― お別れ ―
【大学3年秋】
秋の終わり。冬の冷たい風が吹き抜け始めた頃。
凜の父・透の容態は急激に悪化していた。
勇真の父・優から救急治療室に運ばれた連絡を受けた勇真は、立ち寄った病院のロビーで、透のことを心配する凜の姿を見つけた。
「大丈夫か?」
勇真の声に凜は驚き、一瞬だけ微笑んだ。
「うん、ありがとう。お父さん、頑張ってる」
二人は病室の前でしばらく言葉を交わし、やがて一緒に神社へ向かう。
静かな神社。
風が木々の葉を揺らしていた。
二人は手を合わせた。
「神様、お願いです。お父さんを助けてください」
凜の声は震えていた。
勇真は凜の肩をそっと抱いた。
「俺も祈ってる」
その時、同じ思いの二人の間に確かな絆が生まれたような気がした。
だが数分後、病院からの連絡が届いた。
「透様が急変されました。すぐに来てください」
凜は拳を握りしめ、勇真がとなりで支えた――が、しかし――
【葬儀の日】
静かに降り注ぐ秋の陽射しの中、
焼香の列が途切れたあとの、空白の時間。
式場には線香の匂いが重く漂い、静けさが満ちていた。
泣き崩れ、立つことすらままならない憔悴しきった凜の姿があった。視線の先に、何が映っていたのかは、もう本人にも分からなかった。
目の前の遺影。微笑む父の顔。
気を抜けば、泣き崩れてしまう。
そんな一本の糸の上に、どこかへ落ちてしまいそうな彼女の心は乗っていた。
手に握りしめていたのは、父の使っていたテニスキャップ。最後まで病室に置いていたもの。どこか汗と日差しの匂いが残っていて、それだけがまだ「お父さんが生きていた証」のようで手放せなかった。
「お父さん……」
やっと出た声は、空気に溶けていくように小さかった。となりにいた母・沙耶が、そっと凜の背中に手を添えた。
遠くに、勇真の姿が見えた。でも今は、彼の顔を直視することさえできなかった。
もし目が合ってしまったら、崩れてしまいそうだった。
「お父さん、わたし、まだありがとうも言えてなかったのに」
でも、もう叶わない。
その涙のすべてに、父への想いと、言葉にならなかった「ありがとう」が込められていた。
【葬儀の翌日】
透の親友・優はひとり仏壇に手を合わせたあと、遺影に向かって言った。
「透……あいつ、泣いてたぞ。お前がいなくなって、一番泣いてたのは凜だった」
「でもな、あいつの涙を、ちゃんと拭ったのは、俺の息子だったよ」
静かな優の横顔は、親友を失った痛みと、父親としての誇らしさが入り混じっていた。
【葬儀の数日後 午後の静かな居間にて】
凜は母・沙耶と並んで座っていた。
カーテン越しの陽射しが、わずかに部屋を照らしている。仏間にはまだ、父・透の遺影と花の香りがしていた。
凜は父の仏壇の前に座ったまま、手を合わせていた。
無言のまま、しばらくの沈黙が流れた。
「あの人、花の匂いが好きだったのよね。特に白い百合」
沙耶が、湯呑みを二つ手にして、凜のとなりに腰を下ろした。
「覚えてる? 小さい頃、お父さんが凜に、百合みたいにまっすぐ育てって言ってたの」
「うん、覚えてる。何回も言われたから」
凜が小さく笑う。けれどその表情は、淋しげだった。
沙耶は湯呑みを渡しながら、ふと、目線を仏壇から凜へと向ける。
ふと、何か思い出したように目を開き、穏やかな声で凜に話しかけた。
「ねえ、凜」
「なに?」
「お父さん、よく言ってたの」
凜は少し顔を上げて母を見た。
沙耶は、どこか懐かしむような笑みを浮かべて、続けた。
「凜のパートナーには、勇真くんがお似合いだって……何度もね。何気ない時に、ぽろっと」
凜の目がわずかに見開かれた。
沙耶は微笑みながら、目線を少し天井に向ける。
「小さい頃からずっと見てきたのよ。あなたが勇真くんといる時の、あの素の笑顔。誰かと話してるときとは、まるで違った……」
凜は何も言えなかった。
ただ、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚がして、指先が少し震えた。
「お父さんね、病室であなたのことを心配しながらも、安心もしてたの。
あの子には、きっと勇真君がそばにいてくれるから、大丈夫だって……」
そこまで言って、沙耶はふと表情を崩した。
そして、凜の肩に手をそっと添えて、静かにこう言った。
「ちゃんと見てたのよ。あなたの心がどこを向いていたか、ね」
凜の頬を、涙がすっと一筋流れ落ちた。
何も言葉が出なかった。ただ、黙って沙耶の手を握り返した。
仏間の奥で、風が鈴の音を運んできた。
あの日々が、胸の奥で静かに揺れ始める。
「最近になっても、勇真くんといる時の凜は、本当に笑顔が輝いていたのよ」
また、凜の涙があふれた。




