― 嬉しい活躍 ―
昼下がり。授業が終わり、勇真は一人駅前にある小さなカフェに腰を下ろしていた。お気に入りの窓際の席。外では風が少し冷たくなってきて、街路樹の葉がゆらめいている。
望月勇真は、コーヒー片手に席に着くと、買ったばかりのテニス雑誌をテーブルに置いた。ページをめくる指がふと止まる。
「あっ!!」
そこに載っていたのは、見慣れた顔だった。
桐島翔太。高校時代のライバル。努力家で、頭も良くて、テニスでは誰よりも強かった男、そして凜の元カレ――
《全日本学生テニス選手権大会・男子シングルス ベスト4 桐島翔太》
写真には、汗だくでラケットを掲げる翔太の姿。
「やっぱ、あいつすげぇな」
ページを閉じたとき、テーブルの向こう側から声がかかった。
「なに見てるの?」
凜だった。図書館の帰りに待ち合わせ。肩から本の入ったトートバッグをかけていた。
「ああ、ちょうど良かった。凜、これ見てみ」
そう言って雑誌を開いて彼女の前に差し出すと、凜は少し驚いた顔をして、その記事に目を落とした。
「翔太くん」
声に感情はなかった。でも、まぶたの奥に何か揺れるものがあった。
「ベスト4かすごいね。大学でもずっと頑張ってたんだね」
勇真は頷いた。
「高校の頃から、ずっと前を走ってた。でも、嬉しいよ、やっぱ。なんか、自分のことみたいにさ」
凜は静かに微笑んだ。
その笑みには、懐かしさと、少しの痛みが混じっていた。
「翔太くん、なにをやっても光ってる」
「うん。あいつはきっと、前に進み続ける。もう、俺たちの見えないところに行っちまう気がする。さらに上を目指すんだろうな」
「ちゃんと自分の目指す道を描いて、前進する人」
凜の声は優しく、でもどこか揺れていた。
「そうだな」
「そっか。翔太くん、頑張ってるんだね。私も負けてられないな」
「凜、無理はすんなよ。ちゃんと前を向けてるなら、それで十分だよ」
少しの沈黙が流れた。
雑誌のページには、翔太の勝利の笑顔と大きく掲げた サムズアップ が載っていた。
ふたりにとって、とても幸せなニュース、とても幸せな時間だった。
「なあ、凜」
「ん?」
「このあと、ちょっと付き合ってくれない?」
勇真はいつか凜と行こうと思っていた場所を頭に浮かべていた。友達の頑張りを祝福したい気持ちだった。
凜は顔を向ける。
「え、どこか行くの?」
「夜景、見に行かない?」
その言葉に、凜は一瞬ぽかんと目を見開き──
すぐに口元を緩めた。
「夜景?え、なにそれ、ムードあるねぇ?ひょっとして私に何かしようとしてない?」
「うるさいわ」
勇真はそっぽを向いて、少し耳が赤くなっていた。
その様子がおかしくて、凜はくすっと笑う。
「いや、ごめん、なんか勇真が夜景とかムードとか言い出すからさ。どうしたの急に?キャラ変?」
「別にいいだろ。たまには、そういうのも、してみたくなるっていうか……」
ぼそぼそとした口調。
「いつもなら、飯かゲーセン寄る?みたいな感じで終わるのに、今日は妙に気合が入っていない?
もしかして、がんばって考えてくれたの?」
「そうだけど?」
「翔太が頑張ってるの分かったから、気分が良かったんだよ。でも選択ミスだった?ムードとかよくわからないんだよ」
正直すぎる返答に、凜は思わず笑ってしまった。
だけど、それと同時に胸の奥があたたかくなる。
「そっじゃあ、せっかくだから、そのらしくない勇真に、ちゃんと付き合ってあげるよ」
「からかってんのか、褒めてんのか、どっちだよ」
「どっちも」
そう言って凜が笑うと、勇真は肩をすくめた。
ふたりのあいだに流れる空気は柔らかく、自然と歩幅が揃う。
帰り道、駅の灯りが見えてきても、まだふたりは「帰ろう」とは言わなかった。
凜と別れた夜、翔太は一人、公園のベンチで佇んでいた。
「ごめんね、翔太くん。わたしずっと、勇真を見てた」
その言葉は、翔太の胸に静かに沈んだ。怒りも、悔しさもなかった。ただ、彼女の瞳が嘘をついていないことだけが、痛かった。
(俺は、負けたんだな分かってたけど……絆ってやつに)
恋の勝負は、とうに決着がついていた。 凜の瞳が、誰を見ていたのか。 その答えは、ずっと前から知っていた。
「でも、俺は凜が好きだった」
誰もいない公園で、翔太はそう呟いた。 悔しさも、悲しさも、全部胸にしまって。 それでも、凜が自分に向けてくれた優しさは、本物だったと信じていた。
翌朝、翔太はすでにラケットを握り汗をかいていた。
「もう、誰かのためじゃない。俺のために、勝ちたい」
朝のランニング。夜の壁打ち。誰もいないコートで、ひとりサーブを打ち続けた。 「勝ちたい」——その気持ちは、もう誰かに見せるためではなかった。 ただ、自分自身に証明したかった。「俺は、俺のままで強くなれる」
翔太はこれまで以上に勉強とテニスに力を注いでいた。心の中の何かを振り払うように――
そして大学4年の夏。全日本学生テニス選手権大会——インカレ。
翔太は、ベスト8まで勝ち進んでいた。
準々決勝の相手は、昨年の優勝校のエース。 試合前、控室でラケットのグリップを巻き直しながら、翔太はふと空を見上げた。
(凜、見てるかな)
試合開始。 序盤は互角のラリー。翔太のバックハンドが冴え、相手のミスを誘う。 1セット目を6-4で先取。 2セット目、相手の猛攻に押されるも、粘りのプレーでタイブレークに持ち込む。
「ナイスラリー!」 観客席から声が飛ぶ。 その中に、どこか懐かしい声が混じっていた気がした。
最後のポイント。 翔太は、相手の鋭いクロスに食らいつき、フルスイングで逆クロスを打ち返す。 ラインぎりぎりに落ちたボール。 審判の声が響く。
「ゲーム、セット、マッチ!桐島翔太!」
勝った。 ラケットを高く掲げた瞬間、翔太は観客席を見上げた。 そこに凜の姿はなかった。 でも——
「よし、さらに次だ!!」翔太は、風の中でラケットを肩に担ぎ、コートをあとにした。
(凜、ありがとう。君がいたから、俺はここまで来られた)
その背中は、もう誰かの影を追ってはいなかった。
その時翔太の胸に、静かな風が吹いた気がした。それは、過去を手放す風。そして、未来へと向かう風だった。
読者のみなさん、ご期待のスナイパー登場のエピソードをそろそろ書きたいと思ってまする。




