― これでよかった ―
【勇真の部屋】
(幼馴染から、変わっていくんだな……)
風が窓を揺らす夜。
体育祭・文化祭が終わって、クラスの空気が少しずつ冬休みを意識し始める頃。
勇真は自分の部屋の机に向かいながら、手元の参考書の文字を、ただ目で追っていた。
「やっぱ翔太だよな」なんて、クラスの誰もが納得していた。
(そりゃ、そうか)
彼女は今、手をつないでいる。その手は、自分じゃない。それが当たり前で、普通で、きっとお似合いで。
「凜は、もう幼馴染って呼ばれるの、嫌なんかな」
そう呟いた自分の声に、自分で少し驚いた。寂しいのかもしれない。あの頃はただ一緒にいれば良かったのに、今は何かが変わっていく。誰かのものになる、ということ。やっと少しだけ理解し始めた気がした。
笑いながら名前を呼ぶことが、どんどん難しくなっていく。それが大人になるってことなら、ちょっとだけ寂しいな、と思った。
そう思った瞬間、胸の奥にも秋の風が吹いていた。
【高校2年秋】
テニス部の三年生は先の夏の大会で引退し、これが二年生が中心となる新チームとしての初めての大会。
まだ肌に突き刺さるような日差しが残る中、翔太はレギュラーメンバーに試合に出場し新チームを引っ張っていた。
試合は自分たちの学校のコートでの開催でもあり、大勢の生徒の応援に混ざり、凜も翔太のために駆け付けている。
観客席の端に腰を下ろした麗華は、正直なところ退屈していた。女子生徒に人気のある、翔太の応援目当ての友人に誘われて来たものの、テニス部の試合に特別な関心はない。ラケットの音や歓声が交錯する中、彼女の視線はただコートの上を漫然と追っていた。
シングルスの2番手、翔太の試合。
ふと、耳に気迫のこもった声が届く。 「ナイスショット!」「次もいけるぞ!」
レギュラーメンバーに選出されなかった勇真だが、人一倍大きな声援を送っていた。
彼は立ち上がり、身を乗り出すようにして仲間へ声援を送っている。 その声はすでに掠れていて、喉の奥から絞り出すような響きになっていた。 けれど、彼は止めない。自分の出番はないのに、まるで自分の勝負であるかのように必死に声を張り上げていた。
麗華は目を離せなくなった。 汗で額が濡れ、声がかすれてもなお、彼の瞳は真剣そのものだった。 その姿は、試合を見ている誰よりも熱を帯びていて、彼の存在がチームを支えていることが伝わってきた。
胸の奥が、静かに揺れる。 「どうして、そんなに……」 疑問と同時に、説明できない感情が芽生えていた。
彼の声援は、ただの応援ではなかった。 仲間を信じる心、試合に関わるすべてを背負うような覚悟――それが声に宿っていた。 麗華は知らぬ間に、試合よりも彼の姿に釘付けになっていた。
「何で陽の当たらない場所に居るのに、あんなに一生懸命なんだろう」
【高校2年 秋の終わり】
放課後の校門を出てすぐの歩道、斜めに伸びた夕陽がアスファルトを朱に染めていた。
「寒くなってきたね」
翔太の言葉に、凜は「うん」とだけ答えた。声が小さすぎたのか、それとも風の音にかき消されたのか、翔太が少し身を寄せる。
「えっと、今日は部活が休みだから送るよ」
「ありがとう」
沈黙が、また二人の間に落ちた。一緒に歩いているはずなのに、心だけが微妙にズレているような、そんな空気が流れていた。
翔太がちらりと横を見る。凜はまっすぐ前だけを見つめ、口元は硬く閉ざされていた。手をつなぐでもない、少し距離のある並び方。付き合い始めたはずなのに、凜からは何かを拒むような静かな壁があった。
「凜……」
呼びかけると、凜はようやくこちらを向いた。
「なに?」
「その……翔太くんじゃなくて、翔太って呼んで欲しいなって、思ってた」
凜の目が一瞬だけ揺れる。だけどその揺れは、すぐに曖昧な笑みに隠された。
「うん、努力する」
努力、という言葉が、どこか寂しかった。自然に呼べるようになる関係を、なぜ努力しなければならないのか。それはきっと心のどこかがまだ、彼女のとなりの場所に別の誰かがいるからだ。
「ねぇ、私、今日はちょっと寄るとこあるから、ここで」
凜が足を止めた。
「送るよ、もう暗くなるし」
「いいの。ほんとに、ありがと」
そのまま、軽く頭を下げて、凜は背を向ける。それを引き止めることもできず、翔太はただその背中を見送った。
歩き去っていく凜の髪が、夕風になびく。
本当にこれでよかったんだろうか。付き合い始めたばかりのはずなのに、翔太の胸の中には、恋の始まり特有のときめきではなく、どこか壊れていく予感のようなものが、じわじわと広がっていた。
その夜、翔太のスマホの通知は一度も鳴らなかった。
ただの幼馴染だと、あいつは言っていた。
だけどあの時、凜が勇真を見ていたあの目は、俺には向けられたことがない。翔太はスマホの画面を伏せ、ベッドに身を沈めた。胸の奥のざらついた痛みだけが、妙に鮮明だった。
【凜の部屋】
「翔太くん」って、どうしてもくん付けで呼んじゃう。
付き合ってるのに、距離があるみたいって、翔太くんは思ってるかもしれない。 でも、私の中では、それが自然で、それ以外の呼び方が、なんだか嘘みたいで。 呼び捨てにしたら、何かが壊れてしまいそうで怖いの。
でも翔太くんには、ちゃんとした彼女でいなきゃって、どこかで思ってる。 だからこそ、呼び方ひとつで、背伸びしてる自分がいる。「翔太」って呼べたら、もっと近づけるのかな。 でも、呼ぼうとすると、喉の奥がつまる。
ごめんね、翔太くん。 あなたの優しさに、私はきちんと応えられてるのかな。 くん付けのままじゃ、きっと届かない気持ちもあると思う。
穏やかで、優しくて、ちゃんと愛されて、ちゃんと応えられる、そんな恋。
翔太くんは、何も悪くない。 むしろ、私にはもったいないくらいの人。
私のことを見てくれて、気遣ってくれて、待ってくれて。
「翔太くん」って呼ぶたびに、私は自分に言い聞かせてる。 これは今の私の恋だって。 これが私の選んだ幸せだって。




