「それと、勇真はうちのお父さんの事を慕ってくれてたでしょう。お父さんも今の勇真みたいに、心が温まるような嬉しい思いをしていたんだと思うよ」
勇真はふっと息を吐いた。
そして、凜を見つめた。
さわやかな風がふたりの頬を撫でていった。




