― もう、離さない ―
【大学3秋 凜の自宅】
しとしとと、秋の雨が降っていた。
喪服に身を包んだ人々が、相原家の門をくぐっていく。
場所は四十九日の凜の家。望月家もお参りに来ていた。
望月家の面々も、静かにその門をくぐっていた。
勇真は、黒いネクタイを整えながら、ふと前を歩く母・陽子と妹・さくらの背中を見る。
さくらが珍しく緊張した面持ちで、無言のまま歩いていた。
室内に通されると、仏間には凜がいた。
黒のワンピースに白い襟を合わせた喪服姿。
眼差しは静かに、仏壇に向いていた。
頬が少しだけ痩け、表情も大人びて見えた。
けれど、その姿には、どこか少女のような儚さも残っていた。
勇真が部屋に入ると、凜は静かに立ち上がり、会釈をした。
二人の間に、言葉はなかった。
凜が一人、窓のそばに立ち、外を見ていた。
勇真が声をかけようとしたとき、凜が先に気づいた。
「……勇真」
何かに頼るように、縋り付くような声。
「うん」
「親戚の人たち、みんな帰ったよ。二階に来る?」
彼女は親戚へのご挨拶を一通り終え、安堵の声。その声は、少しだけ掠れていた。
勇真は黙って頷く。
足音を立てないように、ふたりで階段を上がっていく。
そこは、小学生の頃一緒に遊んで以来、久しぶりに入る凜の部屋だった。
本棚には小説や文庫本がずらりと並び、デスクには透の写真。若い頃、家族旅行で撮ったものらしく、笑顔の透と幼い凜が写っていた。
「この写真ね、お父さんが大事にしてたの」
勇真は言葉をさがしながら、ゆっくりと話し始めた。
「監督はテニス部では厳しかったけど、校門を出ると親の様に接してくれてたんだ」勇真はしんみりと話した。
「そうだったんだね。勇真の事、信頼してた」
ふと勇真の目に入ったのは、凜のベッドの枕元に置かれたペンダントだった。
「これって……」
勇真はそれを視界に収めてはいた、頭の整理が付かなかった。
「勇真が川で助けてくれたあと、お礼にあげたの、覚えてる?
勇真へお礼にプレゼントした後、お母さんが同じ物を買ってくれたの。
私の宝物……
安物みたいだけど一番の宝物。最近はずっと肌身離さず身に付けてる」
「えっ……知らなかった……」
勇真は自分と同じペンダントを、凜の宝物だと聞き、すべてを理解した。
そして、凜の手を取りきつく握った。
凜は、なんの迷いもなく、昔から待ち続けていたその手を握り返した。
ポツリと言った――
「俺もこの頃、監督の無事を祈って、このペンダントをずっと着けていたんだ。あの時、願いが叶うって言ってただろう」
凜は自分が大事にしている物と同じ物を勇真が着けている姿に、驚きを隠せなかった。かつて勇真に渡したものの、もう忘れ去られていた物だと思っていた――
勇真は自分でも理解できない感情が、胸の中に飛び込んできた。
(今のままじゃ、凜はまた、冷たい川に流されてしまう
俺はもう一度、川へ飛び込む。
そして、この暖かくて、優しい手を……掴みに行く)
カーテンの隙間から漏れる光が、午後の終わりを告げていた。
部屋の空気にはまだ、四十九日を終えたばかりの静けさが残っている。
「凜、今から神社に行こう」
その瞳の奥に、一瞬だけ揺れる迷いがあった。けれど、それはすぐに、やわらかな頷きへと変わる。
「うん」
それだけ言って、ふたりは並んで玄関へ向かった。
扉を開けると、秋の風がふわりと吹き抜けた。どこか懐かしい匂いがした。
並木道を歩く足音が、静かな住宅街に溶けていく。
言葉はなくても、不思議と居心地の悪さはなかった。
自然と手を繋ぐ。
子供の頃に手を繋いだ感触とは、全く異なる温もりを二人は感じていた。
ふと、凜が足を止め、顔を上げた。
枝の先に残る色づいた葉が、ひとひら風に乗って舞い落ちる。
「もうすぐ、冬が来るね」
勇真はその言葉に、小さく頷く。
神社が見えてきた。
朱塗りの鳥居は、夕陽に染まり、どこか幻想的な気配を纏っていた。
境内には誰の姿もなく、鈴の音だけがかすかに響いている。
勇真と凜は、並んで石段を上がる。
一歩ずつ。
やがて拝殿の前に立つと、ふたりは同時に手を合わせた。
祈るというよりは、心の中で確かめるように――静かに、目を閉じた。
勇真は拝んだ手をそっと下ろし、凜を見た。
凜のまつ毛がわずかに揺れていた。目を開けると、涙の痕があった。
勇真は、静かに凜の手を取った。
(大人になった凜、ずっと心の中で追い続けた凜、手を伸ばそうとしても届かなかった。
思ってたより背が低いんだ、こんなに腕が細いんだ、こんなに睫毛が長かったんだ、こんなにも優しい香り。ずっと知らなかった……)
「ありがとう、一緒に来てくれて」
凜は首を横に振り、少しだけ笑った。
(やっと勇真の隣まで来られた、これまでどれだけこの場所を待ち望んだんだろう。
私を救ってくれた大きな手、全てを預けられる大きな手)
「勇真と一緒だから……」
そう呟いた声は、風に消えそうなくらい小さかった。
やっと手にした大切な物を、自分の胸に強く押し当てるような想いが溢れた。
夕焼けが境内を染める中、勇真は凜の手を強く握り返した。
神社の境内には、秋の装いイチョウの葉がきれいに色づいていた。
風がふと吹き抜けて、揺れる木の葉が鈴を鳴らした。
カラン、コロン。
「勇真とこうして、手を繋ぐの、小学生の時以来だね」
「うん」
「ねえ、覚えてる? 小学四年のとき、助けてくれたこと」
「うん。俺は流されたけどな」
「でもあのとき、私を掴まえてくれた手は、大きかったの。大きくて、温かくて、怖くなかった。私の人生の中でいちばんの大切な想い出なの」
凜はそう言って、ふっと笑った。
「で、そのあとできたんだよね。勇真のね」
凜は勇真の頭を指さした。
「十円ハゲか?」
「そう、それ」
凜がいたずらっぽく笑う。
勇真は軽く後頭部をかいて、わざとらしく見せるように前かがみになった。
「まだちょっと跡、残ってる。ほら」
「うん。やっぱり、勇真のとなりにいるのが、一番安心する。いつも私を守ってくれる人……」
凜の声は、小さく、それでいてどこか決意に満ちていた。
勇真はふいに目をそらし、空を見上げた。
「もう、気づいたでしょ?私の気持ち、いくら鈍感なあなたでも」
凜の言葉に、勇真はゆっくりと頷いた。
そう言って、勇真はペンダントを凜の両手に並べ、ふたつの星が揺れた。
そしてふたりは、長い空白を埋めるように口づけを交わした。
風の音、鈴の音、秋の香り
勇真はゆっくりと凜の涙を指でぬぐった。
「昔は俺が転んだら、凜が絆創膏を貼ってくれたよな」
「うん」
「次は俺が、凜の涙を拭いてやる番だな」
凜は、笑って、泣いた。
「ずっと、言えなかった。
ずっと、そばにいたのに。
ずっと、気づいてほしかった。」
「凜」
「なに?」
「これからはずっと、俺のとなりにいてくれる?」
凜はゆっくりと頷いた。
「勇真が気づいてなかっただけで、私はいつも勇真のとなりにいたんだよ」
「ほんとだ。思い返せば……」
「いつもとなりに凜がいた」
「これからもずっとわたしはとなりにいるよ」
鈴の音が、優しく鳴り響いた。
勇真は微笑んで、静かに凜の両手を包み込んだ。
「おれ……もう二度と、この手を離さない」
凜が、涙を浮かべながら小さくうなずく。
二人は手を繋いだまま、静かに、長い時間を経過して、ようやく繋がったお互いの想いを重ねた。
ここまでの状況にならないと、告白できない勇真……
ちょっと引っ張りすぎたかなと、思い直している筆者です……




