― 新しい世界 ―
【大学1年夏 凜】
お互いが別々の大学に進学してから、日々は慌ただしく過ぎていく。
午前7時。
凜の一日は、まだ静かな街の空気の中で始まる。
駅までの道を歩きながら、鞄の中の分厚い教科書の重みが、彼女の背中を真っ直ぐに保っていた。
大学に入り、医学部に進んだ凜は、想像していた以上の課題や実習に追われる毎日を送っていた。
解剖学、生理学、組織、疾患。
何ページにもわたるノート。次々に出される試験範囲。
でも凜は、泣き言を言わなかった。
むしろ、誰よりも静かに、誰よりも真剣に、机に向かっていた。
その日も、白衣を着たまま大学の医療センターの一角で、凜はカルテの読み方を指導医から学んでいた。
ベッドの横で話す患者の声、電子音、薬の匂い。命と不安が交差するその場所に、凜はすっくと立っていた。
「お名前をもう一度よろしいですか?」
患者に目線を合わせ、ゆっくりと問いかける凜の声は、穏やかで落ち着いていた。
時折メモを取りながら、相手が言葉を選ぶのを最後まで待つ。
昼休み、控室の窓から外を見下ろしていると、下の中庭に、親子で散歩している患者が見えた。
凜は書類のページをめくる手を止めずに、ただ、過去の大切な想い出に、そっと心を馳せていた。
【大学1年夏 勇真】
セミの声が、暑さの輪郭をより強くする。
大学のキャンパスは夏休み直前で、どこか浮き足立った空気が漂っていた。
そんな中、勇真は学生課で資料をもらった帰り、図書館に足を運んでいた。手に取ったのは、教育実習に関するパンフレット。ページをめくるたび、知らなかった世界が広がっていく。
「先生って、やっぱ俺には向いてないかもな」
苦笑まじりに呟いた声が、誰もいない席に吸い込まれる。
先生になる、なんて。高校時代のテニス部では補欠で終わった。勉強も、得意じゃない。子どもに教える自信なんて、あるわけがない。
それでも、手はパンフレットを閉じることができなかった。
ふと、頭に浮かんだのは、透監督……凜の父親の姿だった。あの人は、厳しいけど、誰よりも生徒を見ていた。試合に出られない勇真を、誰よりも気にかけてくれていた。ただの補欠の努力も、ちゃんと見てくれていた。「目立たなくてもいい。君のような子が、誰かの背中を押せるんだよ」
生徒にとっては、とても大切な存在だった。
いつかの部室。静かな声が、今も耳に残っていた。
「じゃあ、俺も、誰かにとってそんな存在になれたらって思ったら、ダメかな」
ぽつりとこぼれた言葉は、言い訳のようで、夢の種のようでもあった。
その日の帰り道、日陰に入るたびに、風が少しだけ心地よかった。
交差点の向こうを、小学生の集団が歩いている。ランドセルを背負って、笑い合いながら、何でもない話で盛り上がっている。
(いいな、ああいうの)
気づけば、勇真はスマホを取り出していた。
「教職課程、取ってみようと思う」
誰に言うわけでもないスマホの下書きにだけ、そう打ちこんで、そっと保存する。
翌日、学生課に再び足を運ぶ。提出用紙に名前を書く手が、少しだけ戸惑っていた。その瞬間、心にふと灯った光が、未来への小さな道しるべになった。
勇真は教育学部で教職課程に進み、放課後はアルバイトに明け暮れる毎日。
そして彼のとなりには、明るくて、行動力のある彼女、麗華がいた。
「ねえ、今度お菓子作り体験行こうよ!ほら、インスタに載せたら映えるやつ!」
「えっ、俺、男ひとりで浮かない?」
「私が隣にいるんだから、全然浮かないよ。むしろ、自慢したいくらいなんだけど」
「俺、そういう役割りなの?」
笑いながらも、勇真はどこか違和感を覚えていた。でもそれを、言葉にすることはなかった。麗華はいい子だった。自分を好いてくれる、素直で明るい子だった。




