― 想い出の埠頭へ ―
【凜 埠頭】
海辺は、どこまでも静かだった。聞こえるのは、時折遠くで鳴るカモメの声と、コツ、コツ、と歩く自分の足音だけ。
子供の頃、勇真の家族と来た水族館の近く。
凜は、ひとり埠頭の先端まで歩いた。
潮の香りが胸にしみる。
春の海はやさしい色をしているのに、こんなにも胸が苦しい。
埠頭の先端、手すりの所まで来て首からチェーンを外す。
風が吹く。
チェーンがカチャッと鳴る。
指先に巻きつけるようにして、凜はぎゅっと握りしめた。
(もう、全て終わりにする)
何度、そう思っただろう。
過去にしがみついても、何も変わらない。
勇真への想いを引きずっている限り、これからの誰にも、まっすぐ向き合えない。
だから、手放すんだ。
このペンダントと、あの夏の日と。
勇真のことも。
きつく包み込んだ手を、胸に強く押し当てて……
目を閉じて……
想い出をかみしめるように。
そして……
凜は手すりの向こうへ、そっと腕を伸ばした。
その先には暗闇のように見える海。
太陽が反射して、波間が鈍く光っていた。
右手にぶらさがる星が、きらりと光を返す。
「今まで、ありがとう」
やさしく包んだ手を、放そうとしたその時……
「カチャ」
チェーンが風に揺れて、小さな金属音を立てた。
凜の指が、何かを感じ震えた。
たったそれだけの音に、全身が止まる。
放せない。
指が……離せない。
自分の手が、自分の意思に逆らう。
何度も覚悟したはずだった。
もう引きずらないって。
もう過去を終わらせるって。
それなのに。
ペンダントが、手のひらにすがりついてくるようだった。
「忘れられないんだよ、今も」小さく、でも確かな声。
「ばかみたい、私」
ポツリと漏れた声は、風に流れて消えた。
「決心したのに、手放すこともできないなんて」
目に浮かんだ涙が、ペンダントの星にひとしずく落ちる。
情けなかった。
悔しかった。
弱い。
中途半端。
言い訳ばかり。
好きだと言う勇気もなかった。
ずっと、心の中で誰かを想いながら、何もできずに立ち止まってきた。
「こんな自分、最低だ」
でも、それが今の自分だった。
勇真に素直になれなかったこと。
翔太の優しさに甘えてしまったこと。
全部、自分の弱さだ。
綺麗ごとも強がりも、何の意味もない。
凜はゆっくりペンダントを胸元に引き寄せ、両手に包み込んだ。
そしてそっと、顔を伏せた。
「まだ忘れられないんだよ……」
それが、どうしようもない答えだった。
「やっぱり私にはできなかった」
両手に包み込んで胸に当てた凜は、海に背を向けた。小さな思いと、大きな未練を胸に抱えながら。彼女の背後で、波が静かに打ち寄せていた。
星は、海には落とされなかった。
まだ、終わらせることはできなかった。
【夜のバス、車窓に映る自分】
バスの座席に身を沈めた凜は、そっと背中を丸めた。
海沿いの道を進むバスは、外の街灯や信号の光を、断続的に窓に映していく。
時おり、車体が揺れるたびに、凜の肩もわずかに震えた。
膝の上には、小さく握りしめた手。
その中には、手放せなかった星のペンダント。
「ばかみたい」
誰に向けた言葉でもない。
自分でも聞き取れないほど、小さく、苦く、呟いた。
車内には数人の乗客。
高校生くらいのカップルが後方で笑い声を立て、前の方には年配の夫婦が並んで座っている。
(泣くなんて、ほんとカッコ悪いよね。みんながいるのに)
そう思ったのに、涙は静かにあふれてくる。
拭うタイミングを探して、凜は顔を上げることもできない。
少し斜め前の席にいた大学生らしいの女性が、ちらっと視線を向けたのがわかった。
凜は、カバンからハンカチを取り出すふりをして、そっと目元を押さえた。
けれど、こぼれる嗚咽が抑えられない。唇をかみ、息を吸い、またこらえる。
(でも、もうダメだった。どうしようもなく、どうしようもなく、苦しかった)
自分の心の深いところに在る物に、今さら気づいてしまう。
それが、余計に涙を止めてくれなかった。
車内のざわめきの中、通路を挟んだ反対の座席から小さな影が近づいてくる。幼い女の子が、両手で大事そうに何かを包み込んでいた。
「ころんじゃったの?おねえちゃん。これあげる」
差し出された掌の上には、四枚の葉を広げたクローバー。まだ摘みたてのように瑞々しく、街灯の光を受けて淡く輝いている。
麗華は驚いて顔を上げる。涙に濡れた瞳に映る少女の笑顔は、無邪気で温かかった。
「どうしてわたしに?」
かすれた声で問いかけると、少女は少し考えるように首を傾げてから、答えた。
「これね、みつけたら、げんきになるんだって。だからおねえちゃんにあげるから、なかないで」
その言葉は、胸の奥に静かに落ちていった。麗華はクローバーを受け取り、指先でそっと撫でる。小さな葉の感触が、冷え切った心に微かな温もりを灯す。
「うんわかった、お姉ちゃんもう泣かないから。ありがとうね」
「うん、じゃあね」少女は笑顔で待つおかあさんのところへ戻っていった。
凜の涙は少しずつ止まり、代わりに頬に浮かんだのは、ほんのわずかな笑みだった。
(そうね、もう自分の本当の気持ちに嘘はつかない。ペンダントが捨てられないのが私の本当の気持ちだったんだ)
バスは停留所に近づき、ゆっくりと速度を落とした。
外の街灯が窓を流れていき、やがて停止した。
凜はゆっくりと足を踏み出す。さっきまで胸を締めつけていた重さが、ほんの少しだけ軽くなっているのを感じた。
「これ、元気が出るから」
少女の言葉を思い返すたび、涙の跡が乾いていくようだった。
街灯に照らされた歩道を進みながら、凜は深く息を吸い込む。夜の空気は澄んでいて、どこか新しい始まりを告げているように思えた。
これまで周りの人たちの行動に流されてきた凜でしたが、初めて自分の意志で、翔太と別れるための行動を起こしました。けれどペンダントを捨てる意志は挫折してしまいました。
ここでペンダントを海に投げていたら、この小説も終わってしまいますが……(汗)




