― 負けを認めた日 ―
雨が降った後の公園。まだ地面は少し濡れていて、夕日が雲の隙間からのぞいていた。
翔太は何かを感じ取っていた。言葉にする前から、凜の目が何かを訴えているのがわかった。
「ねえ、翔太くん。私どうしても翔太くんに大事な話があるの」
凜が意を決して静かに口を開く。
その声は、少し震えていた。
「わたし、ずっとずっと、勇真のことを幼馴染って言い聞かせてきたの。小さいころから一緒で、頼りなくて、ばかで、でもいつもそこにいた」
翔太は凜が何を言うかを悟ったが黙って頷き、次の言葉の続きを待っていた。
「でもね、最近、わからなくなるの。翔太くんといると落ち着くし、優しくしてくれて、本当に感謝してる。嘘じゃない。翔太くんといる時間、あったかくて、大事で、でも……」
凜はそこで言葉を切った。
小さく息を吸って、目を伏せる。
「勇真のことで心が揺れるたび、自分はひどい人間だって思うの。 翔太くんのこと、ちゃんと見てるつもりなのに、ふとした瞬間勇真の顔が浮かんでくる」
「翔太くんの前で、この名前を出しちゃいけないと思ってた」
「ずっとただの幼馴染だと思っていたの、でも違った」
「翔太くんにはしっかりと私の気持ちを伝えなきゃいけないと思ったの」
翔太は、それでも優しい目で凜を見ていた。
「それが本当の気持ちっていう事だよ」
凜の目に、ぽつりと涙がにじんだ。
「ごめんね……翔太くん」
翔太は、ゆっくり首を振る。
凜の目の前にあるのは、ただ沈黙だった。
自分の胸の内を初めて翔太へ言葉にした後、風の音だけが耳に残っていた。
翔太は少しだけ空を見上げ、短く息を吐いた。
まるで何かを飲み込むように、言葉を探していた。
「そっか」
たったそれだけの返事。
でもその声は、優しくて、少しだけ切なかった。
「勇真のこと、忘れられないんだなって。いや忘れる必要なんて、ないんだろうな」
凜は顔を上げることができなかった。
ただ、目の前の濡れた地面を見つめたまま、拳を握っていた。
翔太は、そっと歩み寄って、彼女の前で立ち止まった。
「俺、君の中にまだ勇真がいること、なんとなく気づいてた。でも、だからって諦めたくなかったけど、今……俺の気持ちもはっきりした」
凜の肩が、少しだけ揺れる。
「凜……勇真の事分かってたけど、俺の意地だけで凜には無理をさせてた。これで俺たちは終わりにしよう……今まで一緒に居てくれて幸せだったよ。ありがとう」
そう言って、翔太は凜に背を向け、静かにその場を去っていく。
凜はその背中を、ずっと見つめていた。
【翔太 公園】
公園のベンチから力なく立ち上がった翔太はまっすぐ歩き出した。
信号が青に変わるのを待つあいだ、ふとポケットの中で手を握る。
さっき凜の、ほんの少しだけ震えていた手。あれを、ただ見つめていることしかできなかった自分が、少しだけ情けなかった。
(これでよかったんだよな)
自分に問いかける。
彼女が謝る必要なんて、どこにもなかった。間違いなんか、していない。
(ただやっぱり勝てなかった)その事実だけが、翔太の胸に静かに残っていた。
駅前のベンチに腰を下ろす。
通り過ぎていく人の群れの中に、凜の後ろ姿を探してしまう自分がいる。
ふと、スマホを取り出して、開いたままのメッセージ履歴を眺める。画面の中に並ぶ凜の言葉たちは、どれも優しくて、温かくて、ていねいで。
でも、どこか少し遠かった。
それでもよかった。分かってて、好きになったんだ。少しでも、となりにいられるならって、そう思ってた。
心の奥で、ずっと比べていた。テニスでも、勉強でも、恋でも……
でも、今日だけは。ちゃんと勝ち負けを受け入れられた。
翔太は、立ち上がった。そして、夜風に吹かれながら、空を見上げる。
(幸せになれよ、凜)
その言葉は、もう誰にも届かない独り言だった。だけど、翔太は少しだけ、笑った。
(俺も、ちゃんと前に進むよ)
ポケットに手を入れて、歩き出す。
歩きながら、次の練習メニューのことを考える。
次の大会、次の挑戦。
翔太には、まだやることがたくさんあった。
そしてその未来には、きっといつか、誰かが自分のことをちゃんと見てくれる日が来ると、そう信じたかった。




