― プロポーズ ―
午後の陽射しがやわらかく差し込む坂道を、勇真と凜は並んで歩いていた。秋を迎えるように、蝉の声が遠ざかっていく。
相原家の門をくぐるのは、勇真にとって久しぶりだった。
「緊張してる?」凜が小さく笑う。
「いや、別に。ただ、久しぶりだし、凜と付き合い始めてからは初めておばさんに会うし」
「そうだね、麗華ちゃんと付き合ってた頃は来なかったし」
「それを言うか?」
「ふふ、ごめん」
二人は顔を見合わせて小さく笑った。
「ただいまー」凜が玄関を開ける。
凜が先に玄関をくぐり、勇真が続く。家の中は静かで、ほんのりと懐かしい匂いがした。凜が高校生の頃、透と沙耶が笑いながら夕飯を楽しんでいたダイニングキッチン。その時の温もりが、今もそこに残っているようだった。
「はーい、あら」
出てきたのは、相原沙耶。深い色のワンピースに身を包んだその姿は、以前と変わらぬ優しさと、どこか静かな強さを感じさせた。
「勇真くん、来てくれたのね、ありがとう」
「ご無沙汰してます、おばさん、監督にお線香あげに来ました」
「うん、ありがとう。お父さんも、きっと喜ぶわ。さ、どうぞ上がって」
「こちらこそ、お邪魔してます」勇真が深く頭を下げると、沙耶は優しく微笑んだ。
「ふふ、もう『お邪魔します』なんて言う仲じゃないでしょう? 小さい頃なんて、勝手に冷蔵庫開けてたわよね、勇真くん」
「えっあ、はい、すみません」
「ううん、嬉しかったのよ。自分家の子供が増えたみたいでね」
仏間には、白い花が丁寧に飾られていた。写真立ての中で微笑む透の顔は、どこか厳しくも、やさしい。
勇真は正座し、ゆっくりと線香に火を灯した。
沙耶はゆっくり頷いたあと、ふと凜の方を見つめる。
「凜、あなた最近ようやく大声で笑うようになったのは、勇真くんのおかげなんでしょ」
凜は一瞬、視線を落とす。けれどすぐに顔を上げ、小さく微笑んだ。
「うんそう、勇真が、いるから」
沙耶は立ち上がり、仏壇の前に歩いて行くと、透の遺影に手を合わせ、目を閉じる。
「お父さん、あなたが信じたこの子は、今でもちゃんと凜を守ってくれてるわよ」
「本当に、ありがとうね。勇真くん」
その言葉に、勇真はまっすぐ沙耶を見つめ、頭を下げた。
「俺が、守ります。これからも、ちゃんと」
「えっ……こんなところでプロポーズ?」と凜は茶化す。
「そんな、恥ずかしい事言うなよな」勇真は顔を赤らめる。
「監督。俺、いま教職の勉強してます。まだまだ未熟ですけど、いつか監督のように人に何かを伝えられる人間になれたらってそう思ってます」
隣で、凜がそっと手を合わせる。
しばしの沈黙のあと、沙耶が静かに口を開いた。
「お父さんね、よく言ってたの。『凜の相手には、勇真くんみたいな子がいい』って。厳しいこと言う父親だったけど、あなたのことは、いつも褒めてた」
勇真は、思わず下を向いた。
「俺なんか、何もできてなかったです。監督には、最後まで認められた気がしてない」
沙耶は、ふっと微笑む。
「ううん。認めてたわよ。口には出さなかったけど、あの人、あなたの努力も、ちゃんと見てた。だから安心して、凜を頼めるって思ってたんじゃないかしら」
沙耶は、ゆっくり立ち上がると、奥の引き出しからひとつの箱を取り出した。上品な木箱。その中には、透の愛用していた手帳が入っていた。
「これは、あの人が最後まで持ってた手帳。あの後、出てきたの、あなたの事が、いくつかあったの。読んでみて」
勇真は手帳を開き、ぎゅっと喉を詰まらせた。
『望月勇真──努力の天才。天才とは、自分の限界を知り、なお越えようとする者だ』
『凜が本当に笑っていたのは、勇真といる時だけだった』
透は、勇真・凜・翔太たち3人の機微をしっかりと察していた。
文字は小さく、くせのある字だったが、そこには透の想いが確かに刻まれていた。
凜の目に、涙が溜まり始める。勇真は、手帳をしっかりと掴み、目を閉じた。
「俺、もう一度頑張ります。監督に、恥ずかしくないように」
沙耶は小さくうなずき、そっと部屋を出て行った。ふたりきりになった仏間。静かに、外で風鈴が鳴った。
凜が勇真の隣に座り直す。
「勇真、お父さんはあなたのこと、家族みたいに思ってたんだよ」
「うん。俺も、監督のこと父親みたいに思ってた」
夏の終わり。外は少しだけ風が涼しくなっていた。
二人の背後では、透の写真が、どこか微笑んでいるように見えた。
透の仏壇に手を合わせたあと、沙耶の「少しゆっくりしていってね」という言葉に甘え、勇真と凜は2階の部屋へと上がっていった。
ドアには一応「ノックしてね」の札がかかっている。
久しぶりに入る凜の部屋は、どこか柔らかく、そして柔らかい空気に包まれていた。高校時代の写真、机の上に積まれたノート、そして、窓辺に吊るされた小さな風鈴が揺れている。
部屋の中央に敷かれたラグの上に、お互い座って背中をもたれ合いながら話していた。
窓からは午後の陽が差し込み、カーテンが風に揺れた。お互いの温かさを背中で感じている幸せな時――
「変わってないな、ここ」
勇真がぽつりと呟くと、凜は少し照れたように笑う。
「そう? 大学入ってから、あんまり手つけてないだけかも」
しばらく、静かな時間が流れる。
「さっき、仏壇の前で言ってくれたこと。嬉しかった」
ぽつんと呟く。勇真はとなりで軽く頷いた。
凜が、向き合い身体を寄せた。二人の肩が、かすかに触れ合う。
凜はふっと笑って、ゆっくりと勇真の肩に頭を預けた。
「ねぇ、勇真は過去に戻れるなら、いつがいい?」
「私はね、ついさっきの時間。……勇真が、ちゃんと私に気持ちを伝えてくれた、今日に」
勇真の胸が、少し高鳴る。ふたりの間の距離は、まるで自然にそうなるべくしてなったように、縮まっていた。
「……凜」
「ん……?」
見つめ合うふたり。勇真の手が、そっと凜の頬に触れた。その指先の温もりに、凜の目がゆっくりと閉じられていく。
そして――
「お茶が入ったわよ〜」
階下から、沙耶の明るい声が響いた。
「……ッ!」
ビクッと身体を起こす凜。勇真も、寸前で慌てて距離をとる。
「な、なんてタイミング!」
凜が真っ赤な顔でつぶやき、勇真も耳まで赤く染めていた。ふたりとも、どちらからともなく立ち上がると、互いに視線を交わして、苦笑する。
「続きは、また今度、かな」
「うん」
ぎこちなくも、どこか甘酸っぱい余韻を残して、ふたりは階下へと降りていった。
階段の途中で、沙耶がにこやかな顔で待っていた。
「ふふっ。熱くなりすぎたら、お茶で冷ましてね?」
その意味深な一言に、凜も勇真も、真っ赤になっていた。
前にも書きましたが、二人の物語の一生を書くのもよいですが、サザエさんみたいにエンドレスで書くのも良いかな……と思いにふける秋のいりぐち……




